湯屋「憩い湯」奇談

さち

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未来は明るいです①

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 蘆谷道満の一件が落ち着いてから、予定通り正月前には壱号館の営業を再開することができた。戦闘で負傷した従業員も皆大事には至らず、数日休むと仕事復帰した。
 元旦には餅つきをして客のみならず従業員にも餅と酒が振る舞われた。この年の正月はいつも以上の盛り上りを見せた。

 月日は流れ、憩い湯の主は代替わりをした。老化が止まり、いつまでも若い姿の伊織が壱号館の客の前に出るには支障が出始めた辺りで表向きの主を壱号館主任の佳純に代えた。だが、弐号館、参号館へは変わらず伊織が主として出向いた。伊織のそばには常に玉城が寄り添い、参号館の客たちからは早く祝言をあげればいいのにと言われつつ、ふたりは笑うだけでそれに答えることはなかった。
 さらに月日が流れ、伊織は人の輪廻を外れて鬼として生を歩み始めた。それからほどなくして伊織は玉城の子を身籠った。妖の子は人間のように十月十日も待たずに生まれてくる。生まれてきたのは玉城のような狐の耳と、伊織のような鬼の角を持った愛らしい男の子だった。ふたりの子が生まれた日は憩い湯総出で祝宴が開かれたほどだった。

「常磐、あまり遠くに行っては行けないよ!」
「はあい!」
外を歩く我が子を見つけて伊織が執務室の窓を開けて声をかける。元気に返事をした妖狐と半鬼の間に生まれた男の子は5歳になっていた。常磐と名付けれた男の子のそばには赤鬼がついている。伊織は元気に走り回る我が子に微笑むと窓を開けたまま席についた。
「常磐は元気だな」
「えぇ。色々なものに興味を示して、そばにいる赤霧が大変そうです」
蘆谷道満を倒してからすでに150年の時が経っていた。湯屋憩い湯は変わらずそこにあったが、人間たちの足はいつのまにか遠退き、今ここを訪れるのは妖や神、そして昔を懐かしんできてくれる少数の人間だけだった。
 人間の従業員もだいぶ減ってはいたが、時おりすがるように働かせてほしいとやってくる者がいる。ここは居場所のない人間にとっての駆け込み寺のようになっていた。
「伊織、そろそろだろう?」
「はい。力もだいぶ戻っていますし、青霧もあと数日だろうと言っていました」
伊織の母の部屋では変わらず父徨葵が力を回復させるために眠っていた。そして、ここ数年その力が戻りつつあるのを伊織たちは感じていた。最近は客たちの中にも気づくものがおり、そわそわと落ち着かない客も出てきていた。
「では、そろそろ祝言の用意をしてもいいかもしれないな」
「玉城をすっかり待たせてしまいましたね」
「かまわんさ。徨葵殿に見てもらいたいというのは俺も同じだしな」
玉城の言葉に伊織は照れ臭そうに頬を染めた。早く祝言をという神々の声に答えずずっと先延ばしにしてきたのは徨葵の目覚めを待ちたいという伊織の意向があった。徨葵がいなければ今自分は生きていない。それに、母に晴れ姿を見せることはできなかったが、せめて父には見せたいとの思いがあった。それには玉城も賛同して、そのためふたりは今まで祝言をあげなかった。

「常磐さま、少し休憩しましょう」
赤鬼の言葉にうなずいて常磐は憩い湯の中に入った。向かうのは祖父徨葵が眠る部屋。両親が仕事をしているとき、赤鬼青鬼と過ごすときは大抵外か徨葵が眠る部屋が定番になってしまっていた。
「今日のおやつは何かな?」
赤鬼と手を繋ぎながら無邪気に尋ねる常磐に赤鬼は慈しみ深い笑みを浮かべた。
「おかえりなさい」
部屋に入れば青鬼が笑顔で迎えてくれる。常磐は「ただいま!」と元気に返事をすると、眠っている祖父の顔を覗き込んだ。
「ねえ、おじいさまはいつ目を覚ますの?」
「もうすぐですよ。もうすぐお目覚めになります」
青鬼の答えに常磐は嬉しそうに笑った。
「僕、早くおじいさまとお話したいな!」
そう言って常磐が布団の上から徨葵に抱きつく。それはいつもの見慣れた光景だったが、その日はいつもと違った。抱きつかれても乗られて反応しなかった徨葵が身動ぎしたのだ。
「わっ!」
驚いた常磐が徨葵から離れる。3人が驚いて見つめていると、ゆっくりと徨葵の目が開いた。
「ぼ、僕、母さまたちを呼んでくる!」
常磐がそう言って部屋を飛び出す。赤鬼と青鬼は徨葵のそばに膝をついた。
「あ、主さま…」
恐る恐る赤鬼が声をかける。その声に反応して徨葵の瞳がふたりの鬼を映した。
「赤霧、青霧…」
長く声を発しなかったために掠れてはいたが、徨葵はしっかりとふたりの名を呼んだ。ふたりの鬼の目から涙が溢れ出す。徨葵は視線を動かして周りを見ると起き上がろうとした。
「ここは、憩い湯か?」
「はい。若と婿殿がここのほうが良いだろうとおっしゃって」
赤鬼が徨葵の背を支えながらうなずく。青鬼は湯のみに白湯を注いで徨葵に渡した。
白湯で喉を潤した徨葵はホッと息を吐くと小さな笑みを浮かべた。
「お前たちがこうしてここにいるということは、蘆谷道満の件は問題なく片付いたのだな?」
「はい。すでにあれから150年の月日が経っております」
「150…。些か長く眠りすぎたな。伊織は、どうしている?先ほど子どもの声を聞いたような気がしたが?」
徨葵が尋ねるのと同時にパタパタと近づいてくる足音が聞こえる。青鬼が先に戸を開けると、伊織と玉城が駆け込んできた。
「お父さん!目が覚めたんですね!」
起き上がっている徨葵を見て伊織が思わず抱きつく。徨葵は伊織を優しく抱き締めると「心配をかけた」と囁いた。
「お目覚めになってよかったです」
涙ぐみながら言う伊織は玉城の後ろに隠れている常磐を見ると手招いた。
「常磐、こちらにおいで。おじいさまにご挨拶を」
「おじいさま、ということは、やはりあの声はお前の子か」
嬉しそうに目を細めて徨葵が玉城の後ろにいる常磐を見る。常磐は玉城に背を押されておずおずとそばに寄った。
「おじいさま、はじめまして。常磐です」
「常磐か。良い名だ。あぁ、最近は意識がうっすら浮上することがあったが、時々感じていた気配はお前だな」
「常磐はいつもここで遊んでいましたから」
クスッと笑って伊織が言うと、常磐は真っ赤になって父の元に逃げてしまった。
「おやおや、あれだけ主さまとお話できるのを楽しみにしていらしたのに」
すっかり人見知りしてしまった常磐に赤鬼が笑う。徨葵は玉城にも伊織にもよく似ている孫を見て柔らかく微笑んだ。
「お父さんに話したいことがたくさんあります」
「そうだな。これから時間はたくさんある。焦ることはない」
穏やかに微笑んで頭を撫でてくれる徨葵に、伊織は涙を一筋流すと嬉しそうに微笑んでうなずいた。
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