背徳の病

Q矢(Q.➽)

文字の大きさ
3 / 10

3

しおりを挟む

 結局、子供が産まれる前にとの妻の希望で、弁護士を挟み篠井は離婚。何故この時期にここまで急いで離婚したがるのかとは思ったが、本当に不貞行為が無かったかなどを調べてみようという気力も起きなかった。そんな事をせずとも、妻側からの申し出という事で相応の慰謝料を提示された。妻の実家は裕福なので、おそらく出処は義父だろう。受け取るべきなのか迷ったが、妻側の弁護士の、『貴方に責任の無い離婚だったという証明として受け取る方が良いと思います』という言葉に納得して納めた。確かに自分の気持ちの問題であり篠井に落ち度は無いと妻も言っていた。
 残されたのは腹の子の養育費の問題で、父親としての義務を果たすべく月5万の申し出をしたが、拒否された。自分の身勝手で振り回してしまった篠井に、これ以上負担を強いたくはない。だが代わりに子供との面会権を放棄してくれないか、というのが妻の要求だった。
 これにはかなり迷った篠井だったが、つまり妻はこうまでして徹底的に自分との関係を断ちたいのだろうと思い至ると、気が滅入ってしまい、結局頷いてしまった。もうこの離婚の背後に実際は何があるのかなど、探ったところで何も元には戻らないのだと諦念した。
 
 結果、篠井は離婚から今日まで、我が子と会った事が無い。元妻は産まれた後にその連絡と赤ん坊の写真を添付したメールを送ってきたが、それ以降は本当に篠井との連絡を一切絶ってしまった。
 だから篠井が知っているのは、産まれた子供が男の子だという事だけで、名前すら教えてもらえていない。

 息子の事は気になりつつも、篠井はその事で元妻に連絡を入れたりはしなかった。あれだけスッパリと拒絶されてしまって心が折れたというのもある。弱っていた彼女につけ込んで事を運んだという後ろめたさもあった。何より、元妻は既に新しい生活を送り始めている。もし再婚でもしているのなら、そこに水をさすべきではないだろう。
 篠井は月々の養育費を銀行口座に貯めていく事にした。今はこんな状況でも、その内子供に会える日が来るかもしれない。その時もし子供に必要ならば渡してやろうと決めていた。

 しかし、それから20年。
 未だに我が子に会える機会も無く、ここまで来てしまった。元妻との事以来、他人と深く関わるのも怖くなってしまったから、恋人すら作れなかった。でも四十路を迎えた辺りからは、もうこれが気楽だと感じている。
 しかし、そんな経緯があるからだろうか。自分を慕ってくれる若者に、篠井は妙に弱い。特に最近知り合ったシオンは息子より2歳ほど下らしいが、篠井くらいの年齢になれば2歳くらいは誤差の範囲だ。
息子と同じような年頃の、端正で美しい容姿の青年に人懐っこくされれば、「息子もこんなに成長しているんだろうか…」などと思いつつもしんみりとしたりして。成長を見守る事が出来なかった息子に思いを馳せる事が増えたように思う。
 そして、帰宅途中でシオンと会ってしまったこの日も、ダイニングバーのカウンターで鮎の塩焼きに舌鼓を打ちながら花冷えの吟醸を流し込み、本当に良い気分だった。

 しかし、何事も過ぎたるは猶及ばざるが如しとはよく言ったもので。
 
 翌朝、篠井が目覚めたのは、自分の部屋のマットレスの上だった。見慣れた天井に、見慣れた家具。しかし、何だか首や…いや、体中のあちこちが少し痛く、重い気がした。
 ズキズキと痛む頭の中を無理矢理回転させると、ぼんやりと昨夜の事が断片的に思い出されてきた。
 
(そうだ、確かシオン君に会ったんだっけ。それであぶ屋に寄る事にしたんだった…)

 お通しのもずくの梅酢が美味くて、その後出てきた鮎の塩焼きで日本酒を飲って…。少し回りが早かったかもしれない。酔いが深くなると寝てしまうからと気をつけていたのに、途中で記憶が途切れてしまっている。しかし自室のベッドに寝ているという事は、何とか自力で帰宅出来たらしい。
 記憶は途切れているもののきちんと帰宅している事に安心すると、今度は急激に喉が渇いてきた。完全なる二日酔いだ。
 篠井は起き上がり、水を飲む為にキッチンへ向かおうとベッドを降りた。何だか頭だけではなく全身が怠い。若干ふらつくのでゆっくりと歩き、キッチンに着いた。
 二日酔いだから常温の水の方が良いだろうと、冷蔵庫に入っているボトルではなくカウンター下の収納を開ける。そこには買い置きの500mlの水のボトルが2ダースほど入っており、篠井はその一番手前の1本を手にして立ち上がった。一人暮らしなのでダイニングテーブルなんて物は置いてはおらず、そのままソファのあるリビングに向かう。ソファに腰を下ろし、開栓したボトルから直接水を煽る。一気に半分ほども飲んでしまうと、やっと人心地ついた気がした。

