薄幸系オメガ君、夜の蝶になる

Q矢(Q.➽)

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43 遅ればせながら…

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「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」

 母に見送られて、蛍は出勤の為に玄関を出た。空を見上げれば、今朝も青空。相変わらず雨は降りそうにないなと、軽快な足取りで駅に向かう。
 いつもと同じ朝。けれど、心の中はいつもとは全然違う朝。だって今日は、出勤場所が違うのだ。
 本日、白Tシャツの上に羽織っているのは、いつものブルーのパーカーではなく、羽黒に買ってもらってまだ袖を通していなかったネイビーの七分袖テーラードジャケット。下もネイビーの綺麗めワークパンツにしたので、一見するとカジュアルスーツのようだ。
 今日向かうように指定された先の住所は、高級住宅街として有名な地域。そこに居るのが羽黒だとわかってはいるけれど、初めての派遣先だし、初日だから挨拶もあるし、仕事の内容も色々聞く事になるのだしと、少し改まった服装にした。すぐに実務に取り掛かれるように、リュックの中には気替えの作業着も新しい手袋も入れてある。
 
(準備万端!)

 足取りはいたって軽い蛍だが、実は昨夜はあまり眠れなかった。
 羽黒は、何故蛍を呼んだのだろう。これは偶然だろうか?たまたま、仕事先に自分が居るのを知った?
 違う気がする。羽黒は、わざわざ蛍を探してくれた。そんな気がする。絶対、そうだ。
 『nobilis』退店の日。何があっても必ず来ると約束してくれていたのに羽黒は来てくれず、柚木からは「ご家族の事情」らしいと聞かされた。短い付き合いでしかなかったけれど、羽黒が平気で約束を破るような人ではないとわかっていたから、それは事実なのだと思った。だから、仕方ない。
人間には、時にどうにもならない事が起きるものだと身をもって知っている蛍には、羽黒を責める気持ちは起きなかった。ただ、寂しかった。
 羽黒を慕う気持ちが育ってきていたんだなと自覚したけれど、もう会えないのだからどうにもならない。それに、もし連絡先を知らせる事ができていたとしても、店を離れた蛍と羽黒では、あまりに生きる世界が違い過ぎる。以前と同じような交流は出来ないし、羽黒もキャストではなくなった蛍に興味を失くしていった筈だ。だって羽黒は元々、『nobilis』という店に付いていたVIP客なのだから。
 蛍はそう考えて、これが運命だったんだと自分に言い聞かせたのだった。

 だが、羽黒は蛍をみつけてくれた。もう店を辞めてから、随分経っているのに。
 
(羽黒さまも、俺に会いたかったんだって思っていいのかな…)

 もしそうなら、嬉しい。会えたら、なんて言おう。でも仕事で行くのだから、最初から笑ったりしたらいけないだろうか?馴れ馴れしくしては失礼になる?
 寝ようと横になってもそんな事ばかりを思い巡らせていたら、結局朝になってしまっていた。顔を洗うついでに洗面所の鏡を見たら、目の下が薄っすら隈になっていたけれど、まあ特には気にしない。とにかく羽黒に会えるのが嬉しくて楽しみで、朝御飯もいつもより食が進んで、目玉焼き五個とボイルソーセージ十本、二斤の食パンがトーストされて蛍の胃袋の中に消えた。野菜が無いのが気になるところだが、健康の為にと豆乳も飲んだから大丈夫。(蛍談)
 そんなこんなで浮かれた気分で家を出ての、今なのだ。洗ったばかりの白スニーカーを履いて弾むように歩く蛍は、同じ方向に向かって歩く通勤通学者達をどんどん追い抜いていく。
 多少早く駅のホームに着いたとて、乗れる電車が早まる訳でもないのだけれど、蛍の足は止まらなかった。

 その横は通過した事があり、駅名は知っていても、降りた事はない。誰しもにそんな駅があるように、蛍もその駅に、その朝初めて降り立った。
 高級住宅街を擁するという前情報があるからか、どこにでもある高層ビルも何となく洗練されて見えるような。
朝っぱらから周囲をキョロキョロと物珍しげに見回している蛍を、少し不思議そうな顔で見ながら通り過ぎていく駅の利用客達。乗り込むラッシュ時間は過ぎているからか、人はまばらだ。
 よく見ると、車の往来する大通りの向こうは公園になっているようで、周りを青々と茂る街路樹が囲っている。蛍は一頻り景色を堪能すると、右手に持ったスマホに視線を落とした。その画面には、目的地までの経路を示した地図が表示されている。

