少年は雨を連れてくる

桐坂

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五章

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「ちょっとシーラもう少し、降りる場所を選んで欲しかったかも……」
「あら、だったら先に言っておくべきだったね。わたしがそういうところに頓着しないの、ニナギなら知っていると思ったけど?」
「そうでした」

 ニナギの抗議はさらりとかわされて、ふふんと自慢げにこちらを見るシーラに、知らずニナギは吐息をこぼした。

 不満を表情に表わすニナギを放って、シーラはそのままネルーの世話に行った。
 シーラが降り立ったのは里のど真ん中であった。儀式の時は必ずそこを使用するし、そもそも里の中心であるから一日に一度は通ると言うほど親しまれた場所でもあった。

 シーラの相棒ネルーは二人乗せて飛んだとは思えないほど平然としている。気負ったふうもなく羽繕いをしているところを見ると、本当に彼女にとっては簡単なことなのだろう。まったく底が知れない。

「ニナギ!」

 名前を呼ばれて振り向くと、そこにいたのは従兄と父親だった。随分と久しぶりのような気がする。里にいれば、毎日のように顔を合わせていたのだから、そう感じるのも無理はない。ニナギにとっては初めての里の外であった。里人の内、外に出たことがある者は、一体どれだけいるだろう。

「父さん、兄さん」

 心配をかけた。従兄にはもちろんだが父がどれほど自分のことを考えているか、心を砕いているか、知らないニナギではない。母が亡くなっても父は心を乱すことはなかったけれど、悲しんでいないわけではないことをニナギは知っていた。彼なりの愛情表現は、幾度となく感じていたからだ。

「戻って参りました」

 笑みがこぼれてしまうのも、今は許して欲しい。
 シュウからは無言で抱きしめられた。ユハは、感情をこそ顕わにしなかったが、目が少し涙に濡れているのが分かった。心配をかけた。従兄に至っては目の前でニナギが水に流されていくのを見ていたはずだ。その後悔のほどは、計り知れない。

「信じていた」
「はい」

 自分は生きていた。その実感をシュウには感じて欲しい。そして安心してくれればいい。それが自分がここに帰ってきた一つの意味でもある。

「兄さん、帰ってきてそうそうだけど、ナユタはどうしてる?」

 帰ってきて一番に気になるのはそこだった。
 シュウはニナギから少し離れると、顔をしかめた。状況はあまり芳しくないと言うことが読み取れる。

 シュウが言うには、ナユタはあれからまだ目を覚ましていないという。食べ物も水も受け付けず、懇々と眠り続けているらしい。人間離れしたその状態を恐れる者も多く、巫女様と父が話し合った結果巫女の奥殿で守護しているようだ。ニナギの家では、族長としての仕事が多い父は留守にすることが多く、人の出入りが把握できないことが問題だったからだ。里人の中に、反感を覚える者も多いことから、安全ではないと判断されたのだろう。

「ナユタに会わせて欲しい。あいつに会わないと」

 ニナギがこうして戻ってこられた要因にはナユタが大きく関わっている。本人が覚えていないとしても、彼には伝えたいことが山ほどあった。
 再会を喜ぶまもなく、里の地盤がゆらゆらと揺れた。

「またか」

 シュウはそう溢す。
 絹作りの儀式衣装に身を包んだ従兄の顔は険しい。

「またって、何回か揺れてるの?」
「ニナギがいなくなってから、日に一回は確実に。里人の不安は確実に募ってる」

 揺れはそれほど長い間続いたわけではなかったが、足下の不安定さはその土地に住む者達の心情に影響を及ぼすことは確かだ。
 思い出すように口を閉ざしたシュウに変わって、父が口を開いた。

「ニナギ、まずは巫女様のところに。戻ってきたことを伝えて、安心させてあげなさい」
「はい、父さん」
「日の入りには儀式が始まる」

 それまでに準備を済ませたいと考えたのがよく分かる。しかし、それについても、ニナギには言いたいことがあった。なぜか、儀式を行ってはならないような気がしてならなかったのだ。
 ニナギの代役はシュウが務めることになっていたのは、服装からも察せられる。つくづくこの兄には謝らなければならないことが多いと思えてならない。

