少年は雨を連れてくる

桐坂

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五章

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 今年も夏の終わりがやってくる。それは里にとってある儀式が近付いてきている事を表わしていた。夏の短い間開かれていた里は、再び一年の間の長い時間を霧に閉ざされる。

 革張りの太鼓の調子に、縦笛の長い音。それと共に舞うのは、その年に選ばれたただ一人の舞手。

 代々継がれてきた絹織りの衣に、帯を締めて、顔には人の面をつける。装飾の剣と、鈴鳴り。焚かれた松明からは火の粉が音を立てて飛ぶ。

 巫女様が決定を下してから既に5日目。閉じの儀式の開幕はもうそこまできていた。太陽は天頂を遠に過ぎ、傾き始めるその頃合いに儀式は始まる。

 毎年この時間は里全体がお祭りの様な異様な活気に包まれるのだが、今年は一転して重苦しい空気が立ちこめていた。皆口には出さないが不満と恐れと不安は幾重にも積み重なってしまっている。どうしても考えてしまうのだろう。本来この儀式の舞手を務めるのはニナギの役目であった。里の次代を担うはずであった若者が、事故で今も安否が分からない。

 儀式を行うことで、その不安をどうにか心からぬぐい去ろうとしている者が大半だった。
 シュウも例外ではない。
 腰に佩いた剣の柄を握りしめる。柄は固く、そして冷たい。

 そのニナギの代わりを務めよと下知を受けたのはシュウだった。自分ならば去年までの舞手を務めてきた実績がある。
 無意識に握ったが、ここにニナギがいないと言うことをまざまざと思い出させて、やめてしまった。

「早く」

 帰ってくるなら帰ってこい――。

「どうした緊張でもしたか?」
「いえ……」

 言葉を濁すシュウラに、横にいたユハが肩を軽く叩いた。彼の眉は潜められていて、苦しさをその表情の下に隠してしまっているようにも思える。

 しかしそれを見せようとしないのは、それ以上里の雰囲気が悪くなってしまうのを恐れているからなのだろうと容易に想像が付いた。
 こうして感情を表に出さないように配慮することも大人になると言うことなのかもしれないけれど、それでは苦しいばかりだろうと、シュウは何も言えない。

「早く儀式を終らせないと」
「気ばかり焦らないことだ。急いては事をし損じるぞ」

 物静かな人だが、ユハはよく里の手綱を握ってきた。ともすれば外れそうな箍を必死に食い止めているのは、この人と、巫女様の力に寄るところが大きい。

「本当のところ、巫女様は山の声を聞いたのでしょうか」
「いや、わたしには分からんよ。巫女様が、決められた。わたしはその決定を尊重しよう」
「そうですね」

 今頃になって、まだ開けの儀式も終っていなかった頃、ニナギが山が静かだといっていたことを思い出した。その時点で何か気づいていれば状況は変わっていたのだろうかと後悔ばかりが浮かびそうになる。しかし、それでは何も解決しないこともよく知っていた。

「ニナギは何か気づいたのでしょうか」
「どうしてニナギが?」

 シュウはその時のことをユハに話した。
 ふと感じたことを口にしただけという感じではあったが、今思えばそれは予兆だったのかもしれない。シュウはニナギのように声をきく力は強くないから、山の声はもともとほとんど聞こえない。

「ニナギがそんなことを……」
「今の状態なら、俺でも山が変だって気がつきます。でももっと前に変調はあったのではないかと思うのです」
「そうだな、あったのかもしれない。しかし、それを今確認することはできない。今はただ、今できることをするだけだ」
「本当にそれでいいのでしょうか。この選択は、その場しのぎの選択ではないと言えるのでしょうか」

 思いを吐露すると、ユハは押し黙った。シュウの言葉をかみ砕いて、消化しようとしているようだった。しかめられていた眉根に更に深い溝が刻まれる。

 気づけば剣に当てた手が震えていた。装飾の鈴が、小さくちりちりと音を立てる。
 山は答えることはない。
 ただ沈黙を守っている。ただ静かなのではなくて、声を出せないほどの理由があるのだとしたら。

「人のための選択は、本当に正解なのでしょうか」

 横から答えは返ってこなかった。空を見上げれば、小さな点が浮いている。鳥が家路を急いでいるのかもしれない。もしくは、どこか別の場所へ渡ろうとしているか。

 どちらにしろ、土地に縛られることのない鳥はとても自由だ。今はそれがうらやましいと思ってしまっても仕方がないかもしれない。代々役目を持って過ごしてきた一族に、他の土地に移り住むなどという選択肢は存在しない。ここを守り、これからも同じように過ごしていくだけだと、それが当然だと思ってきた自分たちにとって、自由という自由はないと今更ながら考えた。

 鳥の影は少しずつ大きくなっていく。
 近づいてきている証拠だ。日が落ちればそれも見えなくなるだろうから、あの鳥も早く家に帰りつくようにせめても祈りを込めた。

「人のための選択か。確かにそうかもしれんな。この場所に龍を封じたのも人の選択。そして、それを守ってきたのも、人の選択。人が住みやすいように、人に害を及ぼさないように。しかし、それが間違っていたとも思っていない。共存するということは、必ずしもどちらもが利益を得るというわけではないのだよ」

 ユハは嘆息する。

「真の共存共栄は、夢物語であることのほうが多い」
「……」

 シュウはただ耳を傾けた。族長としての責務を担う人物が弱音を吐いていることが、珍しく思えたから。

「ただ、あやつなら……」

 自嘲気味に笑みを浮かべる男は、少し迷って言葉を継いだ。

「夢なら叶えなさいと、叱咤するのだろうな……」

 シュウは言葉の裏に、かつてこの男を支えてきた女性の影を見た。同時に彼女に似た気質を持つ従弟の存在も思い浮かべる。

 彼ならば父親のこの言葉にどうこたえるだろうか。おそらく黙って聞いてはいるまい。反論するだろう。もしくは、しばらく心の中で言葉を吟味した後、やはり同意できないというかもしれない。おそらくそれだけの器量は持ち合わせるようになっただろう。たまに驚くほど成長している弟に焦りの気持ちも忘れて微笑みを浮かべていた。こうしていればあいつは帰ってくると、何の疑いもなく信じていられるのが不思議だった。

 まだまだ遠いと思っていた鳥の羽音が、だんだんと近づいていた。

 音につられるようにシュウは顔を上げる。太陽を背負ったその影は、見る間に大きくなって疑いようもなく、こちらに近づいているようだった。

「父さん! 兄さん!」

 大きな鳥の影は、言葉を発した。

 いや違う。

 それは鳥の背にまたがっている人からだった。その声を聴くのはいつぶりだろう。久しく聞いていなかった。その時間は、とても長いもののように思えた。

 ただの自分の願望ではないと知るのは、すぐ後のことである。
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