少年は雨を連れてくる

桐坂

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四章

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「ずっと悩んでいた。自分が自分でなくなってしまうような感覚があって、目覚めるといつもどこか別の場所にいる。意識が飛んでいる間に何をしていたのか覚えていない。龍宝珠が割れたときだってそうだ。ニナギに起こしてもらうまで、自分が何をしていたのか知らないんだよ」 

 吐露していく言葉には痛々しさがあった。不安と、恐怖。自分を信じられなくなってしまう感覚。うつむいている目は、ただ水の流れを見ている。

「俺はあのときのナユタを覚えてるよ」
「……」

 自分のことをちゃんと見て欲しいという一心で、ナユタの意識を起こした。

「あのとき、ナユタは俺のことを忘れてしまったみたいで、目は鏡のようだった。それに恐れを抱いたのは本当だよ」
「……」
「その時、ナユタからは流れる水のような感覚を覚えたんだ。それって、いつもナユタがまとっている気と同じなんだよ。知ってた?」
「え」
「だから、多分どちらも本質は変わらないんだ。俺や、意識を取り戻したナユタ自身が知らないナユタだけど、悪いものでは無いと思うよ」

 確信はないけれどそう思いたい。ナユタの不安を取り除いてあげられれば良い。

「おれは知らない間に誰かを傷つけているかもしれない」
「もしそうだったら謝れば良いんだよ。失敗しない人は居ないからね」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ」

 本人にとっては深刻な話だけれど、こうやって話してみれば客観的に考えられる。そうすれば、自分でも冷静に考えることができるようになるだろう。

「ニナギに相談すると、悩んでいたことが馬鹿みたいに思えるよ」
「何それ」
「褒めてるんだ」
「ほんとに?」
「本当に」

 掛け合いのような短いやりとりをすると、ナユタの顔に鬱々とした感情はなくなっているように思えた。

「原因は何だろうね」

 冷静になったところで、ニナギは話をふる。いったんすっきりすると、見えなかったところが見えるかもしれない。

「うーん」
「たとえば意識が無くなるときに切っ掛けがあるとか……」
「そうだな。何かに呼ばれているような感覚があるかもしれない」
「呼ばれている、か」

 二人して頭を捻る。

「あと、前に話した、泳いでいる感覚かな。ふわふわして、幸せな気分になるんだけど、その後ふっと力が抜けていくような感じがするんだ」

 小首をかしげるナユタの顔は、必死に思い出そうとしているのか、やや険しい。眉間にしわが寄っている。思わず人差し指で眉間の真ん中を軽くつついてしまった。

「ニナギ何している」
「や、ごめん、なんとなく」

 やってしまった。ニナギは素直に謝った。険しい顔をしていたナユタだが、一度小さくため息を吐くと、表情に呆れを滲ませた。

 こう見ると、最初は無表情だったのに、段々といろいろな表情を見せ始めたナユタに感慨深くなる。人間に近づいていっているとでも言うのか。ニナギとしては今のナユタの方が好きだ。

「何見てるんだ?」
「なんでもない」

 しげしげとナユタの顔を眺めていたのが不満だったらしい。ナユタは瞳に険を滲ませた。含み笑いがこぼれる。

「何でもないよ」

 しばらくにやにやが止まらなくて、ナユタに胡乱げな顔をされた。その表情はまるで、シーラみたいだった。

 雨の匂いを色濃く含んだ大気には、水の気が満ちている。空を覆っている雲と、まだ濡れた地面。立ち昇るように感じられる水の気は、連日里に残って、人々に不安を与えている。

 見下ろした先には轟々と音を立てる滝があって、勢いよく水が流れている。

「水は本来恵みを持ってくるものなんだって」
「いきなりどうした」
「なんか思い出したんだ。こうやってずっと雨が続いて、里の人たちは鬱々としてるけど、雨って恵みのはずなんだよ。どこかでそれが狂ってしまった。里の異変と何か関係があるはずなんだ」

 ニナギは話す。思いついたことを。

「雨が降っていることもなにか意味があると思う。そう考えると、先に進めるだろ?」
「そうだな」

 ナユタが苦笑した。ニナギの楽観的な考えに呆れたのかもしれない。泥沼でもがいているような感覚がなくなれば良いと思いながら。

 ナユタと話していると、また人の歩いてくるような音が聞こえてきた。それは複数聞こえる。
 誰だろうと思いながら、ナユタと顔を見合わせる。従兄が呼びに来たのだろうか。しかし、そうだとしたら何人もを引き連れてこなくてもいい。それに、興奮しているような荒い息づかいを感じた。ここに来るまでの山道を急いで駆け上がってくるにしても、シュウであったら息を切らすほどの道ではないはず。ニナギは警戒した。

 木々の間から姿を現したのは、複数の男集団だった。
 先頭にいる男には見覚えがある。

「ドーア」
「ニナギも一緒か」

 この男はナユタの事をよく思っておらず、里から追い出そうとしている事を、ニナギはよく知っていた。会議の度に、過激な発言をすることで警戒はしていたのだ。
 自然と体がナユタをかばうように前に出る。

