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黒の研究

事務所での一時

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 円タクが事務所の前に停まる。

 渡された寺城の財布から支払いを済ませていると、彼女は先に降りビルヂングへと歩き出す。

 彼女のしゃなりしゃなりと歩く姿は、死体を目の前に眉一つ動かさず、むしろ笑みさえ溢しながら物色し、淡々と名探偵らしい推理を披露したとはとても思えないほど美しく愛らしい。

 特に足を揃えて車外に降りた時など、見た目以上に幼く、まるで幼く無邪気な女神のようにすら見える。

「どうしたんだい?早く来たまえ」

 しかし、振り向き俺を呼ぶその双眸は海よりも暗く、空よりも深く何処までも、外宇宙の先までも堕ちていきそうなほどに冷たく、底知れない色をしている。

「今行きますよ」

 寺城の後を追いビルヂングの戸をくぐる。

 彼女はすぐには事務所には向かわなかったようで、一階の入ってすぐのところにある扉をノックした。

「はい、只今参ります」

 と、涼やかな声がすると、十秒も経たずに可憐にして年齢不詳の美女――鳩村真麻(はとむら まあさ)という名だと後から教えてもらった――が、麗しの姿を現した。

「少し調べてもらい事が出来てね。そろそろ御用聞きが来る頃だろうから、来たらボクの所まで通してくれないか」

 寺城がそう告げると、鳩村夫人はその美しい顔へ露骨に嫌な表情を――それでも彼女の美しさは一片も損なわれる事はなく、むしろまた別の美しさが垣間見れた――浮かべたが、寺城は気にした様子はなくそのまま二階へと上がっていった。 

「西岩君。早く君も上がってきたまえ」

 俺はその声にハッとし、小さくため息を吐く鳩村夫人に頭を下げ二階へと上がった。

「寺城さん。帽子ぐらい脱いだらどうですか」

 先に部屋に入っていた彼女は、鹿撃帽も二重回しも脱がず、クッションと洋服が山になっているソファーに埋もれるように倒れこみ、起用にも気だるげにパイプをふかしつつ、干菓子をまとめて幾つも小さな口に放り込み、バリボリと咀嚼していた。

