その女、悪魔憑きにつき

犬噛 クロ

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2.お腹いっぱいの恋

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 空に見える月よりも大きな複眼を光らせ、地上からわずかに浮いて羽を動かしている。
 恐ろしいというよりも、おぞましい化けもの。その名は――。

「べるぜぶぶ……。どこかで聞いたことがあるかも。ゲームとかによく出てこない?」
「悪魔としては、ありふれた名だからな。こっちの世界でいう、『太郎』とか『花子』のようなものだ」
「な、なるほど」

 分かりやすい喩えに納得しつつ、景は立ち上がってティンカー・ベルの後ろへ隠れた。シワひとつ寄っていない上等なジャケットに覆われた大きな背中は、景にとってどんな壁よりも盾よりも頼り甲斐がある。ティンカー・ベルも、当たり前のように、景を庇った。

「でもあの、ティンカー・ベルは、な、なんでここに?」
「昨晩お前の額に触れたとき、別の悪魔の気配がしたのでな。だから今日は一日、お前を見張っていた」
「あ、そういえば、この額の印って……」

 そうだ。額の刻印について、まだなにも聞いていない。
 景が質問を重ねようとすると、ティンカー・ベルは振り返り、立てた人差し指を自らの唇に当てた。

「詳しい話は、またあとでな。しばらく我の後ろで、おとなしくしていなさい」

 そう言って、またベルゼブブと対峙する。
 ティンカー・ベルも背が高いが、ハエと化したベルゼブブは更に大きかった。体長は三メートル以上あるだろうか。

「さて、ベルたん。お前も仕事中だろう? 我らに構っていていいのか?」
「てめえには関係ないだろうが!」

 親しみを込めて微笑むティンカー・ベルに対して、ハエ男は苛立ちを募らせている。まるで仇敵に出くわしたかのようだ。

「それよりお前、そのクソ女はなんなんだよ! お前はそいつに憑いて、いったいなにを……!」
「……………………」

 ティンカー・ベルは黙って、ベルゼブブを見詰めた。口元には笑みを湛えているが、彼の金色の瞳には他を圧する迫力がある。

「くっ……!」

 ベルゼブブは発しかけた問いを、飲み込んでしまった。そんな自分を不甲斐なく思ったのか、ますますいきり立つ。

「とにかく、気に食わねえ! ぶっ殺してやる!」

 ベルゼブブは大きな体とは不釣り合いの、昆虫特有の細い左右の手を、交差させるように払った。その手の先からは先ほどと同じ、黒色の衝撃波が繰り出される。
 迎え撃つティンカー・ベルは、ジャケットを勢い良く捲り上げた。見れば背に、ベルトに挟んだなにかを隠している。
 ――うちわだ。なんの変哲もない、夏になればそこらじゅうで「ご自由にお持ちください」と放置されているような、ただのうちわである。

「はい、いち、にぃ、さん!」

 ティンカー・ベルは背中から取り出したうちわの柄を握ると、まるでテニスのラケットでも振るかのように、美しいフォームでスイングした。
 うちわに煽られ、風が起こる。
 まっすぐ襲いかかってきた暗黒の衝撃波と、うちわが生み出した風がぶつかり――そして衝撃波は、あっさり消えてしまった。

「えっ!」
「えっ?」

 ティンカー・ベルの後ろから状況を覗き見ていた景も、攻撃したベルゼブブも、これにはぽかんとなった。
 やがて我に返ったベルゼブブは、頭部の赤い複眼を更に濃く染めて、ブルブルと震え出した。激怒しているようだ。

「相変わらず、人をバカにしやがって……!」

 ベルゼブブからしたらショックだろうし、腹も立つだろう。それこそゲームやマンガに出てくるような名のある立派な武器で対抗されるならいざ知らず、自らの渾身の一手を打ち消したのは、ただの安っぽいうちわだったのだから。

