43 / 52
43 遅ればせながら…
しおりを挟む「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
母に見送られて、蛍は出勤の為に玄関を出た。空を見上げれば、今朝も青空。相変わらず雨は降りそうにないなと、軽快な足取りで駅に向かう。
いつもと同じ朝。けれど、心の中はいつもとは全然違う朝。だって今日は、出勤場所が違うのだ。
本日、白Tシャツの上に羽織っているのは、いつものブルーのパーカーではなく、羽黒に買ってもらってまだ袖を通していなかったネイビーの七分袖テーラードジャケット。下もネイビーの綺麗めワークパンツにしたので、一見するとカジュアルスーツのようだ。
今日向かうように指定された先の住所は、高級住宅街として有名な地域。そこに居るのが羽黒だとわかってはいるけれど、初めての派遣先だし、初日だから挨拶もあるし、仕事の内容も色々聞く事になるのだしと、少し改まった服装にした。すぐに実務に取り掛かれるように、リュックの中には気替えの作業着も新しい手袋も入れてある。
(準備万端!)
足取りはいたって軽い蛍だが、実は昨夜はあまり眠れなかった。
羽黒は、何故蛍を呼んだのだろう。これは偶然だろうか?たまたま、仕事先に自分が居るのを知った?
違う気がする。羽黒は、わざわざ蛍を探してくれた。そんな気がする。絶対、そうだ。
『nobilis』退店の日。何があっても必ず来ると約束してくれていたのに羽黒は来てくれず、柚木からは「ご家族の事情」らしいと聞かされた。短い付き合いでしかなかったけれど、羽黒が平気で約束を破るような人ではないとわかっていたから、それは事実なのだと思った。だから、仕方ない。
人間には、時にどうにもならない事が起きるものだと身をもって知っている蛍には、羽黒を責める気持ちは起きなかった。ただ、寂しかった。
羽黒を慕う気持ちが育ってきていたんだなと自覚したけれど、もう会えないのだからどうにもならない。それに、もし連絡先を知らせる事ができていたとしても、店を離れた蛍と羽黒では、あまりに生きる世界が違い過ぎる。以前と同じような交流は出来ないし、羽黒もキャストではなくなった蛍に興味を失くしていった筈だ。だって羽黒は元々、『nobilis』という店に付いていたVIP客なのだから。
蛍はそう考えて、これが運命だったんだと自分に言い聞かせたのだった。
だが、羽黒は蛍をみつけてくれた。もう店を辞めてから、随分経っているのに。
(羽黒さまも、俺に会いたかったんだって思っていいのかな…)
もしそうなら、嬉しい。会えたら、なんて言おう。でも仕事で行くのだから、最初から笑ったりしたらいけないだろうか?馴れ馴れしくしては失礼になる?
寝ようと横になってもそんな事ばかりを思い巡らせていたら、結局朝になってしまっていた。顔を洗うついでに洗面所の鏡を見たら、目の下が薄っすら隈になっていたけれど、まあ特には気にしない。とにかく羽黒に会えるのが嬉しくて楽しみで、朝御飯もいつもより食が進んで、目玉焼き五個とボイルソーセージ十本、二斤の食パンがトーストされて蛍の胃袋の中に消えた。野菜が無いのが気になるところだが、健康の為にと豆乳も飲んだから大丈夫。(蛍談)
そんなこんなで浮かれた気分で家を出ての、今なのだ。洗ったばかりの白スニーカーを履いて弾むように歩く蛍は、同じ方向に向かって歩く通勤通学者達をどんどん追い抜いていく。
多少早く駅のホームに着いたとて、乗れる電車が早まる訳でもないのだけれど、蛍の足は止まらなかった。
その横は通過した事があり、駅名は知っていても、降りた事はない。誰しもにそんな駅があるように、蛍もその駅に、その朝初めて降り立った。
高級住宅街を擁するという前情報があるからか、どこにでもある高層ビルも何となく洗練されて見えるような。
朝っぱらから周囲をキョロキョロと物珍しげに見回している蛍を、少し不思議そうな顔で見ながら通り過ぎていく駅の利用客達。乗り込むラッシュ時間は過ぎているからか、人はまばらだ。
よく見ると、車の往来する大通りの向こうは公園になっているようで、周りを青々と茂る街路樹が囲っている。蛍は一頻り景色を堪能すると、右手に持ったスマホに視線を落とした。その画面には、目的地までの経路を示した地図が表示されている。
(えっと…こっから左か)
矢印に従って歩き始めると、数分進んだところで経路が右に折れた。車道からほんの少し脇道に入っただけで、景色は嘘のように閑静な住宅街に変わっていく。大きな屋敷が何軒も立ち並ぶ中に真新しい瀟洒なマンションが現れて、道案内はそこで終わっていた。
蛍は視線を上げて、マンションの全容をまじまじと確認した。俗に言うタワーマンションではなく、そのマンションは四階までしかない。
「ここだよね…?」
如何にも高級マンションですと言わんばかりにぴかぴかに磨かれた大理石の柱や壁面に珍しく気後れしながら、蛍はマンションのエントランスプレートを確認した。
『レジデンス・オニキス 』
マンション名一致。間違いないと胸を撫で下ろしながら指定された401を押すと、落ち着いた男性の声が応答した。
『はい』
「あっ、あの、恐れ入ります!ヒルズクリーンから参りました、白川ですっ!」
『ああ、はい、白川様。どうぞ』
昨日から羽黒で頭がいっぱいだった所為か、羽黒の声が応えてくれるのを期待していた自分に気づき、恥ずかしくなる蛍。個人宅への派遣部門だと聞いていたから、余計にそう思い込んでしまっていた。しかし考えてみれば、今回の事は新部門設立に大いに関係していると言われた。羽黒側の社員なども呼ばれていても、何ら不思議はない。
勝手に期待した事に反省しながら、蛍は開いた自動ドアの中に足を踏み入れた。
