呪いの蛇は恋の鎖

犬噛 クロ

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 ――来たくなかった。

 大きな門の前で、若き女呪術師、トトノス・マールゥは唇を噛み締めている。
 嫌々ながら訪れた邸宅はとんでもなく立派だった。その全容を上下左右完璧に見通そうとすれば、首の可動域を越えてしまう。それでも無理をして、トトの首はとうとう攣った。

「いだだだだ……!」

 さすが貴族様のお屋敷だ。住み込ませてもらっているテルノ師匠の家が五つ六つ、いや、十は入るのではないだろうか。
 痛む首を擦りつつ、門の脇に備えつけられた通用口のベルを鳴らす。すると、待つこともなく、使用人が現れた。

 ――こんなに大きなおうちで暮らしているなんて、やっぱりあの人とは住む世界が違うんだ……。

 見るからに高級そうな調度品が数多飾られた、塵ひとつ落ちていない廊下を延々歩いた末、トトは一階の中ほどにある応接室へ通された。
 部屋に入ると同時に、一人の青年が、バッと跳ねるようにソファから立ち上がった。

「やあ! よく来てくれたね、呪術師殿!」
「は……はあ」
「おお、相変わらずキュートだ! マーベラス! ベリーベリープリティ!」
「……………………」

 ――このノリには慣れない……。

 トトは目を半分閉じた。待ち構えていた青年のテンションの高さときたら、薄目で見るくらいがちょうどいいのだ。
 別に妙な病にかかっているわけでも、イケナイおクスリを使っているわけでもない。彼はいつもこんな調子である。ハイテンションで、常にフルスロットルなのだ。
 青年の名は、グノーシス・ギューリー。大貴族ギューリー家の長男にして、次期当主だ。

 ――だから、来たくなかったんだよお……。

 トトは今回の訪問を、さっそく後悔したのだった。

 トトノス・マールゥがグノーシス・ギューリーと初めて顔を合わせたのは、確か二年ほど前だったか。「呪術を広める会」の会合でのことだ。
「呪術を広める会」とはなんのひねりもなくその名のまんま、「一般の人々に、もっとスピリチュアルな世界を知ってもらおう」という趣旨の集まりである。
 その発起人の一人が、トトの師匠であるテルノだった。トトは「広める会」の手伝いをしており、対してグノーシスは会の後援、つまりスポンサーとして参加していたのである。
 グノーシスは初対面のトトを一目見るなり、いきなり口説き出した。

「おお、会いたかった、愛しい君! トトノス殿の噂はずっと前から聞いていたよ! さあ、結婚を前提に、僕とつき合ってくれたまえ!」
「……………………」

 そんな妄言、信じられるわけがない。
 持っていた杖でグノーシスを殴り倒そうとしたトトを、師匠のテルノは慌てて押し留めたのだった。

「ギューリー様は我が会にとって、大事な大っ事な金づる――いや、協力者なのだよ! ここはひとつ穏便に……!」

 そう縋られてしまえば、成敗することもできず……。しかしトトははっきり言って、グノーシスのような男は大嫌いだった。
 愚かで軟派で傲慢で金持ちでリア充でイケメンでファビュラスで。なんの苦労もなく、神様に贔屓されているとしか思えないほど順風満帆な人生を送っている人間が――。
 それ以降トトは、とりあえず殴ったり蹴ったり呪ったりはしないが、それでも露骨にグノーシスを避けた。しかし当のグノーシスは少しもへこたれることなく、トトにちょっかいを出してくる。

「忙しいのに、来てくれて嬉しいよ、トト!」

 長旅から帰ってきた主を出迎えた飼い犬のように、グノーシスは嬉々としてトトのもとへ駆けつけた。

「はあ、まあ……」

 何度も言うが、本当は来たくなかった。
 しかしようやく最近になって、トトは一人で仕事を任せてもらえるようになったのだ。だから少しでも顧客を増やしたいという欲があった。
 それに――。相手が誰であれ、「呪術に関することで手を借りたい」などと頼まれれば、好奇心を抑えることができなかった。
 トトは呪いの世界に身も心も浸かりきっている。様々な現象を見聞きし、知識をつけ、いつかは国一番の呪術師になりたいという夢を持っていた。