「殺す、殺す、殺す……ッ!」

 怒りが大き過ぎるのか、ベルゼブブの動きが若干鈍る。その隙を見逃さず、ティンカー・ベルは地を蹴り、跳躍した。黒い羽が広がる。

「所詮ハエは、こうされる運命(さだめ)なのだ」

 ティンカー・ベルは急降下すると、頭上高く掲げたうちわでベルゼブブの脳天を狙った。

「うっ、うわあああああ!」

 うちわに頭を打ち据えられたその瞬間、ハエの悪魔の巨体は消え失せてしまった。まるでイリュージョンのようだ。
 あとには夜闇が残る。

「あれ!? あの人、どこに行ったの?」

 目を丸くしている景に、ティンカー・ベルはニヤニヤ笑いながらうちわを見せた。

「え?」

 目を凝らしてよく見れば、うちわの丸い地紙に小さな黒いシミがある。虫が一匹潰れて、張りついているのだった。

「あっ……」

 気の毒そうな顔になる景の前で、ティンカー・ベルはうちわにふっと息を吹きかけた。潰れてぺちゃんこになった虫が、ひらひらと落ちていく。地面に当たると同時にそれは、冴えない小太りの男に戻った。――人型のベルゼブブである。
 ベルゼブブはなんとかよろよろと顔を起こすと、ティンカー・ベルを憎々しげに睨みつけた。

「デタラメな強さしやがって……! だからてめえは大嫌いなんだよ! クソガキが!」

 巨大なハエに変身したときのベルゼブブは、見た目も凶暴で、不思議な技を使い、とても恐ろしかったのに。この悪魔とティンカー・ベルの勝負があっという間に、しかもティンカー・ベルの圧勝で終わったことが、景には信じられなかった。普段暢気にのほほんとしているくせに、あんなに強いなんて。

「我ら悪魔は、生まれ出たそのときから、能力が決まっていてな。それは生涯変わらない。悪魔同士の戦いは、努力や根性でなんとかなったりはしないのだ。ま、このベルゼブブも、決して弱いというわけではない。強さでいえば、魔界で五本の指に入る。ただ我が、こいつよりも遥かに優れているだけのこと」
「うるっせえな!」

 怒鳴ったものの反論しないところを見ると、ティンカー・ベルの解説は正しいらしい。

「何度やり合っても、圧倒的な力の差を理解しようとしない、多分に人間に影響されたお前の愚かさを、我は嫌いではない。またいつでも相手をしてやろう」

 たくさんのニキビで彩られたベルゼブブの顔を、ティンカー・ベルは居丈高に見下ろす。

「だが、ベルゼブブ。この女は巻き込むな。大蔵田 景は、我の大事な贄だ。今度同じことをしでかしたならば、我はお前を殺す」

 きっぱりと断言するティンカー・ベルを前にして、ベルゼブブは戸惑いの表情を見せた。

「同胞を殺してでも守ろうとするほど、そのクソ女が大事なのか……? ――分からん。お前はなにを考えているんだ」

 そう返すのが精一杯のようだ。
 ところで、ティンカー・ベルが言った「贄」とは、エサのことだろうか。

 ――ああ、遂にはっきりと言われてしまった。

 ティンカー・ベルにとって、自分はエサに過ぎない。特別な感情などないと、宣言されたようなものだ。

 ――でもただのエサじゃなくて、「大事な」エサだって、言ってもらったもんね。

 景は自分を慰めてから、しかしたかがそれくらいで喜んでしまったことに自己嫌悪する。
 ともかく、エサならエサでもういい。しかし――。
 ベルゼブブは先ほど景の精気を吸った際に、「まずい」を連呼し、吐き気まで催していた。あの様子が演技とは思えない。
 そんな景の精気を絶賛する、ティンカー・ベルとは。

 ――もしかして、味オンチなの……?

 そうだとしたら、今まで美味しそうに平らげてくれていた自慢の手料理も、実はたいしたことはないというか、もしかしたら一般的には不味いということもあり得るのではないだろうか……。
 唯一の特技に対する自信が揺らぎ、鬱々となる景の目の端で、なにかが点滅した。

「ん?」

 なんだろうと光の方向を確かめると、カフェ「ファウスト」の厨房に明かりが点いているではないか。
 ゴミ捨てに行くとき、電気は消したはずだ。客席側の出入口にはシャッターを下ろしてあるから、客が間違えて入ってくるということもないだろう。
 と、いうことは。

「泥棒!?」

 景は「ファウスト」に向かって突進した。結界の壁にぶち当たるが、難なく突き破り、走る。
 悪魔二人は、その場に取り残された。

「上級悪魔ティンカー・ベルの結界を破るとは、お前の贄って……」

 ベルゼブブは、「ファウスト」に飛び込んで行った景に目を奪われている。

「うむ。本当はあいつに、我など必要ないのだ」

 答えるティンカー・ベルの口調は、冗談なのか本気なのか分からないほど淡々としていた。




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