エントランスホールは、広く明るく美しく、まるで劇場のロビーのようだった。蛍にとっては、こんなところに人間が住んでいるとは思えないくらい現実味が無い。そりゃ、テレビのドラマなんかでは登場人物がそういうマンションに住んでいることもあるし、蛍自身も高級マンションやタワーマンションを目にしたり近くを通ったりはしているけれど、入った事がないからリアリティが無かったのだ。
食事する高級レストランなら羽黒に連れられてあちこち行ったし、内装が豪華な店も見たけれど、店と人の住居の造りは違う。
なので、初めて通るハイソサエティなマンションの高級ホテルさながらのエントランスホールを、エレベーターのある場所まで、蛍は緊張しながらも物珍しげに観察しながら歩いた。
(羽黒さまは、毎日ここを通られてるんだ…)
そう思いつつエレベーターホールに到着。四基並んだ中の、向かって一番右端のエレベーターで上がるようにと記述があったのを思い出し、一番奥のエレベーターの前へと歩を進める。して、その前に立った瞬間。
音もなくドアが開いた。
タイミングにびっくりして固まりかけた蛍の目に飛び込んできたのは、満面の笑みを湛えた羽黒の姿。久々に見る羽黒は、目に馴染んだカッチリとしたスーツ姿ではなく、シャツにスラックスのみ。よほど急いで降りて来たのか、そもそもセットをしていなかったのか、綺麗な黒髪はさらりと額に下りていた。
「ほたるくん!」
「え、は、は、はぐ…」
大きく両腕を広げながらエレベーターから降りてきた羽黒に力いっぱい抱きしめられて、最後まで名前が呼べない。薄いシャツ越しの逞しい胸筋に顔を埋める形になると、羽黒の香りがした。懐かしいそれに、蛍の涙腺が緩む。
「会いたかったよ、ほたる君。どれだけ捜したか」
「はぐろ、さま…おれも…」
我慢しようと思った涙は止まってくれないし、なのに出したい声は思うように出てくれない。
羽黒の匂いと温もりに包まれて泣きながら、蛍は思った。
(ああ、そっか。俺、羽黒さまに会いたいだけじゃなかったんだ。ずうっと羽黒さまが、恋しかったんだ)
人より少し…いや、かなり鈍感な蛍は、遅まきながらこの時ようやく、自分が羽黒に抱いている感情が恋心だったのだと、自覚したのだった。
1,260
あなたにおすすめの小説
昔「結婚しよう」と言ってくれた幼馴染は今日、僕以外の人と結婚する
子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき
「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。
そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。
背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。
結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。
「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」
誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。
叶わない恋だってわかってる。
それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。
君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
---
いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
番解除した僕等の末路【完結済・短編】
藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。
番になって数日後、「番解除」された事を悟った。
「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。
けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。
運命よりも先に、愛してしまった
AzureHaru
BL
幼馴染で番同士の受けと攻め。2人は運命の番ではなかったが、相思相愛だった。そんな時、攻めに運命の番が現れる。それを知った受けは身籠もっていたが、運命の番同士の子供の方が優秀な者が生まれることも知っており、身を引く事を決め姿を消す。
しかし、攻めと運命の番の相手にはそれぞれに別の愛する人がいる事をしり、
2人は運命の番としてではなく、友人として付き合っていけたらと話し合ってわかれた。
その後、攻めは受けが勘違いしていなくなってしまったことを両親達から聞かされるのであった。
【完結済】極上アルファを嵌めた俺の話
降魔 鬼灯
BL
ピアニスト志望の悠理は子供の頃、仲の良かったアルファの東郷司にコンクールで敗北した。
両親を早くに亡くしその借金の返済が迫っている悠理にとって未成年最後のこのコンクールの賞金を得る事がラストチャンスだった。
しかし、司に敗北した悠理ははオメガ専用の娼館にいくより他なくなってしまう。
コンサート入賞者を招いたパーティーで司に想い人がいることを知った悠理は地味な自分がオメガだとバレていない事を利用して司を嵌めて慰謝料を奪おうと計画するが……。
運命じゃない人
万里
BL
旭は、7年間連れ添った相手から突然別れを告げられる。「運命の番に出会ったんだ」と語る彼の言葉は、旭の心を深く傷つけた。積み重ねた日々も未来の約束も、その一言で崩れ去り、番を解消される。残された部屋には彼の痕跡はなく、孤独と喪失感だけが残った。
理解しようと努めるも、涙は止まらず、食事も眠りもままならない。やがて「番に捨てられたΩは死ぬ」という言葉が頭を支配し、旭は絶望の中で自らの手首を切る。意識が遠のき、次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる