銀色の魔女は黒騎士の手の平で踊る

くろなま

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act29.魔女と聖女、蛇と貉

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「こちらよ。さあ、どうぞお入りになって…」

帝城に設けられた、各公爵令嬢達の為の貴賓室。
室内は広々としており、調度品も来客を持て成すに十分な格調を備えている。

シェルシェンに案内されたプーシュカは、目を丸くしてきょろきょろと部屋を見回す。
オルラン公爵家に仕えているのだから、室内の豪華さはさほど変わらないと思うのだが、どうやら違うらしい。

「本当にどのお部屋も煌びやかなのですね…」
感心したように目を丸くしながらきょろきょろと部屋を見回す仕草はまるで、新しく入ってきた使用人のようで微笑ましい。

「仮にも皇帝陛下の身を預かる場所ですもの。このくらいは当然です」

シェルシェンが促し、それぞれソファに座る。

プーシュカは立ち居振る舞い一つとってもきちんと身についている。…仮に彼女を知らない人間に公爵令嬢だと紹介しても、何一つ疑われないだろう。
銀の髪が緩やかに揺れ、涼しげな光を湛える。

「帝城はどう?そろそろ慣れたかしら」
シェルシェン付きの使用人たちが紅茶やお茶菓子を置き、退室していくのを見ながらシェルシェンは口を開く。
ただの世間話程度のつもりだったのだが、その質問にプーシュカの顔がやや曇った。

「そうですね、慣れる…と言う程ではございません。交流会以外では帝城内の移動は控えるようオスリャービャ卿に注意喚起されておりますし、あまり自由がありませんから…」
「ロジオンが貴女に?…そんなことを?」

意外な人物の名前が上げられ、シェルシェンが目を見開く。

ロジオン・オスリャービャ伯。
ニコライの側近であり…同時に彼にとって最大の親友でもある。
彼は常にニコライの手足として動いているため、彼は基本的にニコライの不利益になるような行動は起こさない。

怜悧でやや冷たい印象はあるが優秀で見目もよく、華やかなニコライと鋭利な刃物のようなロジオンは、並んで歩けば令嬢たちが失神する…という伝説すら作った。
当然、社交界でもその伝説が真実であったことを証明されている。

ロジオン自身は多少物言いが冷たい事はあるが、決して間違った事はしない、仕事に忠実な人柄だ。
その彼がニコライの傍を離れ単独行動をとるというのも珍しい。

「それは…いつ頃のお話?」
「初日のお昼前の事です。お手洗いからサロンへ戻る道すがらにお会いして…」

ふと、思い出す。
あの日はプーシュカが意外にも健啖家だったという衝撃で忘れていたが…キーロフの悪口を彼女の傍付きと楽しく喋っていたという、あの時だ。
今にして思えば、なんとなく見覚えのあるシルエットが遠ざかっていた気もする。

「…この見た目ですから、どうしても警戒されてしまうようで」

プーシュカのその言葉には、シェルシェンもぎくりとする。

今でこそ彼女が…悪魔でも魔女でもない…ただの貴族令嬢だという事を知っているからこそその見た目にも慣れてきたが。
それでも時々やはり居心地の悪い驚き方はしてしまうし、そう思ってしまう自分が情けない。

しかし、同時に『仕方がない』と思う気持ちもある。

幼い頃より銀髪銀目の悪魔の物語を教えられ、不吉の象徴であることを言い聞かせられてきた。

子供の頃は事ある毎に銀糸のケープを着せられたり、悪魔除けと称した簡単な…少し不気味な儀式を課せられた。

特に印象に残っているのは、悪魔除けの際に飲まされる非常に苦くて不味い薬湯だ。

年に一度、帝国の子供は各自の家で…薄暗くて狭い部屋に入れられ、そこで待っている大きくて恐ろしい長い銀髪と大きな銀目の悪魔…に扮した大人の目の前で、連れ去られないよう…悪魔が嫌うという薬湯を全て飲み干さないといけない。