 ふと、視界に何か異物が映り込んだような気がした。妙な既視感。
 ソファの前にあるローテーブルに目をやると、そこにはB5サイズより少し小さめの紙が置いてある。
 篠井がそれを手にすると、その紙には罫線があり、どうやらノートの1ページを抜いたのだとわかった。そして、そこには丁寧な手書き文字が。

『玄関を閉めるのにカギを使ったので、玄関のポストから入れておきます。確認してください。
起きたらお水飲んでくださいね。お薬があれば、飲んだ方が良いと思います。お大事に。
またお待ちしてますね。지한(しおん ) 』

「……」

 篠井は、暫し呆然とした。書かれた文章と最後に記されたハングル文字、昨夜の記憶を重ね合わせると、該当者は1人しか思いつかない。
 篠井は、自分の胸元に視線を落とした。いつもパジャマに着ているグレーのスウェットの上下。

(まさか、これも…?)

 自力で帰ってきたと思っていたが、実はそうではなかった。さっき起きた時のベッド周りはいつもと変わりなく片付いていた。酔っ払いがひとりで帰って来て、荷物を所定の位置に置き、あれだけきちんとスーツをハンガーに掛けて、着替えまでしてベッドに入れるとは思えない。

 篠井は天井を仰ぎ、深く溜息を吐いた。

(シオン君に迷惑をかけてしまった…)

 おそらく酔い潰れて寝てしまった篠井を、バイト終わりのシオンが送り届けてくれたのだろう。篠井の自宅マンションが近いという話はしていたから、マスターにでも頼まれたのかもしれない。会話の中でマンション名くらいは出した事はあるが、号室までは言った記憶がない。おおかた財布に入れてある免許証か何かを見たのだろうが、勝手に見たのかと咎められる立場でもない。

(申し訳ない事をしてしまった…)
 
 体格の良い若者ではあるが、それでも酔って意識の無い男はさぞかし重かったに違いない。肩を貸してここまで辿り着いたのだろうか、それとも背負って?いっそその方が早いか。
 単なるダイニングバーのバイトに出て、酔った常連の中年親父の面倒まで見る羽目になったシオンが哀れでならない。しかも着替えまで…。
まさかこの歳になって、あんな若者に醜態を晒す事になるとは…と、篠井の頭痛は更に酷くなるばかりだった。


しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

縁結びオメガと不遇のアルファ

くま
BL
お見合い相手に必ず運命の相手が現れ破談になる柊弥生、いつしか縁結びオメガと揶揄されるようになり、山のようなお見合いを押しつけられる弥生、そんな折、中学の同級生で今は有名会社のエリート、藤宮暁アルファが泣きついてきた。何でも、この度結婚することになったオメガ女性の元婚約者の女になって欲しいと。無神経な事を言ってきた暁を一昨日来やがれと追い返すも、なんと、次のお見合い相手はそのアルファ男性だった。

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

鳥籠の夢

hina
BL
広大な帝国の属国になった小国の第七王子は帝国の若き皇帝に輿入れすることになる。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です

ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」 「では、契約結婚といたしましょう」 そうして今の夫と結婚したシドローネ。 夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。 彼には愛するひとがいる。 それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?

美形な幼馴染のヤンデレ過ぎる執着愛

月夜の晩に
BL
愛が過ぎてヤンデレになった攻めくんの話。 ※ホラーです

ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学で逃げ出して後悔したのに、大人になって再会するなんて!?

灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。 オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。 ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー 獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。 そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。 だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。 話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。 そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。 みたいな、大学篇と、その後の社会人編。 BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!! ※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました! ※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました! 旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」

記憶の代償

槇村焔
BL
「あんたの乱れた姿がみたい」 ーダウト。 彼はとても、俺に似ている。だから、真実の言葉なんて口にできない。 そうわかっていたのに、俺は彼に抱かれてしまった。 だから、記憶がなくなったのは、その代償かもしれない。 昔書いていた記憶の代償の完結・リメイクバージョンです。 いつか完結させねばと思い、今回執筆しました。 こちらの作品は2020年BLOVEコンテストに応募した作品です

処理中です...