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2.支配人の密かな楽しみ
4.
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「確かに彼はお金持ちじゃないから、ここへは一度しか来たことがないわ。でも運命の出会いっていうのかしらね。一目でこの人しかいない! って、お互い悟ったの。だから隠れてこっそり会っていたわ……。だけどね、町工場の真面目な社長さんと、私みたいな女ではうまくいきっこない。生きる世界が違うのよ。だから、お別れを切り出したのだけど……。ニクラスさんはどうしても分かってくれなくて、あなたも知っているかもしれないけれど、毎日手紙を寄越すようになったの。そして今日はとうとうお金を作って、この店に会いに来てくれるらしいわ」
立て板に水のようにスラスラと、フロレンツィアは説明する。
その口上の滑らかさに、思わずヘクターも「そうだったのか」と納得しそうになるが、慌てて首を振り、正気を取り戻す。
――ニクラスは、ただのストーカーだ!
「まあ……。なんて健気な男性なの……。姐さんのこと、本気で愛しているのね……」
だがウルスラは情感こもった語りにすっかり騙されて、フロレンツィアの話を信じてしまったようだ。うんうん頷き、夢中で聞き入っている灰色の瞳はうるうると――いや、ギラギラ光っている?
なんだか熱が籠もり過ぎているような? やはり女は、こういったウツクシイ恋物語に惹かれるものなのか。
――全部嘘なんだけどな!?
ウルスラの反応の大きさに、ヘクターは呆れ半分戸惑い半分といったところだ。
そして唐突に始まった茶番は、いよいよクライマックスを迎えようとしている。
「だけど、私たちはもう会ってはいけないの! 不幸にしかならないのだから! ――ウルスラ。私の代わりに、あの人の渇望を癒して差し上げて欲しいの。こんなこと、あなたにしか頼めないのよ……!」
「……!」
ウルスラは感極まったように目を見開くと、フロレンツィアの手を取った。
「分かったわ、姐さん! 任せて! あたし、がんばる! そうと決まったら、今日の衣装や髪型、メイクを念入りに整えなくっちゃ! 姐さんの大事な人が相手だもんね! 手を抜けないわ! あとでアドバイスちょうだいね!」
そう言い残すと、ウルスラは火の玉のように燃え、弾み、支配人室を飛び出して行った。
――室内に、静寂が戻ってくる。
「――おい」
ヘクターは低い声でフロレンツィアを呼んだ。
先ほどの話は時系列も詳細も、なにもかもおかしい。
だが一番の誤りは――フロレンツィアがニクラスと愛し合っているということだ。
フロレンツィアは決して、客には惚れない。ただひとりを愛することは、娼婦という職業上好ましくないと――それは彼女が自分に課した戒めだ。
そしてその不文律こそが、フロレンツィアを「黄金ウサギ」の女王たらしめている。
――「万人に等しく愛を配り、等しく冷たい女」として。
「面倒な客をウルスラに押しつけるっていうのか? 嘘をついてまで!? おまえ、最低だな!」
「いいじゃない。ウルスラもやる気を出してるんだから」
「おまえ……!」
「食堂が開く時間だわ。賄い食べてくる」
「おい!」
支配人の叱責など最後まで聞かず、フロレンツィアはするりと滑るように扉の向こうへ消えた。
混乱と失望のあまり、ヘクターの眼前は暗くなる。
――自分のために、友人を犠牲にするなんて。
あの二人は仲が良いと思ったのは、間抜けな解釈違いだったのだろうか。
「やはり女は怖い生きものだ……」
ヘクターのその嘆きは確かに真実を突いていたのだが、指し示す方向がわずかにズレていた。
のちに真相を知った彼は、だからより一層の恐怖を味わうことになるのである――。
本当のことを言うべきか……。ヘクターは最後まで迷った。だがその夜のウルスラを一目見て、口を噤むことに決めたのだった。
きらびやかなドレスに、気合いの入ったメイクにヘアスタイル。ヘクターが今まで見た中で一番、この日のウルスラは美しかった。
――全力で張り切っている彼女に、「おまえはフロレンツィアにかつがれたんだ」なんて、とてもじゃないが言えない。