それが9つになるまで毎年続けられ、その日が来ると子供たちは大抵泣き出して逃げ出したりするものだ。
帝国人の誰もが二度と飲みたがらない…正体不明の謎の薬湯と悪魔の被り物が、銀色の悪魔への嫌悪感を殊更に助長させていた気もする。

勿論、それらが彼女とは一切関係がない事は解っているが。
それでも、帝国人にとって銀髪銀目の姿はある種の…共通のトラウマに近い。

だからこそ、誰もが忌避してしまうのだ。
銀髪銀目を持つ彼女…彼女自身ではなく、その否が応にも嫌悪感を想起させてしまうその髪の色に。

シェルシェンもごくまれに社交界で見かけた彼女に対し怖気が走ってしまった。
彼女自身に対する申し訳なさも、その罪悪感も飲み込んで。
今までずっと、払拭することもしなかった。

「…貴女はとても素敵よ、プーシュカ。でも、ごめんなさい。皆…帝国人は、どうしてもその銀色が怖く思ってしまうの。私も初めは…その、正直、怖いと思っていて。勿論、今は全然気にしていないのよ?」

そう弁明するシェルシェンに、プーシュカは柔らかく微笑む。

「シェルシェン様がお気を遣われる事ではございません。私は気にしておりませんので」
「気にしていないなんて。…だって、辛い事には変わりないでしょう?」
「勿論、悲しくなる時もありました。ですが、今は…そんなに悪くないものだと思っております」

思わずプーシュカの顔をまじまじと見つめる。
全く崩れない微笑みは、人形のように整っている。

「私の姿を気にせずに接して下さる方々は、シェルシェン様をはじめ皆とても良い人たちばかりです。…そういう人たちと繋がりを持てるのはとても幸せな事だと気が付きましたので」

そう言われてしまうと、シェルシェンの頬も熱くなる。

「それなら宜しいのですけれど。…でも、ロジオンも随分失礼ね。…ごめんなさい、彼を庇うようだけど、彼はニコライ様の側近で親しいご学友でもいらっしゃるから、どうしても過敏になってしまうのかもしれないわ。普段はとても誠実で、責任感が強くて…部下にも公正で…けして…他人を噂だけで判断するような人ではないのよ」
プーシュカはくすくすと…楽しそうに笑う。
「ええ、そのようですね。少しお話しただけですけれど、とても実直そうなお方のようにお見受け致しました」
「物言いも少し冷たいから誤解されやすいけれど…、悪気があってのことではないのよ」
「理解しているつもりです。本当にニコライ殿下やを大切に思っていらっしゃるのでしょうね」
その返事には、シェルシェンが少しだけ引っかかる。
「…貴女だって帝国人よ。…いえ、そう思わせてしまう帝国の風習がいけないのでしょうけれど、貴女がそう自分を卑下して一歩引いてしまっていたら、どんどん溝が深くなってしまうわ」
「…、…そうですね、失礼いたしました。…少し、自虐が過ぎました」
ハッとして俯くプーシュカに、シェルシェンは同情する。

ただ、髪と目が銀色に生まれてしまっただけで、彼女は帝国全体から差別されてしまう。
彼女自身は何も悪くないのに。

「…ところで、シェルシェン様。ご相談と言うのは…?」

言葉にきゅうしていたシェルシェンに、今度はプーシュカが口を開く。
「え?あ…そうね、そうでした。…ああ、でもその前にひとつ確認をさせて頂戴」

シェルシェンも慌てて…そして少し咳ばらいをした後、真正面からプーシュカを見据えた。

「以前、貴女はオルラン伯の事を嫌いだと…伯から逃げるために交流会へ参加したと仰っていたけれど。…もし、本当に彼から離れる方法があるとしたらどうする?」
その問いに、プーシュカも真顔になる。
「それは…方法によるかと存じます。私はオルラン家の臣ですので、私一人の判断では動けません」
「ええ、勿論。帝国を出ろとか、帝国の…他の貴族へ嫁げということや、そういう事ではないわ。貴女には、私のトイカロットとして招致したいの」
「私を…シェルシェン様付きのトイカロットに?」

