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32 軽率
しおりを挟む昼間の往来に人通りは絶えない。人の視線を煩く思ったのか、鳥谷は斗真をすぐ傍のビルとビルの隙間に引き入れ、壁に押し付けた。2人のすぐ近くには通行人も居たのだが、鳥谷に壁ドンされる形になっている斗真を目にして、カップルの痴話喧嘩だとでも思ったのかすぐに目を逸らし通り過ぎていく。
(まあでも此処なら、助けを呼ぼうと思えば何時でも呼べるか…。)
斗真はそう腹を括り、真っ直ぐに鳥谷の目を見た。
「俺がベータなのもご存知なんですね。」
どうせ調べたのだろうと思いながら、斗真はそう口にした。まさか庄田の運命の番であるという鳥谷が現れるとは思わなかったが、もしやこれも庄田の想定していた事の一つなのだろうか。
一緒に住み始めた時、斗真は庄田に、日常的にガードする事をある程度許して欲しいと言われた。斗真は初め、それが羽純を失くした事故に対する後悔から出た言葉なのかと思っていた。だがよく聞いてみれば、庄田の危惧はそれだけではなかった。
庄田から、自分は将来的には祖父の会社を継ぐ唯一の後継者なのだと聞かされた。名を聞いて驚いたのだが、庄田の祖父の会社は、ここ数年で市場を拡大してきた企業だった。そんな企業の跡継ぎである庄田の番の位置が空いているとなれば、そこに自分の息子や娘を捩じ込みたいと考える人間も、庄田本人に惹かれて自らそれを望む人間だって少なくない。にも関わらず、そこに入った人間がオメガならともかく、番にもなれないベータの男だとわかれば、良からぬ考えを起こす人間が居ないとも限らない。
『ごめん、後出しみたいになって。』
申し訳無さそうに謝る庄田に、『とうに離れられなくなってから言うなんて狡い』、と斗真は答えた。そして、恋人になった日から始まったあの送迎にはそんな意味もあったのかと理解した。単なる甘やかしだと思っていたが、そんな理由があるならまだ気がラクになる。
だから了承した。大袈裟な警護ではなく、庄田が守ってくれる範囲でならそれに甘えようと。それで彼の気が済むのなら、多少窮屈に感じるこの暮らしも我慢できると思った。
だがそんな隙間を狙ったかのように、この鳥谷という男は斗真に接触を図ってきた。
行動パターンを調べ上げたからこそ、ピンポイントでこの日のこの時間なのだろう。知らなければ会社帰りなどを狙う筈だ。
だが何故今更、と思う。庄田は運命を選ばなかった。斗真を傍に置いている今も、選ぶ気はないだろう。相手も自分には興味を失くしたようだと聞いていたのに、何故?
「貴方は匠とは不仲だと聞いています。何故、今更?」
斗真の問いに、鳥谷は余計に目を眇めたように見えた。
「…偽物が消えたんだから、俺のものは俺の所に来るべきだろ。」
「は?」
「返せ、って言ってんの。」
やはりそうか、と思った。
庄田には不仲と聞いていたが、この様子では鳥谷の方はそうでもなかったらしい。でなければ、わざわざ斗真に会いに来てこんな事は言わない。
おおかた、庄田に正攻法で迫っても拒絶されるから斗真に話をつけて身を引かせたいのだろう。
確かに、少し前までの斗真なら、すんなり身を引いただろうから、それは有効な手段だった。だが今は違う。
斗真は目を閉じ、ゆっくり息を整えた。それに鳥谷が訝しげな顔をするのが、再び目を開いた時に見えた。
「鳥谷さん。」
斗真は静かに唇を開いた。
「さっきも言いましたが、俺は全てを飲み込んで匠の傍に居ます。匠が貴方と番になる事を望むのなら話は別ですが、例え俺が消えたとしても匠が貴方を受け入れる事は無いと思いますよ。」
鳥谷の目眉が吊り上がり、顔は真っ赤になった。右手を振り上げられて殴られるのを覚悟して目を固く閉じたが、斗真の頬に衝撃は降りては来なかった。
代わりに、覚えのある感触が唇を襲った。
(なん、で…?)
見開いた目のごく至近距離に、鳥谷の燃えるような瞳がある。
長く、密集した睫毛に囲まれた、美しい黒い瞳。だがその奥には苛立ちと憎悪と憤怒の炎がチラついている。
「…ん、む…、」
舌を捩じ込まれて、くちゅり、と唾液が音を立てた。口内を暴かれ、呼吸を奪われる。何一つ労りも優しさもない、激情をぶつけられるだけのキスだった。
逃れようと身を捩るのに、片腕で腰をがっしりと掴まれ、両足の間には膝を割り入れられている。背中はコンクリートの壁。
唇を貪られながら、斗真は後悔した。
最初は見た目で警戒したのに、オメガだと知って油断してしまった。斗真にとってオメガは、雅紀を初めとする過去の恋人達や、庄田に聞いた羽純、それら数人からのイメージしかないのだ。
つまり、受動的である、というーー。
オメガの男性はベータである自分よりも頼りなく、力も弱く、守ってやらなければならない存在。そういう思い込みがあった。だからこんな場所に引っ張り込まれても、何かあればすぐに逃げられるだろうなんて甘く考えていたのだ…。何という軽率。
オメガだって、れっきとした男だという事を、失念していた。
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