だいたい今頃本当のことを打ち明けて、ウルスラに降りられても困る。相手が変質者だとしても客は客で、予約を受けつけたくせに土壇場で断るなどしたら、「黄金ウサギ」の名に傷をつけることになるからして。
――そして、そのときはやってきた。
「ようこそいらっしゃいませ、バッハ様」
「ど、どうも……」
ニクラス・バッハは予約した時間よりやや早く、「黄金ウサギ」を訪れた。
慇懃に出迎えながら、ヘクターは男の様子をつぶさに観察した。
中肉中背で人の良さそうな面構えをした――フロレンツィアの言ったとおり、特に特徴のない平凡な人物である。
しかしあれだけ陰湿な嫌がらせをしておきながら、こうして平気な顔をしてやって来るあたり、この男はとんでもない闇を抱えているのかもしれない。
そんな疑心を抱きながら、改めてニクラスを眺めてみれば、その地味な容貌すら凶暴なモンスターに見えてくるから不思議だ。
先入観の妙。人というのは、実にいい加減なものである。
「あの、フロレンツィアさんは……」
そわそわと、ニクラスは落ち着きがない。
「そのことなのですが、バッハ様」
支配人の説明を遮るように、客を出迎えるためのエントランスに一人の女が現れた。華やかに着飾ったウルスラである。
「はじめまして、ニクラスさん。あたしは、ウルスラっていいます」
「えっ……? あ、ああ、はじめまして……」
ニクラスが助けを求めるように視線をこちらに寄越したので、それをきっかけにヘクターは事情を話した。
「申し訳ありません、バッハ様。実は、フロレンツィアは急病に臥せっておりまして……。あまりに突然のことだったので、お知らせも間に合いませんで、大変失礼致しました。ただ、せっかくここまでお出でいただいたのに、このままお帰しするのも忍びないと、フロレンツィアも申しておりまして……」
「あたし、フロレンツィア姐さんに、あなたのことよろしく頼むってお願いされたんです! 精一杯、ご奉仕させていただきますね!」
ヘクターの話を引き継ぎ、ウルスラは明るく笑っている。
ニクラスは予想外の事態に戸惑っているようだ。当然だろう。そっとヘクターが耳打ちする。
「もちろん、キャンセルも承りますが……」
ニクラスが口を開く前に、ウルスラは素早くニクラスの腕を取り、豊満な胸を押しつけた。
「ねえ、ニクラスさん。今日はあたしと楽しみましょうよお! 姐さんの彼氏だもん! 本当は通ってもらわないとダメなんだけど、今夜は特別! いーーーっぱいサービスしてあげるね!」
「……!」
魅力的な女に耳元で囁かれて、ニクラスのつぶらな目が白黒している。
畳み掛けるように、ヘクターは尋ねた。
「……どうなさいますか?」
ニクラスはごくりと生唾を飲み込みながら、つっかえつっかえ答えた。
「せ、せっかくだから……。じゃあ……今日は、この人と過ごします……」
「うふ! 嬉しい!」
ウルスラは満足気に微笑むと、ぎこちないニクラスの腕を引っ張り、自分の受け持ちの部屋へと導いて行った。そんな二人の後ろ姿を、ヘクターは心配そうに見送る。
「大丈夫か……?」
だがそれは、まるっきりの杞憂であった。
その夜以降、ニクラスはウルスラのお得意様となったのだから。
もちろん、ニクラスからのフロレンツィアに宛てた粘着質な手紙は、一切届かなくなった。今はウルスラに熱を上げているのだろう。
軽いというか、「女だったら誰でもいいのか!」と、詰ってやりたくなるような変わり身の早さである。
――いや。ここはむしろ、ウルスラの手腕を褒めるべきなのだろう。
ニクラスの心変わりを告げると、フロレンツィアは「そう」と頷いただけだった。
彼女はこれで都合二回、ウルスラに客を取られたことになる。とはいえ今回の件は、フロレンツィア自身が押しつけたような形ではあるが。
それでもこのようなときの娼婦の心情は、いかばかりか。
もちろんそれをフロレンツィア自身に問うほど、ヘクターは鬼ではない。
――そしてこの話には、驚愕の展開が待ち構えていた。
二ヶ月後、ウルスラが急に店を辞めると言い出したのである。
立て板に水のようにスラスラと、フロレンツィアは説明する。
その口上の滑らかさに、思わずヘクターも「そうだったのか」と納得しそうになるが、慌てて首を振り、正気を取り戻す。
――ニクラスは、ただのストーカーだ!