トイカロットとは、帝国内…その上級貴族夫人・令嬢の話し相手として呼ばれる役職である。
貴族令嬢達が作法見習いの為に奉公する傍付きよりも更に格が上で、礼儀作法は当然の事、話し相手として要求される知識や教養の水準も非常に高くなくてはならない。
年若い令嬢に仕えるならば家庭教師という位置付けもされる。
その為、仕える夫人・令嬢に次ぐ身分として扱われ、支払われる給金も高額である。

自身の妻や娘にトイカロットを招き付けることは、その家が格式高く、かつ裕福で、権威があるという体面を周知させる事にも繋がるので、多くの貴族にとって憧れのステータスの一つでもある。

当然、そういった殿上人の話し相手となるのだからトイカロット本人の地位や為人ひととなりも、地位のある貴族からの厳しい審査…保証や推薦が必要となる。

プーシュカはオルラン家でも使用人…それから令嬢としての奉公を務めあげ、成人した後はディア―ナ付きのトイカロットとして従事していた。
殆ど身内とはいえオルラン家は公爵位であり、プーシュカはオルラン公爵家の臣下エフスターフィイ侯爵家の令嬢。
オルラン現公爵…ラザレフ本人が正式な手続きでもってプーシュカを保証したのだから、対外的にも決して問題はなかったのだ。

その為、シェルシェンの誘いは…プーシュカにとっても不可思議な話ではない。

…そしてディア―ナのトイカロットは、帝国へ来る前に解かれている。
現在はただのオルラン家の臣下、エフスターフィイ侯家爵令嬢…有体に言えば無職である。
これ以上ないほどの好条件だ。
しかし。

「シェルシェン様が、何故私を…?」
「友人が困っていたら、助けたいと思うのは当然でしょう?」

至極当たり前と言ったように、シェルシェンが首を傾げる。

「それに、私には今、トイカロットがいないの」

先程も述べた通り、トイカロットは所謂貴族のステータスである。
皇族の姻戚であるシェルシェンに当然ついているだろう筈のトイカロットがいないというのは、それこそ不可思議な話だ。
プーシュカもまた、そう不思議そうな顔をしているのでシェルシェンはそのまま続ける。

「勿論、数年前まではいたのよ。ご婚約を機にトイカロットをお止めになってね。それから探してはいたのだけれど、あまりピンとくる人がいなかったの。…ここ数日見ていたけれど、貴女なら私のトイカロットとして十分相応しいわ。確か貴女はオルラン公爵夫人のトイカロットなのでしょう?経験もあるなら、猶更よ」

洗練された言動、明晰な頭脳、男性にも引けを取らない知識、教養。
そして公爵令嬢の交流会にも参加できたという、為人の保証。
トイカロットの従事経験。

シェルシェンから見ても、あまりに出来過ぎている位…プーシュカの条件は揃っている。

「私がオルラン公爵夫人のトイカロットで居られたのは、あくまで身内の都合によるものです。世間とは水準が異なると思われます」
へりくだるプーシュカに、シェルシェンは明るく笑う。
「本日の座学でだって貴女、好成績だったでしょう。決して他より劣っているだなんて事はないわよ」
「…恐れ入ります」

一礼し、やがて頭を起こしたプーシュカは真面目にシェルシェンを見つめる。

「現状私はこちらの交流会参加の為、トイカロットのお役目を外されました。ですので、我が父であるエフスターフィイ侯爵ならびにオルラン公のご裁可が下りれば…そのお話、有難くお受けしたいと思います」