(えっと…こっから左か)

 矢印に従って歩き始めると、数分進んだところで経路が右に折れた。車道からほんの少し脇道に入っただけで、景色は嘘のように閑静な住宅街に変わっていく。大きな屋敷が何軒も立ち並ぶ中に真新しい瀟洒なマンションが現れて、道案内はそこで終わっていた。
 蛍は視線を上げて、マンションの全容をまじまじと確認した。俗に言うタワーマンションではなく、そのマンションは四階までしかない。

「ここだよね…?」

 如何にも高級マンションですと言わんばかりにぴかぴかに磨かれた大理石の柱や壁面に珍しく気後れしながら、蛍はマンションのエントランスプレートを確認した。
 
『レジデンス・オニキス 』

 マンション名一致。間違いないと胸を撫で下ろしながら指定された401を押すと、落ち着いた男性の声が応答した。

『はい』
「あっ、あの、恐れ入ります!ヒルズクリーンから参りました、白川ですっ!」
『ああ、はい、白川様。どうぞ』

 昨日から羽黒で頭がいっぱいだった所為か、羽黒の声が応えてくれるのを期待していた自分に気づき、恥ずかしくなる蛍。個人宅への派遣部門だと聞いていたから、余計にそう思い込んでしまっていた。しかし考えてみれば、今回の事は新部門設立に大いに関係していると言われた。羽黒側の社員なども呼ばれていても、何ら不思議はない。
 勝手に期待した事に反省しながら、蛍は開いた自動ドアの中に足を踏み入れた。

 エントランスホールは、広く明るく美しく、まるで劇場のロビーのようだった。蛍にとっては、こんなところに人間が住んでいるとは思えないくらい現実味が無い。そりゃ、テレビのドラマなんかでは登場人物がそういうマンションに住んでいることもあるし、蛍自身も高級マンションやタワーマンションを目にしたり近くを通ったりはしているけれど、入った事がないからリアリティが無かったのだ。
 食事する高級レストランなら羽黒に連れられてあちこち行ったし、内装が豪華な店も見たけれど、店と人の住居の造りは違う。
 なので、初めて通るハイソサエティなマンションの高級ホテルさながらのエントランスホールを、エレベーターのある場所まで、蛍は緊張しながらも物珍しげに観察しながら歩いた。

(羽黒さまは、毎日ここを通られてるんだ…)

 そう思いつつエレベーターホールに到着。四基並んだ中の、向かって一番右端のエレベーターで上がるようにと記述があったのを思い出し、一番奥のエレベーターの前へと歩を進める。して、その前に立った瞬間。
 音もなくドアが開いた。
 タイミングにびっくりして固まりかけた蛍の目に飛び込んできたのは、満面の笑みを湛えた羽黒の姿。久々に見る羽黒は、目に馴染んだカッチリとしたスーツ姿ではなく、シャツにスラックスのみ。よほど急いで降りて来たのか、そもそもセットをしていなかったのか、綺麗な黒髪はさらりと額に下りていた。 

「ほたるくん!」
「え、は、は、はぐ…」

 大きく両腕を広げながらエレベーターから降りてきた羽黒に力いっぱい抱きしめられて、最後まで名前が呼べない。薄いシャツ越しの逞しい胸筋に顔を埋める形になると、羽黒の香りがした。懐かしいそれに、蛍の涙腺が緩む。

「会いたかったよ、ほたる君。どれだけ捜したか」
「はぐろ、さま…おれも…」

 我慢しようと思った涙は止まってくれないし、なのに出したい声は思うように出てくれない。
 羽黒の匂いと温もりに包まれて泣きながら、蛍は思った。

(ああ、そっか。俺、羽黒さまに会いたいだけじゃなかったんだ。ずうっと羽黒さまが、恋しかったんだ)

 人より少し…いや、かなり鈍感な蛍は、遅まきながらこの時ようやく、自分が羽黒に抱いている感情が恋心だったのだと、自覚したのだった。


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