「まあ……。なんて健気な男性なの……。姐さんのこと、本気で愛しているのね……」
だがウルスラは情感こもった語りにすっかり騙されて、フロレンツィアの話を信じてしまったようだ。うんうん頷き、夢中で聞き入っている灰色の瞳はうるうると――いや、ギラギラ光っている?
なんだか熱が籠もり過ぎているような? やはり女は、こういったウツクシイ恋物語に惹かれるものなのか。
――全部嘘なんだけどな!?
ウルスラの反応の大きさに、ヘクターは呆れ半分戸惑い半分といったところだ。
そして唐突に始まった茶番は、いよいよクライマックスを迎えようとしている。
「だけど、私たちはもう会ってはいけないの! 不幸にしかならないのだから! ――ウルスラ。私の代わりに、あの人の渇望を癒して差し上げて欲しいの。こんなこと、あなたにしか頼めないのよ……!」
「……!」
ウルスラは感極まったように目を見開くと、フロレンツィアの手を取った。
「分かったわ、姐さん! 任せて! あたし、がんばる! そうと決まったら、今日の衣装や髪型、メイクを念入りに整えなくっちゃ! 姐さんの大事な人が相手だもんね! 手を抜けないわ! あとでアドバイスちょうだいね!」
そう言い残すと、ウルスラは火の玉のように燃え、弾み、支配人室を飛び出して行った。
――室内に、静寂が戻ってくる。
「――おい」
ヘクターは低い声でフロレンツィアを呼んだ。
先ほどの話は時系列も詳細も、なにもかもおかしい。
だが一番の誤りは――フロレンツィアがニクラスと愛し合っているということだ。
フロレンツィアは決して、客には惚れない。ただひとりを愛することは、娼婦という職業上好ましくないと――それは彼女が自分に課した戒めだ。
そしてその不文律こそが、フロレンツィアを「黄金ウサギ」の女王たらしめている。
――「万人に等しく愛を配り、等しく冷たい女」として。
「面倒な客をウルスラに押しつけるっていうのか? 嘘をついてまで!? おまえ、最低だな!」
「いいじゃない。ウルスラもやる気を出してるんだから」
「おまえ……!」
「食堂が開く時間だわ。賄い食べてくる」
「おい!」
支配人の叱責など最後まで聞かず、フロレンツィアはするりと滑るように扉の向こうへ消えた。
混乱と失望のあまり、ヘクターの眼前は暗くなる。
――自分のために、友人を犠牲にするなんて。
あの二人は仲が良いと思ったのは、間抜けな解釈違いだったのだろうか。
「やはり女は怖い生きものだ……」
ヘクターのその嘆きは確かに真実を突いていたのだが、指し示す方向がわずかにズレていた。
のちに真相を知った彼は、だからより一層の恐怖を味わうことになるのである――。
本当のことを言うべきか……。ヘクターは最後まで迷った。だがその夜のウルスラを一目見て、口を噤むことに決めたのだった。
きらびやかなドレスに、気合いの入ったメイクにヘアスタイル。ヘクターが今まで見た中で一番、この日のウルスラは美しかった。
――全力で張り切っている彼女に、「おまえはフロレンツィアにかつがれたんだ」なんて、とてもじゃないが言えない。
だいたい今頃本当のことを打ち明けて、ウルスラに降りられても困る。相手が変質者だとしても客は客で、予約を受けつけたくせに土壇場で断るなどしたら、「黄金ウサギ」の名に傷をつけることになるからして。
――そして、そのときはやってきた。
「ようこそいらっしゃいませ、バッハ様」
「ど、どうも……」
ニクラス・バッハは予約した時間よりやや早く、「黄金ウサギ」を訪れた。
慇懃に出迎えながら、ヘクターは男の様子をつぶさに観察した。
