背徳の病

Q矢(Q.➽)

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 週明け月曜日。
 篠井は定時で退勤し、そそくさと職場を出た。今夜はシオンの勤めるあのダイニングバー・あぶ屋へ行くと決めている。本当なら、すぐにも詫びに行きたかったのだが、あぶ屋に電話を掛けるとマスターにシオンのシフトは月、水、金だと言われてしまった。そう言えば、あぶ屋に寄るのは何故かいつも週末金曜が多かったなと思い出す。他の日に寄る事がなかったから、いつ行っても彼が居るように錯覚していたのだろう。
 
 そして日曜日を挟み、月曜日。今日こそは金曜の晩の事を詫びねばと、朝から気構えていた。よほど深酒してしまったのか、この土日は殆ど動けず、今朝になっても体が重かった。歳を取ると二日酔いがこんなにも尾を引くものなのか、などとげんなりしたり。
 幸いデスクに座ってしまえば気が張るのか、仕事はいつものペースで進められのが救いだった。


 金曜と同じように電車を降りて、他の帰宅客に混じって駅の階段を降りる。蒸し暑さに顔を手で扇ぎながら駅を出て左に曲がり、車の行き交う車道沿いを進むと、左手の路地の入り口に小さな立て看板が見えてくる。その路地を入ってすぐ、壁面が煉瓦造りになったビルの1階に、あぶ屋はある。この辺りでは他に見ないような少し洒落た店構えのダイニングバーだ。店内は和洋折衷の内装で、ほの暗くライティングがまったりと気持ちを落ち着かせる。周辺の店よりも客単価が高いからなのか、騒ぐような客もおらず居心地が良い。メニューは和食が基本だが、和食をアレンジした洋風料理もあり、酒はマスターが吟味した日本酒を始め、ある程度の品数を揃えていた。最近ではメクチュやソジュ、マッコリなどの韓国の酒も追加されている。まだ18だというシオンがそうするように勧めたとは考えにくいが、韓国人留学生のバイトが居ると聞いて来店する韓流好きの客も少なくないと聞いたから、そういった層向けに置いたのかもしれない。

 そんな取り留めもない事を考えつつ、篠井は店の扉を押した。すぐに顔馴染みの店員がいらっしゃいませと言いながら寄って来て、篠井だと気づくと愛想の良い微笑みを浮かべた。まだ客は少なく、席は何処も空いているが、篠井はいつものカウンター席への案内を頼み、座った。
 鞄を座席下にある長方形の籐籠に入れてお手拭きで手を拭いていると、すぐにカウンター越しにシオンが立った。

「いらっしゃいませ篠井さん」

「あ、うん、こんばんは」

 シオンは水仕事でもしていたのか、キッチンタオルで手を拭いている。

「珍しいですね、月曜日にいらっしゃるの。何飲まれますか?明日お仕事ですよね?お茶にしときましょうか」

 篠井の前にコースターを置きながら、シオンは少し小首を傾げる。そんな仕草が可愛らしく感じるのは、若い女性に限った事ではないのだな、と篠井は見る度に感心した。

「そうだね。じゃあ、ジャスミンティーを」

「かしこまりました。お料理はどうしますか?」

「あ、ええと…」

 優しくゆったりした口調ながらテキパキしていて、謝罪する隙がない。詫びを入れるのはオーダーを通してからの方が良さそうだと判断し、篠井は山芋の短柵切りと今日のおすすめだというスズキの洗い、それから天ぷらをおまかせで頼んだ。土日から今日の昼まで、用心して軽めのものばかりにしていたから、そろそろ本格的に腹が減っている。

 シオンはオーダーを通しに一旦厨房へ向かい、ジャスミンティーのグラスとお通しのオクラの酢の物の小鉢を持って戻ってきた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 篠井はコースターの上に置かれたジャスミンティーを右手に持ち、一口飲んでからシオンに声をかけた。

