少年は雨を連れてくる

桐坂

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六章

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 ニナギは自分の感覚が、前より鋭敏になっていることを自覚する。小さな光がこっちだよと囁いている。気づいて欲しいと。伝えて欲しいと。力は、本来の場所に返されるべきだ。そうでないと歪んでしまう。気脈が元の流れを取り戻したように、切り離されていた龍本来の力を返すときがきた。人の勝手でいじくって良いものではない。

 揺れの中でも橋は崩れていなかった。橋の中央が、一番良いだろうと、ニナギはナユタの手を引いて、真ん中まで行くと川下に体を向けた。握っている左手に力が入る。ナユタもつられたのか、握り直してくれた。

「ナユタ、分かる?」
「うん。そうか、結界がなくなったから、僕にもわかるようになった。ここに龍宝珠がある。ニナギ、ありがとう」

 ナユタは頷くとおもむろに空いている左手を川の方に向けてかざした。手のひらが淡く光り始めた。強く弱く、鼓動のように強弱を変えながらその光を段々と大きくしていく。そして、それに呼応するかのように沢の中も光り始めた。ばらばらだった光の明滅が重なってやがて一つになる。

 ニナギの耳には同時に、不思議な音が聞こえてきた。耳鳴りのような、ガラスを割った音のような、鈴のような。重なり合う音は、彼の音だった。彼は水だ。凪いだ湖面の様な静けさや、荒立った濁流のような激しさ様々な表情を見せる水。

 しかしその本質は恵み。土地と共に生き、雨と共に恵みをもたらす水の神様。龍。

 光を中心に川の水が動き始めた。光を避けるように水が流れていく。光はまだ強くなり、やがて一つの宝珠が現れた。龍宝珠の片割れ。結界の起点。龍の力の固まり。儀式で使われていた龍宝珠より透明度が高い気がした。それだけ、力を秘めていると言うこと。触らなくてもそれは分かる。結界だった穏やかな霧と同じ。

 ゆるゆると浮遊して、ナユタの手に収まった。ナユタの白い手が、光で青く見える。

「力は本来形を持たない。こうなったのは、人の力が加えられているからだ」
「どうすれば元に戻せる?」

 ニナギは聞いた。

「剣を」

 持ってきていた装飾剣。そのまま持ってきてしまったから、刀身はむき出しだ。

「人によって成されたものは、人によって断たれなければならない」

 舞が繋ぐものだとしたら、剣は断つもの。

「わかった」

 ニナギは静かに正眼の構えを取った。ナユタの手のひらに置かれている宝珠を注視して、呼吸を定める。自然と口が開いた。長く里の伝統を支えてきた物。感慨はあった。しかし、ためらいはなかった。

「お返しします。人にそれは、もう必要ない。あるべきところに返します」

 振り下ろしたのは宝珠の調度真ん中。それほど力を入れていなかったのに、宝珠は剣の触れたところから真っ二つに割れた。

 柔らかな光が溢れる。

 先ほどよりも大きく強い光だ。地面が揺れていた。地面じゃない。これは橋が揺れているのだ。大きな負荷が掛かっていた橋は、崩れようとしている。しかし、焦りはなかった。

「ナユタ……」
「ありがとうニナギ」

 ナユタは崩れそうな橋の上で、そう言って笑った。久しぶりの暖かな笑顔。
 光が強くなる。風景が、その光の中に溶けて消える。ナユタの笑顔もまた、光の中に消えようとしていた。

 これ以上はナユタが見えなくなってしまう。
 そう思って無意識に手を伸ばした。

「ナユタ!」

 一歩踏み出そうとした足が、空を掴んだ。浮遊感。とうとう橋が崩れたのだ。溢れる光の中ぼんやりとそう思った。落ちるかと覚悟したニナギの体を、誰かが掠っていった。

 硬質な感触。その奥に感じるのは生命の脈動。つるつるとした感触の冷たくも温かいもの。これは鱗だ。細く長い胴体と、頭にそびえる一対の角。すらりとまっすぐに伸びて、最後に少し曲がる。四つある足は強靱な筋肉でつくられ、指には大きく鋭いかぎ爪がある。見上げると英知を湛えた蒼眼がこちらを覗いていた。龍宝珠によく似ている。