「何の用だ」

 口調も荒くなってしまうのは仕方ない。後ろにいるナユタがそんなニナギの雰囲気を感じ取り、はっとした感じがするけれど、そちらに意識をやっている余裕はなかった。

「随分と警戒なさる。わたしらは同じ一族の仲間じゃないですか。それとも……」

 ドーアの節くれ立った指が、まっすぐにナユタを指す。

「そこの外れ者を庇うんですかい?」

 男達の表情が厳しくなる。里の者達は仲間だ。しかし、ナユタを排斥する理由にはならない。

「ナユタも仲間だ。巫女様も族長もそれは認めてくれている。それでも納得しないか」
「納得? できるわけないでしょう」

 男の目が、鋭く光った。

「里の異変、変事、すべてその外れ者がここに来てから起こったこと。それをどう説明するのです」
「ナユタがそれに関係があるとは限らないだろう。あなたたちの考えは憶測に過ぎない」
「そうかもしれません。しかし、そうでないかもしれない。何かが起こってからでは遅いのです」

 別の男が言葉を継ぐ。

「お前の母親が死んだのも、里の変事を巫女様や、族長が見逃したからだ」
「母さんが? 母さんがなくなったのは事故だときいた」
「その事故が起こったのは、長雨が続いた日だった! お前の母親は暴れ龍の怒りに呑まれたのだ。お前の事をかばってな」

 そのセリフに被せるように、また別の男が言葉を発する。

「龍の怒りは鎮めなければなりません。その外れ者を生け贄にすれば里には被害がなく、収まりましょう」

 それをきいて出てきたのは怒りだ。里人の考えは安直すぎる。

「お前達は結論を出すことに急ぎすぎている。それでこの状況が好転するとは思えない」
「そんな事言ってちゃぁ、いつまで経っても雨はやまねぇんだ!」

 口悪くののしったのは集団の中でも年の若い男だった。

「あんたはこの里の状況を見逃すってのか? 俺はそんなの認めねぇ。次期族長のあんたが決められないんなら、俺がやってやる」

 そう言って男は前に出、ナユタに掴みかかろうとした。それを必死で止める。

 ここは滝の近くだ。そのまま押されれば、増水した川にそのまま落ちてしまうことになる。それはまずい。もみ合いになれば双方が落ちてしまうことも考えられる。流れの速くなっている川に落ちてしまうと、どうなるかは想像したくもない。

 若者の力は強かった。ニナギの体格の一回りほど大きな男に掴み掛かられると、鍛えているとはいえ、押し負ける。

「ナユタ、動くなよ?」
「わかった」

 ナユタはいきなりのことについて行けないのか、唖然とニナギと男の方を向いていた。若い男の手がナユタに届いていたらと思うと背筋が冷たくなる。ニナギと同じくらいの体躯に、その上、鍛えていないとなれば、少し押されただけで、踏ん張りもきかず、真っ逆さま、なんてことも考えられた。

「早まらないで。なんでナユタを生け贄になんて考え方ができるんだ」

 どうにか、男を押し返してドーアに向き直る。呼吸は荒くなる。頬を滑るのは冷や汗だ。

「何百年も昔、暴れ出した龍は幾人もの人々を飲み込んだ。この里が、そのようになっても良いんですか。あなたは里を見捨てるとおっしゃるのですか」
「そんな事言ってない! どちらも大切だから、どちらも傷つかない方法を探したいんだ」

 そうだ。どちらも大切だから、手放すことなんてできない。できるはずがない。自分ですべてできるわけではないけれど、できるだけのことはする。そうしてきたから。

 ドーアがニナギの気迫に押し黙った。
 言葉は届いたのか?
 にらみ合いが続く中、声が聞こえた。

 ――助けて。

 不思議な響きを持ったその声は、水や緑の山々にこだまするようだった。低くもなく、高くもない声、不思議と隣にあるような感覚。

 はっとそちらに気をとられたニナギは、先ほどの若者が、横からじりじりと距離を詰めてきていることに気がつかなかった。

「外れ者は去れ!」

 ひび割れた声が聞こえてきた時には、もう遅かった。

「ナユタ!」

 男の足は地を蹴って、ナユタに届く。勢いをつけて伸ばされた手は、ナユタの胸をどんと押した。突然のことに踏ん張りのきかないナユタはそのままたたらを踏む間もなく、押し出されて、その足は空を掴んだ。

 下は音を立てて流れる濁流。
 時が一瞬止まったようだった。

「ニナギ」

 唖然とした目が、こちらを見ている。合わさった瞳に、驚きと戸惑いが浮かんでいた。

 水の間に先ほどまで笑い合っていたナユタが消える。水しぶきが起こって、ナユタが川に落とされたことを悟った。
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