中肉中背で人の良さそうな面構えをした――フロレンツィアの言ったとおり、特に特徴のない平凡な人物である。
しかしあれだけ陰湿な嫌がらせをしておきながら、こうして平気な顔をしてやって来るあたり、この男はとんでもない闇を抱えているのかもしれない。
そんな疑心を抱きながら、改めてニクラスを眺めてみれば、その地味な容貌すら凶暴なモンスターに見えてくるから不思議だ。
先入観の妙。人というのは、実にいい加減なものである。
「あの、フロレンツィアさんは……」
そわそわと、ニクラスは落ち着きがない。
「そのことなのですが、バッハ様」
支配人の説明を遮るように、客を出迎えるためのエントランスに一人の女が現れた。華やかに着飾ったウルスラである。
「はじめまして、ニクラスさん。あたしは、ウルスラっていいます」
「えっ……? あ、ああ、はじめまして……」
ニクラスが助けを求めるように視線をこちらに寄越したので、それをきっかけにヘクターは事情を話した。
「申し訳ありません、バッハ様。実は、フロレンツィアは急病に臥せっておりまして……。あまりに突然のことだったので、お知らせも間に合いませんで、大変失礼致しました。ただ、せっかくここまでお出でいただいたのに、このままお帰しするのも忍びないと、フロレンツィアも申しておりまして……」
「あたし、フロレンツィア姐さんに、あなたのことよろしく頼むってお願いされたんです! 精一杯、ご奉仕させていただきますね!」
ヘクターの話を引き継ぎ、ウルスラは明るく笑っている。
ニクラスは予想外の事態に戸惑っているようだ。当然だろう。そっとヘクターが耳打ちする。
「もちろん、キャンセルも承りますが……」
ニクラスが口を開く前に、ウルスラは素早くニクラスの腕を取り、豊満な胸を押しつけた。
「ねえ、ニクラスさん。今日はあたしと楽しみましょうよお! 姐さんの彼氏だもん! 本当は通ってもらわないとダメなんだけど、今夜は特別! いーーーっぱいサービスしてあげるね!」
「……!」
魅力的な女に耳元で囁かれて、ニクラスのつぶらな目が白黒している。
畳み掛けるように、ヘクターは尋ねた。
「……どうなさいますか?」
ニクラスはごくりと生唾を飲み込みながら、つっかえつっかえ答えた。
「せ、せっかくだから……。じゃあ……今日は、この人と過ごします……」
「うふ! 嬉しい!」
ウルスラは満足気に微笑むと、ぎこちないニクラスの腕を引っ張り、自分の受け持ちの部屋へと導いて行った。そんな二人の後ろ姿を、ヘクターは心配そうに見送る。
「大丈夫か……?」
だがそれは、まるっきりの杞憂であった。
その夜以降、ニクラスはウルスラのお得意様となったのだから。
もちろん、ニクラスからのフロレンツィアに宛てた粘着質な手紙は、一切届かなくなった。今はウルスラに熱を上げているのだろう。
軽いというか、「女だったら誰でもいいのか!」と、詰ってやりたくなるような変わり身の早さである。
――いや。ここはむしろ、ウルスラの手腕を褒めるべきなのだろう。
ニクラスの心変わりを告げると、フロレンツィアは「そう」と頷いただけだった。
彼女はこれで都合二回、ウルスラに客を取られたことになる。とはいえ今回の件は、フロレンツィア自身が押しつけたような形ではあるが。
それでもこのようなときの娼婦の心情は、いかばかりか。
もちろんそれをフロレンツィア自身に問うほど、ヘクターは鬼ではない。
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