「さあさあ、座ってくれたまえ。君たちの仕事場は西の外れだし、ここまで遠かっただろう。疲れていないかい?」

 トトの背に手を回し、長椅子に誘う――グノーシスのそれは、女に触れることを躊躇しない、そして嫌がられるとは微塵も想定していない、流れるような仕草だった。

 ――これだから、遊び人は。

 心の中で毒づきながら、トトはどすんと乱暴にソファに腰を下ろした。正面に座ったグノーシスは、トトの無作法に気を悪くすることもなく、ニコニコしている。
 どうも調子が狂ってしまう。トトは口をへの字に曲げた。
 トトのように女で、十八という若輩で、呪術師なんて仕事をしている者は稀だ。

 ――胡散臭い目で見られるのは慣れっこだけど、こんな風に丁重に扱われるのは……。

 トトは、マナーだからとこの家に入る際に下げたフードをかぶり、隠れてしまいたくなった。

 ――こういうあらゆる意味で恵まれた人は、他人に優しく甘いんだ……。

 自分の一言が、どれだけ影響を与えるか知らずに。
 グノーシスは金髪に青い瞳の美男子で、当然めちゃくちゃモテる。彼が流した浮名の数と濃さは、世情に疎いトトの耳にも届いていたほどだ。
 それに引き換え、自分は……と、トトは俯いてしまう。グノーシスのようなパーフェクト超人に告白されても、信じろというほうが無理だ。

 ――この人にからかわれるたび、私は自分のことがますます嫌いになっていく……。

 チビで、色黒で、ガリガリに痩せていて。黒髪に黒い瞳はいかにも地味だし、顔にはそばかすがたくさんある。

 ――ああ、またネガティブになってしまった。

 落ち着こうと深呼吸をする。肺の中の空気を交換し、暗い気持ちを追い出すと、トトはいつもどおりの愛想のない仏頂面に戻った。

「早速ですが、御用について、お聞かせいただけますか?」
「ああ、是非とも相談に乗ってくれたまえ! でもその前に、お茶を一杯。それくらいの時間はあるよね?」

 ガクッと出鼻をくじかれる。ペースを崩されるのも、グノーシス相手ならばいつものことだ。
 直後きびきびと働くメイドが、珍しいガラス製の応接テーブルに、温かい紅茶と菓子を置いていった。

「さあさあ、どうぞ」
「は、はい。すみません……」

 手をつけないのも失礼かと、トトは鮮やかなピンク色のマカロンを摘み、口に運んだ。

「美味しい……!」

 感動のあまり、ついつい大きな声が漏れてしまう。ギューリー家で出されたこれに比べたら、自分が今まで食べてきたマカロンは、甘ったるい台所用スポンジだったのではないかと思えてくるほどだ。
 トトは夢中になって菓子を頬張り、だがハッと我に返ると、もぐもぐ口を動かしたままグノーシスを見詰めた。

「その警戒心の高さ、君は猫ちゃんのようだねえ。安心したまえ。いくら君が可愛くても、おやつを食べている隙に家に閉じ込めて、二度と外に出られないようにしたりとか、そういうことはしないから」

 グノーシスは苦笑している。

「べ、別に、そんな風には思っていません……」
「あ、その木苺のやつも美味しいけど、こっちの黄色いの、柚子のマカロンなんだけど、これもいい味だよ」
「ありがとうございます……。あ、本当だ。さっぱりしてて、美味しい……」
「気に入ってくれたのなら、お土産に持って帰るといい。お店の場所も教えてあげよう。下町にあるんだが、良い焼き菓子を作る店で……」