やや堅苦しいなと思いつつ、シェルシェンは嬉しそうに頷く。

「それなら大丈夫よ。この件に関しては特別にニコライ殿下から推薦を頂けることになっているの」
「殿下から…?」

一体何故、とプーシュカが首を傾げる。

「昨日、私からご相談申し上げたの。そうしたら、オルラン公に掛け合うと仰って下さったわ」
「そうだったのですか…」

表情に乏しいプーシュカが、いまいち何を考えているかは分かり辛い。
だが、どうやら感触は悪くないようだった。

「私の為に、申し訳ございません」
「違うわ、プーシュカ。私のためなのよ」
頭を下げようとするプーシュカを慌てて止める。

「正直に言うとね…私が貴女を選んだ理由は、貴女だからなのよ」
目を丸くするプーシュカに、シェルシェンは少しだけ声を顰めた。
「その…貴女はニコライ殿下に、興味がないでしょう…?」

口をもごもごとさせながら、何とか言葉にする。

「実を言うとね…私のトイカロットになりたがる人や推薦は多いの。勿論、私を慕ってくれる子もいるのだけれど、一番は…殿下や、私の兄弟が目当てでね。特に…私は立場上殿下と懇意にさせて頂いているから…」

帝国第一皇子パーヴェルには、正式な婚約者がいるのは周知の事実だ。
だが、ニコライはまだ…婚約者候補しかいない。シェルシェンは第一候補ではあるが、やはり確実ではない。
少しでも皇族に近づこうという野心ある貴族は少なくない。
シェルシェン自身も皇族であるが故に、彼女の兄弟であっても姻戚関係からすれば皇族に含まれる。
彼女に常に一番近しい存在となれれば…と、中級貴族が画策するのも当然の事だろう。

シェルシェン自身への求婚は勿論、彼女の地位や…彼女のコネに群がる帝国貴族は、男女ともに…掃いて捨てるほどいるのだ。


「殿下も貴女を信頼しているようだし、貴女が望むなら私の兄弟を薦めても良いと思っているの」
「恐れながら、シェルシェン様。私はその、結婚は…」
「勿論、貴女が嫌なら縁談は渡らないようにするわ。貴女への待遇も含め、給金も相応以上に用意します。ただね、…その代わり、お願いがあるの」

お願い、という言葉にプーシュカが体を軽くぴくりとさせた。
銀色の双眸がじっとシェルシェンを見つめ、シェルシェンは軽く怖気を走らせた。

「…その、私と一緒に居るということは…殿下とも近しくなるでしょう。…殿下と内緒のお話をすることも珍しくなくなる。…その、そういう事になったら…正直に、私に全て教えてほしいの」

顔を真っ赤にしながらも、決意を固めたシェルシェンが真正面を見つめる。
相対していたプーシュカは今までで一番…呆気にとられた顔をしていた。

「…その様な事で宜しければ…、勿論」
拍子抜けした様な声でプーシュカが頷く。
「違うの、…あのね、その…私にとっては、すごく大事な事なの。だって、…殿下は、貴女の事をとても気に入っているし、貴女はとても綺麗だから…。その、お二人が並んだら、私…その、とても苦しくなるというか…嫌な女になってしまうから、それが凄く嫌で…」
あたふたとするシェルシェンに、プーシュカは思わずふ、と吹き出す。

「シェルシェン様…ご安心ください。私、実は道ならぬ恋をしております。…ですから、ニコライ殿下とシェルシェン様には幸せになって頂きたいのです。そのお手伝いが出来るのであれば、喜んでお仕え致します。それに…私などより余程、シェルシェン様の方がお美しいですよ」