 鳥のように翼があるわけでもないのに、龍は空に浮いていた。空を見上げ、咆哮を一つ。空気がびりびりと震動して、触れている鱗の下も震えている。

 これがナユタの本当の姿。口を開いても出てくるのは言葉にならない吐息でしかなかった。今の、ニナギにできるのは呆然としながら落とされないようにこうやってしがみついている事ぐらいだ。本当の大きさを見ると、いかにナユタにとって自分が小さなものかが分かる。人に心を砕いたのも実は気まぐれではないのかと、そう思ってしまうほどに。

 しかし、ナユタの目はどこまでも優しかった。
 龍がもう一度咆哮をあげる。今度は先ほどより幾分か高め。呼応するように空中に含まれていた水気が固まり始める。そこここで、もしかしたら、山全体で同じ現象が起こっているかもしれない。水の玉は優しい光を含んで、土地に降りそそぐ。やがてそれは浸透し、見えなくなった。

 土地は確実に変化していた。地が、木々が、あらゆる生き物が歓喜に沸いている。言葉通り、水を与えられたように。与えられた者達は声を発する。徒人には聞こえない声を。その喜びと、感謝を。龍が分け与えた力を根として、土地は再び気脈の力を吸い始めるだろう。そうなれば、土地は何倍もの力を取り戻す。

 ニナギの頬を風が撫でていく。温かい。じきに実りの季節になる。稲はたっぷりと穂を垂れる。果実は色づき、森の恵みとなるだろう。動物は肥え、冬への蓄えを始める。生命に息づくどこまでも美しい山に戻るだろう。

 里をずっと覆っていた薄雲は風に散らされたように遠くに消えていった。またどこかで恵みの雨を降らせるのかもしれない。

 今更今までの曇天が何だったのか分かった。元々不安定だった土地を必死で生かそうとして龍が発生させたものなのだろう。

「ありがとうナユタ」

 つぶやいた声は聞こえただろうか。
 何度ナユタに感謝したらいいのか。一生掛かっても返しきれない恩をもらった。

 龍の体が下降を始め、崩れた橋のたもとに彼と共に降りる。足が付いた地はもう揺れていなかった。初めて正面から見た龍は澄んだ目でじっとニナギを見る。

 恐る恐る手を伸ばしたら、触れやすいように頭を垂れてくれた。鼻筋を撫でると、気持ちよさそうに目を細めるのが龍に見えなくておかしかった。

「ありがとう。俺は何度も命を救ってもらった」

 一度ならず二度。

「里も、山も、助けてもらった。俺たちはきみのことを閉じ込めていたのに」

 それが当たり前ではないことをよく分かっている。彼らにとって人間は同じところにいながら、一瞬で通り過ぎる命に過ぎない。多分こうして言葉を交わすなんてもっての外で、本当は視界に入ることすら奇跡に近いに違いない。

「たくさんの感謝を、どう伝えればいい?」

 双眸がゆっくりと開き、青い光が視界に入った瞬間、龍の姿はかき消え見慣れた友人が目の前に立っていた。ナユタはニナギの手を握って、困ったように笑っている。

「そんな事言わないで」

 繋がれた右手は、彼の両手に挟まれて体温が混ざり合う。

「友達だと言ってくれたのはニナギじゃないか」

 龍の本性を知っているのに、ニナギはこの表情に弱い。

「友人を助けたいと思うのは、変かな?」
「ううん、変じゃ、ない」

 そうなんとか口にすると、ひと夏で随分と人間っぽくなった表情でナユタが笑った。たくさんのありがとうを君に。

 遠くから従兄の声が近づいてくる。上空にあった龍の姿は集会所からでも見えただろうから、のちのちの質問が壊そうだと、ニナギは笑った。正面でナユタが不思議そうにしていたが、何でもないと首を振って誤魔化した。

 変わってしまったものの対応も今後の課題となるだろう。開かれた里と、脅威ではなくなった龍の存在。ずっと続いていくと思っていた伝統だって変わらざるを得ないはずだ。でも今はこうして笑っていられることが幸せだとそう思う。
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