少年は雨を連れてくる

桐坂

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四章

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「ナギサと私は同じ歳に生まれた。性の違う兄弟のようなものだった。ナギサは笑顔の絶えない女性だったよ」

 ニナギがかろうじて思い出せるのは笑顔だった。

「笑顔はナギサの癖みたいなものでな。周りも笑顔になったら万々歳じゃないかといつも言っていた」
「ユハは最初は嫌そうだったがな、段々つられて笑顔になったものじゃ」
「巫女様」

 巫女の茶々入れを指摘しつつ、彼は話す。
 巫女は父のそんな様子に肩をすくめた。

「彼女は山の気を読むのもとても得意だった。ニナギが気を読むのが得意なのは彼女譲りなところがある」
「へー母さんもそうだったんだ」

 意外なつながりだ。訓練はあったが、気を読むことに関して苦労した思い出はない。舞と剣の稽古の方がよっぽど大変だった。

「彼女の周りは生命に溢れていたよ。動植物を見る目がとても優しかったのを覚えているよ。そうだ、その目元はニナギとよく似ている」

 父親のくっきりとした顔立ちと違って、ニナギの雰囲気は柔らかい。

「ユハは少しきつい印象があるからの。良い感じに中和されておるのではないか?」
「そうですね」

 父は否定しなかった。
 ニナギは無意識に右手を目元に持って行く。母に似ていると言われて子供としては当然なのだが、なんだか不思議な感じがした。
 そんな曖昧な反応をしているニナギを見て、父と巫女はかすかに微笑んでいる。

 ニナギの心は温かかった。
 実を言うと、ニナギは母が死んだときのことをあまり覚えていない。どうして死んでしまったのか、事故だと聞かされた。今のような長雨が続いたとき、彼女は増水した川の水に流されたそうだ。しかし、それは後から人の噂で聞きかじった程度の情報でしかなく、完全な情報ではない。

 ニナギはそのことを意識せずに過ごしてきた。幼心には衝撃が走ったはずだ。それを覚えていないなんてあまり考えられることではない。
 そのことを無意識に思考から排除してしまっていたのだ。どうしてだろう。

 母の死は自分にとって重たいものではなかったのか、それなら自分はなんて薄情なのか。

「母は、どうして……」

 ニナギの口はそう、動いていたけれど、音はかすれて聞き取れなかったのかもしれない。

 目の前の二人は不思議そうな顔をした。

 ――……て。

 不意にニナギの耳になにか声が聞こえたような気がした。
 何だろう。耳を澄ませる。

 ――助けて。この声が、届くなら。

 ニナギは声の聞こえてくる方向に首を巡らせる。

 巫女と父は突然のニナギの様子に怪訝な顔をしている。声は幾重にも反響して聞こえてくるようで、音の出所はとてもわかりづらい。聞き取りづらいはずなのに、声は澄んだ音をしているような気もする。それはとても不思議な感覚で、どこかで聞いた音のような気もした。鈴の音のような、風の音のような、水の流れる音のような。形容しがたい音。

 しばらくすると、声は聞こえなくなってしまった。
 浮かせていた腰を元に戻す。

「どうしたニナギ」
「巫女様、なんだか声のようなものが……」
「声?」

 ニナギは頷く。
 巫女は思案げな表情で、父を見た。目線は父の方が高いから両方が座っていると、見上げる形になる。

「なんぞ聞こえたか?」
「いえ、私には……」
「わしもじゃ」

 双方何も聞こえなかったという。

「ニナギは何かを聴く耳が良いからな。この世のもの、そうでないもの、母親譲りのそれが何かを拾ったのかもしれぬ。声はなんと言っておった」
「はい、声が届くのなら、助けて、と。他にも何か言っているようでしたが、聞き取れませんでした」
「そうか、ありがとう」

 声には、訴えかけてくるようなものがあった。胸の辺りがなんだかざわざわする。

「わしもその声について調べてみよう。もしかすると、最近の状況に原因があるやもしれぬ」
「巫女様、里人を今は刺激したくありません」
「わかっておる。何かわかるまでは、わしら三人の秘密じゃ」
「はい」

 神妙に頷いている父を見て、ニナギも慌てて頭を縦に振った。巫女は何か嫌な予感を覚えているのかもしれない。背筋がひやりとして、ニナギは身震いした。

 巫女と、父が目を見合わせて、やりとりする。二人の間では何か話が成立しているのかもしれない。ニナギは彼らが決を出すのをじっと見つめる。

「ニナギにはもう話しておこうかと思う」

 腕組みしたまま、父が言った。巫女はそれに頷く。どうしたのだろう。今日はやけに打ち明け話が多い。

「本当は十八になる頃に話そうかと思っていたのじゃが……」

 この里の若者は、十五で大人と認められ、十八で一人前と言われている。十五歳から、十八歳までは大人になった仮期間と思われている。成人の儀は十八歳を迎えてからと言うわけだ。

 その年になれば、ニナギはいつ族長になってもおかしくない。父の事を手伝って認められれば族長は代替わり。
 若い者が里を担う。それが里の暗黙の了解だった。

「ニナギは、儀式の由来についてどこまで知っている」
「昔暴れ龍を封じて、今もなお里を覆う結界によってその封じを保っていると言うことなら」

 父は頷く。ここまでは里で小さい頃から聞かされた話だから誰でも知っている。しかし、その先があるというのだろうか。
 疑問を口にすると、巫女と父が頷いた。

「そう、伝承には先がある。龍宝珠の話じゃ」
「龍宝珠は二つあった。今回砕かれた龍宝珠とは別に、結界の起点としての役割を果たしておる宝珠じゃ」
「そんなものが」
「そう、その二つの龍宝珠はもともと一つのものじゃったんじゃよ。龍を封じた際、結晶になった龍の力は、それ自体が巨大な力を秘めておった。じゃから、先祖様はそれを二つにして、片方は儀式の際の媒介に、そしてもう一つは山を囲むほど巨大な結界を成すための起点として使ったんじゃ」

「霧の結界は、人の力だけでできたものではなかったんだよ。龍を封じるために、その龍の力を使っている。そうすることで封じは完成したんだ」

 初めて聞く話である。それならば龍宝珠が片方割れてしまった今、儀式はどうすれば良いのだろうか。

「この話は代々巫女と族長の直系に口伝でのみ伝えられてきた。他言は無用じゃぞ」
「はい」

 重たい話を聞いた。

「それで、もう一つの宝珠はどこにあるのですか……」
「それはわしらにもわからん。それについて残されている情報は存在せんからじゃ」

 封印した先祖は、起点が不用意に発見されて、壊されてしまうことを恐れ、誰にも残さなかったのかもしれないと、巫女は語った。

 里の話、どこまで秘密があるのだろう。ニナギは、この里の事を何も知らなかったのかもしれないと、改めて思った。
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