さらりと告げられた…道ならぬ恋とは、と問いかけようとしたが。
それよりも、彼女が…少なくとも現状、ニコライに心が傾くことはないと知って。

彼女の…緊張の解けた柔らかな笑顔と続く言葉に、思わず本心からの声が上がる。

「…本当?」
「ええ、勿論です、シェルシェン様」

思わずプーシュカの手を取る。
すると、プーシュカの…ひやりとした冷たい手がシェルシェンの手を握り返す。

「ああ、神様!…ありがとう、プーシュカ!…貴女の身は、私が必ず守ります。だからどうか、…貴女も私を助けてね」


















「…と、こういうわけだ」

一雨来そうな黒い雲が空を覆う。
その空模様を隠すようにカーテンを閉めた一室にはたくさんのランプに火が灯っている。

シェルシェンとプーシュカが二人きりで話し合いをしている日から少し遡る昼間の時間。

帝都から離れた地の…やや薄暗い部屋の中で、部屋の主はグラスの中の酒をゆらゆらと回し混ざっていく様を見つめながら溜息を吐く。

持ち主…帝国第一皇子パーヴェルは心底面倒くさいという気持ちを前面に押し出しながらゆっくりと…対面の相手へと顔を向けた。

テーブルを挟んだ対面側から黒い影が伸び、空のグラスがことりと置かれるを見て…酒瓶をグラスの傍に置いてやる。

「こう言ってはなんだが、貴様もなかなか不憫な奴だったんだな、え?キーロフ」

影の方からは返答もなく、ただ、不服そうにふんと鼻息を鳴らす音が聞こえる。

「昔から性格も悪ければ嗜好も悪い、恵まれた環境下で生まれ育ってどうしてそこまで自分を貶めることが出来るのだろう…と常々疑問に思ってはいたが。女の趣味に関しては殊更に最悪だぞ」
「女の趣味に限って言うなら、お前にだけは言われたくはない」

パーヴェルはそのまま対面の…苦虫を噛み潰したような顔を隠さないキーロフに苦笑した。
以前から気分の浮き沈みが激しい男だが、今日は殊更に機嫌が悪いらしい。

「お前が熱を上げている婚約者…アリアだったか、あんな棒切れみたいな女のどこが良いんだ」
言い返され、パーヴェルも眉間に皺を寄せる。

「失敬な、清楚で上品な体つきと言え。貴様の方こそなんだあれは。顔はともかく、あの大瓜のような…、ンン、…本当に彼女は貴族令嬢か?あのいやに肩を出した装いもそうだが…真実、魔女ではないのか?エフスターフィイ嬢は」

対談したあの日、目の前で傅くプーシュカの…豊満な谷間とそれをいかにも強調した衣装を思い出し咳払いすると、今度はキーロフがせせら笑う。

「女はあれぐらいないと抱き甲斐がないだろう」
「ああ…なんだ、貴様の趣味か。まあ、貴様の場合は母親からして…すまない、基準が違いすぎたな」
「そこに母親を出すのは流石に卑怯すぎる。人の事を悪辣だと論うが、お前も大概だぞ」
「なら、痛み分けだな」

互いに酒を注いで飲み干し、ふう、と一息付いてにやりと笑いあう。
漸く話し合う気になったらしいキーロフが口を開く。

「…それで?お前から見てどうだった?プーシュカは」

キーロフがソファに寄りかかると、パーヴェルはうん、と頷いた。

「正直に言えば気味が悪い。見目は恐ろしいほど良いだけに、余計に得体のしれない…不気味な女だった」

キーロフの機嫌を損ねる事を覚悟しながら、パーヴェルが窺うようにちらりと目を向けるも、キーロフは満足したように頷いている。
「それは良かった。趣味が合わなくて助かる」

心底嬉しそうに笑うキーロフに、パーヴェルは多少安堵しつつも苦笑が止まらない。
「先ほども言ったが見た目非常に良い。そこは認めてやる。銀髪銀目でなければ帝国中の男が…俺だって彼女に求婚しただろうしな。抱くだけなら喜んで抱けるぞ」
「その時はアリア嬢の前で尻に氷柱を刺してやるから、安心して手を出すといい」

