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逃
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そして僕は逃げ出した。
ありもしない罪を背負って、見たくもない現実と向き合って、有能な警察から。
リュックサックはここに来た時より随分軽くなった。数日分の食料と水、真っ黒なツヤ消しのコート、それと一万円。元山岳部の僕からしたら、こんなもの背負っているうちに入らない。最寄りのバス停まで歩く。数十分もかかるあたりさすが田舎と言うべきだろう。電波があるのが奇跡だ。スマホは置いてきたけど。
警察から逃げ切る気はさらさらない。したいのは時間稼ぎだ……稼いだからどうこうなる訳じゃないけど、それでも。
通報は多分、祖父母がしたんだろう。自分の娘と義理の息子が殺されたんだ。しかも孫……それも長男の手によって。僕を逃がしてくれたのは孫だからか、それとも自首すると言ったからか。多分後者だろうな。
僕の描く最善のシナリオはこうだ。
祖父母の通報を受け現場を見た警察は、きっと包丁につけられた僕の指紋に気づいたはず。指名手配が僕だけなのがいい証拠だ。手形から母さんを殺したのが父さんであることはわかるだろうから、僕が殺したのは実質一人。
それでも殺人罪には変わりない。家には監視カメラはないから証明のしようがないけど……殺されそうになった母さんを助けようとして勢い余って殺してしまった……みたいな証言で罰が軽くなる可能性はある。あくまで可能性だけだけど。
妹に関しては何も知らないで押し通せるはずだ。一番あっちゃいけないのは妹が捕まること。疑いすらかけられちゃいけない。無理やり白状させられるって思っちゃうのはやっぱりドラマの影響かな? とにかく、妹は守らなくちゃならない。
自首しちゃわないかが心配だけど……そこは僕にはどうしようもない。一応スマホにメモは残しておいたけど……僕のスマホを開くっていう発想があるかどうか。
どうか全て、僕の思惑通りにことが運びますように。
バスに乗り、伊達メガネをかけて眠ったフリをする。朝、人のいない車内で気にする必要もないと思うけど、一応ね。
そうだ、最後にヒマワリ畑でも見ておこうか。もうここには帰って来れないだろうし……。見渡す限り満開のヒマワリは、みんな同じ方向を向いていた。
原因はいくつかある。バスの車高が高かったこと。綺麗な景色に見惚れていたこと。車内だからと気が緩んでいたこと。メガネだけじゃ顔を隠しきれていなかったこと。
すれ違ったパトカーの中の警官と窓越しに目が合う。警察だと脳が認識するより早く、僕は叫んだ。
「止めてっ!」
急ブレーキ。立ち上がっていた僕は反動で車体の前へと倒れ込むが、それでいい。
何事かと振り返った運転手に握っていた小さなガマ口を投げつけバスの窓から飛び降りる。まだ停止しきっていない車から飛び降りるのは足が竦むが、今すべきは立ち止まることじゃない。
窓から飛び降りヒマワリ畑へ。踏まない様に、倒さない様にと気をつける余裕はない。入る一瞬だけ少し気を遣えばそれでいい。ちゃんと倒さず来れただろうか? 今はただ全速力でその場から離れるだけだ。
手を使わずひまわりたちをなぎ倒して進む。後ろで誰かが叫んでいる。止まれ? 逃げろ? なんと言っているかはわからないが……僕はできることをする。
黄色、茶色、緑色。黄色、茶色、緑色。流れていく景色。追手の叫び声がまだ聞こえる。加速。リュックを投げ捨てる。邪魔だ。
息が上がる。酸素が足りてない。最後に走ったのはいつだっけ? 一週間前? もっと前だったかな? 最後の大会が五月だったから……ダメだ、考えられない。
肺が張り裂けそうだ。横腹も痛い。視界が霞む。今何分走った? 一時間走ったようにも思えるし、まだ二分くらいしか経ってないようにも思える。不調を訴え続ける上半身とは逆に、足だけは動き続けている。いつも以上に。
逃げられる! 僕なら、僕なら逃げきれる! だからもう少し……僕を遠くへ運んでくれ! これが終わったらたっぷり休ませてやるから。だから今だけは、いつも以上を、もう少しだけ。
多分僕史上最高速度だ。今なら体力テストも満点を取れるだろう。
僕はその時その瞬間、学んだ。人間は欲深い生き物なのだと。そして欲を掻いた人間は、必ず地に堕ちると。
限界が来た。
膝が折れる。視界が反転する。憎らしいほど青い空は、僕を嘲笑っているようで。
ラッキーだったのは警官たちが僕を見失っていたことだろう。想像以上のスピードで走っていたらしい……残された、というよりは無理やり作り出したような時間の中で、僕は見た。大きな向日葵の花を。思い出した。母さんと父さんの馴れ初めを。
『真っ白なワンピースを靡かせていた』
『すごく男らしくて……』
『一目惚れだよ』
『いつか二人にもそんな素敵な出会いがあるわ』
『だから私たちにとって、向日葵は特別なお花なのよ』
「チクショウッ……!」
壊れてしまった。悲しかった。わからなかった。
今までしてきたことが役に立った。今までしてきたことは間違っていた。
涙が地面に染みを作る。きっと汗と混じって見分けがつかないんだろう。
どれが涙かなんて誰が見てもわからない。知らなくていい。知りたくもない。嘘でもいい。偽物でよかった。他で何してたっていいから、幸せな家族でありたかった。