 多分謝罪を述べても、いいよと笑って許してくれるのが分かっているから、心優しい従兄がどれだけ心を痛めたのかは、想像するしかないのだ。

「巫女様の元で挨拶を済ませたら、ナユタに会うよ」
「彼はまだ眠りの中にいる。それでもか?」
「うん、そうしないといけないんだ」

 父はニナギの頑固さをよく分かっていた。それでなお、信じてくれる強さを持っていた。頷く父を見て、ニナギは感謝した。

 父はニナギを巫女の社に連れて行った。巫女は、儀式前の祈りの最中だったが、知らせを受けるとそれを中断してニナギとの対面を優先した。

「お帰り、ニナギ」

 彼女はしわしわの顔を綻ばせてそう言った。儀式用のゆったりとした服を着て、手には緑水晶の連なった法具を握っている。緊張のとれたその表情は昔から祖母のように慕っている女性のそれだ。

「ただいま、もどりました」

 ニナギは巫女の前で正座をし、頭を下げる。左斜めには父が座り、隣にはシュウが座った。部屋は少し灯りが落とされている。

「よく無事で帰った」
「はい、幸運が重なったようです。川を流され、俺は川下の街にたどり着きました。そこで介抱され、シーラにここまで連れてきてもらいました」
「シーラというと、鳥と共に生きるあの一族の……」

 巫女は思い出すように目を細める。

「そうです、街で介抱してくれたのは、彼女の知り合いという呪術師でした」
「そうか、それはその方にも感謝せねば」
「はい」

 スオウのことを思い出す。また会える日もあるだろうか。そして言いたいことはまだ他にもあった。

「俺が助かった一番大きな要因は、人ならぬ存在が、力を貸してくれたことにあります」
「人ならぬ存在とな」

 巫女は怪訝そうに眉をしかめた。人ならざる存在。昔からこの土地と共にあり、里とともにあり続ける存在の事だ。

「龍と、俺たちが呼んでいる存在のことです」

 言い切った後には沈黙が残った。水の中で、ニナギがおぼれることなく、街までたどり着けたのは、その力に寄るところが大きい。

「声が聞こえるんです。助けて欲しいと」

 夏前から、たびたび聞こえていた声は、ニナギに告げた。大変なことが起こってしまう前に、助けて欲しいと。込められた真摯な思いを、ニナギは見過ごすことができない。

「だからナユタに会わないと」
「どうしてそこでナユタが出てくるのか聞いても良いか?」

 隣に座っているシュウラが口を挟む。それに頷いて言葉をつなげた。

「多分ナユタが、龍だからだ」

 確信があった。川で助けてくれたのは、紛れもなくナユタの力が働いたからだと言う確信が。そうして声の主と、ナユタの存在。霧開きの儀式のすぐ後にナユタがここに来た真実。多分それは、彼自身の記憶の中に、眠っている。

 それならば、記憶を取り戻さなければならない。一番の方法は、何百年とかけて削がれた力を取り戻させること。

「昔、俺は川に落ちて、母に助けられました」

 しんと静かになった部屋の中で、ニナギは続けた。

「その時から、俺は多分、彼に助けてもらっていたんだ。母が俺を必死で助けてくれたように」
「知っておったか。母親のこと」
「思い出しました」

 そうかとつぶやいた巫女は、顔をしかめた。

「十年前の事じゃ。ニナギは増水した川に落ちた。発見がおくれての。母親が飛び込み、助けようとしたときには虫の息であった。しかし、ナギサは諦めんかった。彼女は願った。おぬしが助かることを。一人の母として、彼女の命と引き替えにして。その時、どういうことが起こったのかは、近くにいた我らにもわからんかった。しかし、ニナギは元気になり、母親は命を失った。それが答えじゃった」

 巫女は法具を少し握り直す。

「奇跡とも言われたよ。しかし、そこに人以外の力が働いたと言われれば、納得できてしまうのじゃ。ナギサとニナギは、何らかの方法でその運命を入れ替えたのじゃと」

 初めて聞いた話だったが、驚きはなかった。なんだか、現実のことである事も受容れがたかったと言うこともあるし、納得したところも多かった。

 生かされたというその一点が事実であったから。それは、母の愛で、祈りだったのかもしれない。

「それが、里の者達が口をつぐんでいた理由じゃ。長い間、秘密にして悪かったなぁ」
「いえ、なんだか納得しました。でもそれではっきりした。なおさら、ナユタの記憶を取り戻すのには、俺が必要なんだって分かったから」
「それはどういう?」
「俺が助かったことに、龍の力が関与していると言うことは、俺に中に、そのつながりがあるって事だ。お世話になった呪術師が言っていたんだ。呪術師の役目は繋ぐこと。俺の中にあるつながりは、ナユタを救う力になると、考えたんだ」

 多分、それが今できる最善のこと。母が残してくれたこの命は、このときのために繋がっていた。母もまた、最高の術師だったのだ。

 ニナギは、立ち上がった。とにかく、ナユタのいるところに行きたかった。いって彼に無事を確認したかった。
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