にやにやと笑ってはいるが、いつも濁った光を湛える黒い目が一際冷たく光っているのを見てパーヴェルは軽く両手の平を上げてキーロフに向けた。

「冗談だ。貴様の唾つきなんて死んでもごめんこうむる、おぞましい」
身震いするパーヴェルに、キーロフは意地の悪い笑顔を浮かべて楽しそうな声をあげる。
「それは残念だな。それはそれで、アリア嬢が新しい世界を開くかもしれないぞ?」
「やめろ、想像させるな。彼女はあれでそういった事に関しては純粋なんだ、貴様にだけは絶対に近づかせん。…それより彼女の件、これ以上私にどうしろというんだ?婚約の件も一蹴されたぞ。おまけにあの娘、『私に一目惚れした』だのとまで言いのけたのだぞ?」

弱ったように溜息を吐いて、キーロフの顔を見る。
プーシュカの言動にはさほど気にしていない様で、うん、と薄ら笑いを浮かべたまま頷く。

「お前のとこの愚弟からうまく引き離してくれ。ついでにエフスターフィイにお前の署名付きで婚約の承認願いでも送っておいてくれれば助かる」
キーロフの言葉に、眉間にしわを寄せたパーヴェルが目を向ける。
「他でもない貴様の頼みでオルラン内でのみの事だとしてもだ、書類偽造には手は貸さん。…先ほども言ったが、一蹴されてるんだぞ?こう言ってはなんだが…貴様、脈がないのではないのか?」

ははは、と笑いながら…しかしキーロフの黒い目は笑っていない事に気付きつつ、首を傾げる。

「第一皇子ともあろうお方が馬鹿を仰るな。プーシュカあれは自分じゃ何も決められない、自分の考えすらない筋金入りの操り人形だぞ。台本通りにしか喋れない可哀想な道化の戯言を信じてどうする」
「…貴様、本当にあの女に惚れているんだろうな?」

不安げなパーヴェルに対し、キーロフは頬を弛める。

「勿論。この世で俺以上にプーシュカを必要としている奴はいない。今あいつを操ってる狒々爺の汚い糸を切り落として、俺が新しい糸で繋ぎ直してやらないと。あいつを一番に踊らせられるのは俺だからな」

そう笑うキーロフの顔はやはり、本気かどうかは分からない。
だが、間違いなく本気なのだろうと…長年友人をやっているパーヴェルだけは確信していた。

「あー…それなら結構だ。貴様のおぞましい性癖まで聞かされたくはないし、本題に入ろう」

釈然としないキーロフを差し置いて、パーヴェルが大小二つの地図を広げる。
2人で額を合わせて地図を睨みつけながら、指を指してあれこれと口論していく。

「実際視察してみたんだが、クロターヤ坑道はもう駄目だ。元々廃道だったが、春先に土砂崩れを起こして埋まってしまった。となると、ゴルバ―ヤの方から経由しないといけない」

新しい地図の上に、木炭でバツを書き加える。
「こう…ここから直線上に掘ってしまえないか?」
古地図と見比べていたキーロフが、その周囲から指をさしてなぞっていった。
「ダメだ。こちらもそれほど余剰資金があるわけじゃないんだ、これ以上人手は増やせない」
「公共事業ということにしたらどうだ?」
「私の領地だぞ。皇族がケチだと民に不信を与えるじゃないか。継承前にイメージを悪くしたくない」

とんとんと木炭を地図の端で軽く叩きつつ、二人はそれぞれ眉間にしわを寄せる。

「面倒くさいな、さっさと戴冠してしまえ」
「外野だと思って好き勝手なことを。私に戴冠して欲しければ貴様からも父に奏上したらどうだ。ユーリーを連れてくればいつでも会わせてやるぞ。帝国一の英雄がいると父は大層喜ぶからな」
「おい、やめろ。惨いことを言うな。あいつが平時は帽子掛け位にしか役に立たないって知ったら、陛下の夢が崩れるだろう」