「あの、この間は大変ご迷惑をかけて申し訳ない」

 そう言って頭を下げると、シオンがふっと笑うのが聞こえた。顔を上げてシオンを見ると、彼はその蜂蜜色の瞳は細めながら静かに篠井を見ていた。その薄らと浮かべている微笑みが、いつものシオンとは何処か異質なもののように思えて、篠井は小さく息を飲む。が、シオンはすぐにいつもの人懐っこい笑顔になって、篠井に問いかけた。

「本当ですよ。篠井さん、呼んでも全然起きないんですもん。お家の場所は聞いてましたけど、部屋番号までは聞いてなかったからお財布見せてもらいましたよ」

「ああ、それは仕方ないよ。本当にありがとう。とんだご迷惑をかけてしまって…」

「…体、もう大丈夫なんですか?」

「ああ、お陰様で。まあでも、この歳になると抜けるのにだいぶかかって参ったよ」

 シオンがいつもの調子で話してくれるので、やっと謝罪ができて篠井はホッとした。どうやら先ほどの違和感は気の所為だったようだ。

「お水は少し飲ませたんですけど、薬は何処かわからなくて、着替えだけさせてもらって帰りました。すいません」

「いやそんな!着替えなんて良かったのに、本当にお手間を取らせてしまって…何とお詫びして良いやら」

 すいませんなんて謝られると、それはこちらのセリフだと、篠井はますます身の置き所がなくなってしまう。

「本当…こんなおじさんの裸なんか見せちゃって申し訳ない。もう玄関入ったとこにでも放置して帰ってくれても全然良かったのに…」

 しょんぼりと肩を落としてそう言った篠井とは対照的に、シオンは笑みを浮かべながらそれに答えた。

「それはまあ…僕が好きでやった事なのでお気になさらず」

「いや、酔客を自宅に送るなんて重労働をさせておいて礼もしない訳には。何か僕にできる事があれば言って欲しい」

「ええ…そう言われても…」

「何か無い?欲しいものとか」

「うーん…」

 シオンが腕を組んで唸り始めたのを見て、篠井はそれにも申し訳なくなる。
 そもそもシオンはアルバイトをしていると言っても、それは留学先での経験としてなのだと言っていた。実家は裕福らしく、それは彼の育ち良さげな立ち居振る舞いや、さり気なく身に付けている上品な物達からも窺い知る事が出来るのだ。
 つまり彼は、金にも物にも困ってはいない。そんな人間に無理矢理礼をするのは自分の自己満足の為のような気もしてくる。オクラの酢の物に箸を付け、ちびちびと口に運びながら、篠井は悩んだ。

 「あ、それなら」

 不意にシオンが弾んだ声を出した。

「え、なに?なにかある?」

「はい、ありました!」

 無邪気な笑顔から悪戯っぽい笑みに変わったシオンが、カウンター越しに少し乗り出して言う。

「じゃあ、篠井さん。今週の土曜日、デートしてください」

 思いがけない言葉に、篠井はぽかんと間の抜けた顔になってしまった。聞き間違いだろうか。

「…デート?」

「はい、デート。…と言っても、僕、行ってみたい和食のお店があるんです。でも、僕みたいな年齢で気軽に入れるようなお店じゃなくて」

「あ、ああ…なるほど…そういう事か」

 何の事はない。つまり、若者では敷居の高い高級店に連れて行ってご馳走したら良いという事だ。

「そんな事ならお安い御用だよ。わかった、土曜だね」

「やった!ありがとうございます!嬉しいです!」

 シオンの満面の笑みに、篠井はようやく、今日始めて安堵の笑みを浮かべた。
 そのタイミングでシオンは厨房から呼ばれ、出来上がった料理を取りに向かって行きがてら…

「まあ、実はもうもらってるんだけどなあ…」

と呟いたのは、誰の耳にも届いてはいない。





 

 

 
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