七月二十日。父親を殺した青年が逮捕された。母親も死亡。妹は行方不明。
ハッピーバースデイ、僕。
ありもしない罪を背負って、見たくもない現実と向き合って、有能な警察から。
リュックサックはここに来た時より随分軽くなった。数日分の食料と水、真っ黒なツヤ消しのコート、それと一万円。元山岳部の僕からしたら、こんなもの背負っているうちに入らない。最寄りのバス停まで歩く。数十分もかかるあたりさすが田舎と言うべきだろう。電波があるのが奇跡だ。スマホは置いてきたけど。
警察から逃げ切る気はさらさらない。したいのは時間稼ぎだ……稼いだからどうこうなる訳じゃないけど、それでも。
通報は多分、祖父母がしたんだろう。自分の娘と義理の息子が殺されたんだ。しかも孫……それも長男の手によって。僕を逃がしてくれたのは孫だからか、それとも自首すると言ったからか。多分後者だろうな。
僕の描く最善のシナリオはこうだ。
祖父母の通報を受け現場を見た警察は、きっと包丁につけられた僕の指紋に気づいたはず。指名手配が僕だけなのがいい証拠だ。手形から母さんを殺したのが父さんであることはわかるだろうから、僕が殺したのは実質一人。
それでも殺人罪には変わりない。家には監視カメラはないから証明のしようがないけど……殺されそうになった母さんを助けようとして勢い余って殺してしまった……みたいな証言で罰が軽くなる可能性はある。あくまで可能性だけだけど。
妹に関しては何も知らないで押し通せるはずだ。一番あっちゃいけないのは妹が捕まること。疑いすらかけられちゃいけない。無理やり白状させられるって思っちゃうのはやっぱりドラマの影響かな? とにかく、妹は守らなくちゃならない。
自首しちゃわないかが心配だけど……そこは僕にはどうしようもない。一応スマホにメモは残しておいたけど……僕のスマホを開くっていう発想があるかどうか。
どうか全て、僕の思惑通りにことが運びますように。
バスに乗り、伊達メガネをかけて眠ったフリをする。朝、人のいない車内で気にする必要もないと思うけど、一応ね。
そうだ、最後にヒマワリ畑でも見ておこうか。もうここには帰って来れないだろうし……。見渡す限り満開のヒマワリは、みんな同じ方向を向いていた。
原因はいくつかある。バスの車高が高かったこと。綺麗な景色に見惚れていたこと。車内だからと気が緩んでいたこと。メガネだけじゃ顔を隠しきれていなかったこと。
すれ違ったパトカーの中の警官と窓越しに目が合う。警察だと脳が認識するより早く、僕は叫んだ。
「止めてっ!」
急ブレーキ。立ち上がっていた僕は反動で車体の前へと倒れ込むが、それでいい。
何事かと振り返った運転手に握っていた小さなガマ口を投げつけバスの窓から飛び降りる。まだ停止しきっていない車から飛び降りるのは足が竦むが、今すべきは立ち止まることじゃない。
窓から飛び降りヒマワリ畑へ。踏まない様に、倒さない様にと気をつける余裕はない。入る一瞬だけ少し気を遣えばそれでいい。ちゃんと倒さず来れただろうか? 今はただ全速力でその場から離れるだけだ。
手を使わずひまわりたちをなぎ倒して進む。後ろで誰かが叫んでいる。止まれ? 逃げろ? なんと言っているかはわからないが……僕はできることをする。
黄色、茶色、緑色。黄色、茶色、緑色。流れていく景色。追手の叫び声がまだ聞こえる。加速。リュックを投げ捨てる。邪魔だ。
息が上がる。酸素が足りてない。最後に走ったのはいつだっけ? 一週間前? もっと前だったかな? 最後の大会が五月だったから……ダメだ、考えられない。
肺が張り裂けそうだ。横腹も痛い。視界が霞む。今何分走った? 一時間走ったようにも思えるし、まだ二分くらいしか経ってないようにも思える。不調を訴え続ける上半身とは逆に、足だけは動き続けている。いつも以上に。
逃げられる! 僕なら、僕なら逃げきれる! だからもう少し……僕を遠くへ運んでくれ! これが終わったらたっぷり休ませてやるから。だから今だけは、いつも以上を、もう少しだけ。
多分僕史上最高速度だ。今なら体力テストも満点を取れるだろう。
僕はその時その瞬間、学んだ。人間は欲深い生き物なのだと。そして欲を掻いた人間は、必ず地に堕ちると。
限界が来た。
膝が折れる。視界が反転する。憎らしいほど青い空は、僕を嘲笑っているようで。
ラッキーだったのは警官たちが僕を見失っていたことだろう。想像以上のスピードで走っていたらしい……残された、というよりは無理やり作り出したような時間の中で、僕は見た。大きな向日葵の花を。思い出した。母さんと父さんの馴れ初めを。
『真っ白なワンピースを靡かせていた』
『すごく男らしくて……』
『一目惚れだよ』
『いつか二人にもそんな素敵な出会いがあるわ』
『だから私たちにとって、向日葵は特別なお花なのよ』
「チクショウッ……!」
壊れてしまった。悲しかった。わからなかった。
今までしてきたことが役に立った。今までしてきたことは間違っていた。
涙が地面に染みを作る。きっと汗と混じって見分けがつかないんだろう。
どれが涙かなんて誰が見てもわからない。知らなくていい。知りたくもない。嘘でもいい。偽物でよかった。他で何してたっていいから、幸せな家族でありたかった。
七月二十日。父親を殺した青年が逮捕された。母親も死亡。妹は行方不明。
ハッピーバースデイ、僕。
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