キーロフがそう告げると、パーヴェルが口を大きくわはははは、と開けて笑う。

「陛下の何が凄いって、毎回恩賞授与式の度にユーリーを台座か何かと見間違うんだよ。呼ばれて返事して、ちゃんと目の前で傅いてるのに。ずっと目線だけは探してるんだよ、ユーリー本人を。無言のあの時間、奴はあれ、その間いつもどうしているんだ?」
「毎回発言まで何秒かかるか数えてるって」
「何秒か数える!数えてるのか!」

更に腹を抱えて笑うパーヴェルに、キーロフが追い打ちをかけていく。

「あいつ流石に現役なだけあって腹時計が正確でさ。俺も貴族席側でやってみるんだけど結構難しいんだ。終わった後に答え合わせするんだけど、大抵俺の方が1、2秒ずれる。」
「ああ、貴様がいつも平然としていた理由はそれか!何で早く私にそれを教えないんだ。皇族側われわれはオルラン家がいつ怒り出すか毎回肝を冷やしているというのに!」
「だって殿下絶対笑っちゃうから。絶対次から統計取るでしょ」
「取るよ、勿論。当たり前だろう!何やってるんだ貴様等は兄弟で、全く」

ツボにはまったらしいパーヴェルが、ひー、あー、と何度も笑いながらうめき声をあげる。

「これだからオルラン家は。不敬にも程がある…前回は何秒だったんだ?」
「いや覚えてない」
しれっと答えるキーロフに、パーヴェルは歯を浮かせたまま続ける。
「覚えておけ。…次から後で答え合せするから」
「やめろよ、今度参列してるお前の顔見て『こいつ真剣な顔してるけどただ必死に時間測ってるだけなんだよな』って思ったら俺だって笑っちゃうから。因みにあいつが跪いた時に目を瞑った瞬間からスタート」
「だめだ、私も貴様等を見比べて笑ってしまう。…目を瞑ってから?駄目だ、こちら側からじゃ見えにくい。もう少し分かりやすい合図を出してくれ」
「無茶言うな。こっちも貴族騎士総出の儀礼中でバレないギリギリの所を攻めてるんだぞ。…じゃああいつが右手を床につけた瞬間からで良い?」
「全く、本当に不敬な兄弟だ。それで良い」

ひとしきり笑いあった後、キーロフが諸手をあげて呻いた。

「あー駄目だ、完っ全に談合する気分じゃなくなった。殿下が話膨らませちゃうから」
「私のせいにするな。そもそも陛下が内政を放棄しなければ、こんな苦労もしなくて済むんだ」
「陛下は…今回の一連について、何と?」
パーヴェルは長い溜息を吐く。

「何も言う訳がないだろう。自分の直臣――ポルタヴァの不始末だって息子わたしに押し付けるくらいなんだ、自分の足元にはもう一切興味がない。あるのは他国の領地をいかに奪い、富を得、贅沢を凝らすか。それだけだ」
「野趣溢れるお方だな。そういえば、新年のご挨拶を賜った時…また少しが増した様に見受けられたが?」

にやりと笑うキーロフに、パーヴェルは投げやりに笑いながら両手を放る仕草をしてみせた。

「ああ、益々横に大きくおなりだよ。貴様は知らんかもしれんが、最近の宮廷内では酒樽と言う言葉は禁句だ。気を付けておけよ」
「肝に銘じておこう。お前もいずれああなると思うと今から付き合いを考えないといけないかな…」
「やめろ。最近机仕事ばかりで腹回りが怖いんだ。…少し表を歩くか」
「それが宜しいかと存じます、殿下」

芝居がかった仰々しい一礼をすると、パーヴェルは丸めた地図でキーロフの下げた頭を軽くぱすん、と叩き、扉に向かった。キーロフもまた、笑いながら後についていく。

「…貴様、本気なのだな?」
パーヴェルがドアノブを握りながらぽつりと呟く。
キーロフはパーヴェルの背中を見つめ、小さく頷いた。

「ああ。本気だ。…全部、ぶち壊してやる」
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