「西岩君もそんなところで立っていないで適当に座ったらどうだい」

 最初にこの部屋に来た時も思ったが、此処には座れる椅子どころか踏み進む床ですら事欠く始末。

 俺は慎重に足の踏み場を探しながら、数時間前場所を確保した椅子にたどり着き腰を据えた。

「休むのは結構ですが、調査の続きはいいんですか?」

 彼女は甘酸っぱい紫煙を天井に向かって吐き出すと、詰まらなそうに照準の定まらない瞳のまま呟くように言葉を紡ぐ。

「帝都中を駆け回って目的の物を探すのはボクの趣味じゃないよ。餅は餅屋、ゆっくり専門家の到着を待とうじゃないか」

 専門家と言うのは、十中八九鳩村夫人に言付けた『御用聞き』の事だろう。

「では、聞きたい事があるのですが、その待ち時間の間にお答え願えますか?」

 彼女は虚ろな目で俺を見ると、興味無さそうに視線を天井に戻した。

「かまわないよ。ボクの答えられる事なら何でも答えてあげようじゃないか」

 俺は帰りの円タクの中、延々と考えながらも終に出なかった答えを彼女へ求めた。

「何故箱の中身が阿片だとわかったんですか」

 彼女は今まで咥えていた古いブライアーパイプの灰を捨てテーブルに置くと、ゴソゴソとクッションの山を漁りだした。

「まだ阿片が出たと報告は来ていないんだ。ボクの推理を全面的に信じるには早いだろう?」

 そう言いながら、彼女はクッションの山から小さな木箱を掘り出した。

「それでも見つかるのでしょう?」

 彼女は小さな木箱――煙草入れ――から、一撮みほどパイプに詰め火をつけると、一仕事終えたように一息吸ってまたクッションと洋服とソファーに埋もれるように横になった。

「まぁ、十中八九見つかるだろうね。」

「その結論に至る推理を聞かせて下さい!」

 感情のあまり少し声が大きくなってしまった事に恥、わずかに口元を押さえ気恥ずかしげに寺城を見た。

 彼女の顔は上半分がクッションに埋もれて見えないが、口元から意地悪げに八重歯が覗いた。

「観察だよ。君はあの管理人を最初どう思った?」

 俺は少し考えた。

「薄気味悪い男だなと」

「なぜ?」

「それは、顔というか外見というか、顔色も悪いし目もギョロついて……そうか」

 瞳孔の収縮、青班、落ち付きのない態度。どれも阿片の典型的な症状だ。

「気付いたようだね」

 しかし、これだけではただの観測からの推測に過ぎない。

 事実に至る推理にはまだ欠片が足りない。

「人を観察する際、特に大切なところが二つ。一つは目だ。目は口以上に物を言い、特にその人の心理状態を表してくれる」

 寺城の小さく細い白亜の指先が、ソファーの隙間から僅かに覗く己の瞳を指差した。

「もう一つが手だ。ボクなら職業から持病まで、マルタだってその手を触れば、働き者と怠け者を判断できるさ」

 彼女はそのまま小さな手を握ったり開いたり、ひらひらと振る。

「あの男の手には擦り傷があったのさ。それもささくれの刺さった傷が」

「そうか、木箱を運んだ傷か!」

 彼女がクッションに埋もれたままパイプを吸うと、吸い口近くの高級そうなクッションがチリチリと黒く焦げた。

「そこまでわかれば後は簡単だろう?欲望に忠実な小心者がどういう行動に出るか。恐らく阿片は貿易商であった被害者が海外から密輸入してきた物だろう。その協力者であったあの男は死体を見つけた時、通報するにせよまずは阿片を隠す事をあわよくば自分の物にしてしまおうと考えた。それが、発見から通報まで時間がかかった理由さ」

「あの男が被害者殺害の犯人である可能性は?」

 あの大男が阿片欲しさ、若しくは利益の分配等、なんらかの諍いがあって殺された可能性は否めないはずだ。

 ふーっと、クッションの隙間から紫煙が出る。

「いくらあのウドの大木が馬鹿だからと言って、わざわざ自分の管理している物件で殺人を犯し、あまつさえ通報してその場に警官を呼ぶかね?咄嗟に殺してしまったなら、もっと別の場所に捨てるくらいの知恵と体力はあると思うよ?」

 確かにそう考えた方が自然ではある。

 しかし、相手は頭のおかしい阿片中毒者、絶対とは言い切れない。

「では、あの血文字は?『管理人』の『カ』だとすれば辻褄が合うのでは?」

「普通に考えてご覧?自分が殺した相手が何か書き記したとして、それをそのままにする犯人がいるかい?それも犯人を直接的に示す文字をだよ?それにね、もし直接的に犯人を示す物じゃなかったとしてだよ。死の間際に複雑な暗号で犯人を示す何かを書く余裕なんてあると思うかい?あれは捜査撹乱の手段さ」

 そう言われてしまうとあの大男が犯人とは思えないし、死の直前に残した血文字なんて物はすべからく犯人が捜査撹乱工作以外の可能性はかなり低いと見るべきだろう。

 俺は寺城さんとほぼ同じだけ観察の機会があり、推理が可能なだけの情報を手にしていたはずなのにこれだけ差が出るとは、彼女はまるで……

「貴女は本当にホームズのような人だ」

 クッションの奥から小さな笑い声が気がした。

「ボクはホームズじゃないよ。ただ、観察と記憶、そして少しだけ初歩的推理をしたに過ぎないよワトスン君」

 彼女のパイプから紫煙が上がる。

「そうなると問題はどうやっ犯人を特定、見つけ出すかですね」

 帝都二百万の人口からたった一人の人間を見つけ出す事の難しさ。

 低身長、円タクの運転手等、幾らかの条件はあるが、それでもそれを割り出すのはかなり骨だ。

 いや、いくら寺城さんといえど私立探偵の手に負えるものではない。

 かと言って、警部等警察がどうこう出来ると考えるには、はなかなか難しい物である。

「いやいや、警部なら多少時間はかかるが見つけ出せると思うよ。もっとも、それでは芸がないけどね」

「寺城さん。貴女は読心術の心得もあるんですか?」

 この人の前では、下手に考え事もできそうにない。

「読唇術なら心得はあるけどね。君の場合顔がわかりやすいだけだよ」

 仏頂面で何を考えているのかよくわからんと言われるが、この人の前ではわかりやすいらしい。

 それはもう読心術の領域では無いか?

「それで、芸がないとはどうにかできるんですか?」

 彼女は少し人を小馬鹿にするように肩を竦め、少しだけ体をクッションの山から出し、俺に向けて紫煙を吹き付けた。

「三文芝居よろしく、その場に犯人がいて『犯人はお前だ!』とか、出来れば簡単で花もあるのだけどね。実際は犯罪の仕掛けや犯人の特定よりも犯人が今何処にいるか、どうやって捕まえるかの方が何倍も手間を食うという物だよ」

 そこまで言うと彼女は俺の顔を見て問うた。

「さて、君は餅を買う時何処に行く……いや、最近はデパートメントに行くのも多いだろうけどね」

 家では、姉やが何処からか買って来てたから知らないが、流石に百貨店と答えるのは空気を詠まない選択だろう。

「では、餅屋と答えるべきですか?」

「その餅屋がもうすぐ御用伺いに来るのさ」

 そう言い終わるよりも少し早く、下の階からドアノッカーを叩く音が聞こえた。

 寺城はゆっくりと起き上がると手の平を上に突き上げるように伸びをした。

 誰かが階段を登る足音が聞こえ、コンコンッと扉を叩く音。

「入ってきたまえ」

 部屋に入ってきた人物を見て俺は少し驚いた。

 入ってきた人物は、ボロボロの服にボロボロの草履、酷く汚れ伸ばしっぱなしのごわついた髪をこれまた汚い帽子、よく鳩村婦人が室内に入れるのを許可したと思うほどの悪臭漂う、そして四尺四寸程の小さく痩せこけた体躯の幼い少年だった。