 油断すると、皿に盛られた全てを一人で食べてしまいそうだ。ぐっと堪えて、トトはグノーシスに向き直った。

「お詳しいのですね」

 やはり貴族だから、食通なのだろうか。
 しかしグノーシスは、トトの予想とは違う答えを堂々と返してきた。

「だって、美味しいものを食べているときの女の子って、とても可愛いじゃないか! 僕自身は食べものにこだわりはないが、でも女の子が幸せそうにしているところは見たい。だからスイーツの研究は欠かさないのさ!」
「……………………」

 ここまで女好きを徹底できるのは、賞賛に値するかもしれない……。トトは呆れつつも、感心した。

「もちろん今は、トト一筋だからね? 僕は長年培ったレディを喜ばせるテクニックを余すところなく使い、全力で君にアタックしている!」
「あ、はい、いえ。そういうのは、いいんで……」

 冷たく流されても、グノーシスはくじけない。気にした様子もなく、次の話題を振る。

「最近、仕事の調子はどうだい? 繁盛していると聞いているが。従業員を増やすだとかして、もっと手広くやってみたらどうかな? もしなんだったら、僕が援助させてもらうが」
「いえ、正直言って儲かりませんので、あまり規模を大きくしても……」
「ええ!? 世の中、インチキ紛いの呪術師が、ガンガン金儲けをしているというのに!? 僕なんてこの間、『札束の風呂にも入れる!』が売り文句の金運上昇ブレスレットを買ったけど、全然効果がなかったけどね!?」
「これ以上、お金持ちになってどうするんですか……」

 文句を言っているうちに感情が昂ぶったのか、グノーシスはせかせかと足を組んだ。その長さに、トトはつい見惚れてしまう。

「師匠や私のところに来るような人は、皆さんとても困っているのです。そういう方々から、必要以上にお金を取るというのは……。もちろん、私たちが暮らしていけるだけのものは、いただいてますけど」

 グノーシスは目を丸くしたあと、優美に微笑んだ。

「――なるほど。君たちはとても心が清らかなんだね」
「し、師匠はともかく、私はそんなことないです! 欲しいものも特にないし、呪術を極めることが私の目標ですから、今のように仕事ができればそれで十分というか……!」
「うんうん。僕はそういう君が、とても好きなんだ!」
「うー……」

 結局、そっちの方向へ話を運ばれてしまう。トトは顔を赤らめながら唸るしかない。

「そっ、それではそろそろご依頼について、お聞かせくださいっ!」
「ああ、そうか……」

 グノーシスは寂しそうだ。
 もうちょっとお喋りしていたい。実はトトも同じ気持ちだった。
 構われない距離まで逃げていって、いつもトトはそこからグノーシスを観察している。だから彼のことを、本当はよく知っているのだ。
 貴族の中の貴族と謳われたギューリー家を継ぐにあたり、とても厳格に育てられたことも。尊大とも取れる物言いは、周囲からの熾烈な要求をクリアした、その自信からきているのだということも。
 悪い人ではない――どころか、素晴らしい男性だというのは分かっていても、だがトトはグノーシスが惜しげもなく大量に投げつけてくる、「可愛い」とか「好きだ」とか、そういった言葉をどうしても信じることができない。

 ――だって私は「ブスだから幸せになれない」って……。

 呪いを解く側の呪術師でありながら、トトノス・マールゥは呪われている――。
 この場とは関係のないことを思い出しそうになって、トトは軽く首を振った。
 ところで呪術師を頼るのは、当然なにかしら困っている人たちだ。しかし健康そうだし、お金も持っているし、美しいし。そんなグノーシスに、一体どんな悩みがあるというのか。

「うーん」

 先ほどまで饒舌だったのが嘘のように、グノーシスは言い渋っている。

「……?」

 それほど深刻な依頼なのだろうか。
 トトが訝んでいると、グノーシスはのっそりと長椅子から立ち上がった。

「まあ、見てもらうのが、一番早いだろうから……」

 言った途端、グノーシスは自らのズボンと下着を、勢い良くズルッと下ろした。


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