 少年は見た目とは裏腹に礼儀を心得ているようで、丁寧に戸を閉めると、姿勢を正し警官のように挙手の敬礼をとった。

「仕事があると窺がいました」

 寺城さんよりも幼く見える少年は、声変わり前の高い声を上げる。

 寺城さんは、それに少女のようにも老婆のようにも聞こえる彼女独特の声で答えた。

「探し人だ。少なくとも昨日までは円タクの運転手をやっている身長五尺から四尺八寸程度、安煙草、恐らく若葉を吸っていて足に障害を持っている可能性が高い。これらの条件に合う人間が発見され次第すぐに報告、ばれない程度に監視をつける事。報酬はいつも通り日当一円、有力な働きをした場合、事件解決時に特別報酬二〇円を支払おう。それとその日の終わりに必ず報告を寄越すように」

 少年は懐から取り出した紙束にチビた鉛筆で言われた内容を素早く書き留める。

 本来なら尋常小学校に通っているだろう程度の年齢で随分としっかりしている。

「質問がなければ復唱」

「はい。探し人、昨日円タクの運転手、身長五尺から四尺八寸程度、足に障害を持つ、若葉を吸っている。発見次第報告と監視ですね」

 寺城は軽く頷くと一円紙幣を少年に差し出した。

「では行きたまえ」

 少年は再度敬礼をすると部屋を出てパタパタと階段を降りて行った。

 下の階から鳩村夫人の少し怒った声が聞こえた。

「彼が餅屋ですか」

 帝都の闇を這い回る浮浪児達。

 今まで直接的に係わる事は滅多になかったが、まさか彼等をこんな風に使おうとは思わなかった。

「有能なものさ。何処にでもいて何処にでも入り込む。多くの人々は彼等と係わるどころか、見て見ぬふりをする者ばかり。警察十人よりあの子達一人の方が役立つことが間々あるんだよ。まぁ適材適所というものさ。ボクはあの子達を『帝都いらん子遊撃隊』と名づけている」

 何とも最低な名付けの才だ。

「さて、西岩君」

 彼女は見つめられたが最後、吸い込まれてしまいそうな瞳を俺に向けて問うた。

「半日ほどボクについて回った感想はどうだい?このまま事件の終わりまでついて来るかい?それとも根を上げて降参するかい?」

 彼女は挑戦的な目つきで俺を弄る様に睨め付け。俺は挑むように彼女を見つめ返す。

「寺城さんが許してくれるなら最後までお供しますよ」

 半日の間、俺は何も役には立たなかった。

 彼女の観察眼、記憶力、推理力に圧倒され、それに心を熱くさせられ続けた。

 今まで常に感じていた物足りない何かが見つかる気がした。

「ボクはかまわないよ。君は思った以上に面白く、理解力、学習能力に富んで何より、倫理に捕らわれない柔軟な思考が出来る。見る限り力もありそうだし、身代わりや雑用くらいなら今のままでも勤まるだろうしね」

 どういうものが探偵助手の姿として正しいか知らないが、寺城さんの言うそれが相応しい姿とはとても思えないが、俺に選択肢はそう多くない。

 実際問題、寝る場所にも事欠く状況の上、平和な日常という真綿に絞められ発狂しそうなほど飽き飽きしていた所だ。

 多少頭の螺子が吹き飛んでいるような人物だが、そのキレは歌仙兼定よりも鋭い。

 そんなイかれた天才の下でなら、冷め切った日々を熱くしてくれる、そんな気がするのだ。

 それも衣食住の保障付きで。

 つまり、俺の返答は決まっている。

「よろしくお願いします」

「くく、返事が早いのは結構だが、労働条件はいいのかい?」

 彼女は見下すような三白眼のまま苦笑した。

 ふと思ったのだが、彼女は態度と目つきこそ悪いが、意外と気さくなよく笑う人物なのではないだろうか?

「正直な話し、今日寝る場所すらないんです。とりあえず衣食住が保障されて、その上こんな面白い勤め先なら丁稚奉公扱いでも文句ありませんよ。流石に、気前のいい寺城さんです丁稚奉公よりはマシな待遇でしょう?

 彼女は、一瞬驚いたかのように目を丸くすると、すぐに元の意地悪そうな表情に戻りくつくつと笑った。

「いいだろう。当面の生活の面倒はみよう。丁稚奉公の西岩君」

 彼女はそう言うと立ち上がり優雅な足取りで扉の前まで行くとクルリと回ってこちらを向いた。

「では、詳しい雇用条件は夕食を食べながら話し合うとしよう。君はそちらの奥の今は物置になっている部屋を自由に使うといい。そこで荷解きでも済ましていてくれ。僕は鳩村夫人に夕食をもう一人分追加してくれるよう頼んでこよう」

「待って下さい。俺も一度しっかり夫人に挨拶をしたいですからっ!」

 そう言って階段を降りていく彼女を老い、俺は部屋を飛び出した。

 夫人の作った夕食は、備州人の如く工夫を凝らせた物で中々の味だった。

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