よみじや

松田 詩依

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2.「あいをこめて」

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 約束の十月十一日――仕事を終えた康晴は真っ直ぐ保育園に赴いた。
 いつもより少し早く迎えに来られたからか、教室の中にはまだ子供達が数人残っていた。

「パパ! おかえりなさい!」
「ただいま、光」

 園庭で友達と遊んでいた光が父の姿を見つけると嬉しそうに駆け寄ってくる。

「光ちゃんは今日は楽しそうね。これからお父さんとどこかにお出掛けかな?」
「うん!」
「よかったね、楽しんできてね!」

 大急ぎで荷物を取ってきた光は早く早くと父の腕を引っ張りせがむ。
 上機嫌で別れを告げる光を、保育士たちは皆微笑ましそうに見送ってくれた。

「ねぇパパ。もうすぐママにあえるね」

 夕暮れ道を仲良く手を繋いで歩きながら、光は屈折ない笑顔を康晴に向けた。
 彼女は母に会えると信じ、今日という日を何よりも心待ちにしていたのだ。
 そんな娘を康晴は複雑な表情で見下ろした。

「……なぁ、光。ママは天国に行っちゃったんだ。もう二度と会えないんだよ」
「おてがみにはママにあえるってかいてあったもん!」

 康晴が何度諭しても光は全く聞く耳を持たなかった。
 あの手紙は誰かの悪戯で、死者とは会えないことを大人の康晴は分かりきっている。
 だが光は違う。純粋な子供なのだ。彼女は死者と会えるというお伽話を信じきっている。その幻想を裏切られた時、傷つくのは光自身だというのに。
 これ以上康晴は娘を悲しませたくはなかった。
 帰り道には必ず川の上を通る。気を反らせ別の道を選ぼうにも光の足はぐんぐんと橋の方へと向かって行く。
 止めなければならない。けれど、光のこんなに輝いた笑顔を見たのも久しぶりだった。
 時計の針はもう直ぐ六時を示そうとしている。
 結局康晴は良い言葉を思い浮かぶことなく、光に手を引かれ足を動かす他になかった。 


「ついた! ママ、どこにいるのかな?」

 橋の上に来ると、光は嬉しそうに欄干に駆け寄り、その隙間から川を見下ろした。
 住宅街を流れる長い川。川を沿うように長いジョギングコースがあり、春になると見事な桜が咲き誇る美しい場所だった。

「なんにもないね」

 光のいう通り、約束の時間は過ぎているというのに周囲にそれらしい人の姿は見えなかった。
 待てど暮らせど葵の姿は見えることなく、明るかった光の表情が徐々に曇り始めていた。

「光……」

 とうとうしゃがみ込んで膝を抱えた娘を見て、康晴は引き止めなかったことを後悔した。

「光。ママにはもう会えないんだよ」
「……あえるって、おてがみにかいてあったんだもん」

 康晴はその場にしゃがみ、光の顔を覗き込むとその目には涙が浮かんでいた。
 日は沈みかけ、あたりは薄暗くなりかけていた。

「……パパが頑張って美味しいカレー作るから。だから、帰ろう」

 康晴が手を差し伸べると、光も諦めたように頷いてその手を取って立ち上がった。
 仕方なく歩き出したものの、光は後ろ髪引かれたように何度も後ろを振り返る。歩いては立ち止まってを何度か繰り返し、光は諦めがついたのか肩を丸めて足を進めたその時、背後からふわりと食欲を唆る匂いが漂った。

「……パパ。カレーのにおいがするよ」

 漂ってきたのはカレーの匂い。
 少しずつ近づいて来るかのように、匂いは徐々に強まってくる。
 親子は思わず足を止め、ゆっくりと川の方を振り返った。 

「なんだ……これ」

 康晴は目を疑った。
 渡ってきたはずの橋は消え、目の前には暗闇が広がり、耳元ではざあざあと大きな川音が鳴っている。

「パパ……こわいよ……」
「大丈夫。パパがついてるからな」

 不安げな光の手を、康晴はしっかりと握りしめた。
 そうはいっても康晴もこの状況を理解できてはいない。立ち尽くしたまま周囲を見回すと、少し遠くに赤い提灯の明かりが風にゆらゆらと揺れているのが見えた。

「パパ?」
「いってみよう。パパの手、絶対に離すなよ」

 二人は恐る恐るその明かりの下を目指した。
 河原の石に時折足をもつれさせながら灯りの元に近づくと、ぼんやりと屋台のような輪郭が見えた。

「おてがみにかいてあったなまえとおなじだ……」

 光のいうとおり屋台に下げられた暖簾には『よみじや』と名前が書かれていた。
 僅かに風で揺れる暖簾の向こうには人の気配を感じる。カレーの匂いの出どころもこの屋台で間違いなさそうだ。
 康晴はごくりと生唾を飲み込んで、恐る恐る暖簾を持ち上げ中の様子を伺った。

「こんばんは」

 屋台の中には若い女性が一人佇んでいた。

「津田光さんとお父様ですね? お待ちしておりました」

 お辞儀をされると康晴もつられて頭を下げた。

「あの、ここは……」
「ここは亡くなった方と一度だけ会うことができる屋台『よみじや』です。私は先日お手紙を送らせていただいた、店主の千代と申します」

 微笑みながら店主に座るように促されると、二人は恐る恐る椅子に座った。
 光はおっかなびっくりしながらも、興味深そうに初めて見る屋台を見回していた。

「ほんとにママとあえるの?」
「ええ。お母様はもうすぐいらっしゃると思いますが……その前にこの店の注意事項をご説明します」

 店主は暖かいおしぼりとお茶を差し出すと、急に真剣な眼差しで言葉を続けた。


 一つ、故人と会えるのは一生に一度きり。
 二つ、故人が口にしているものを口にしてはいけない。
 三つ、故人と会っている間は絶対に屋台の外に出てはいけない。


「……この三つのルールさえ守って頂ければ、普通のお店と同じようにゆっくり寛いでいただいて構いません」

 言葉を言い終えると店主の表情は再び笑顔に戻った。

「そんなことを言われても……簡単には信じられません」

 説明を聞いた康晴は不審げに呟いた。
 突然現れた屋台。そして死者と会うためのルールを並べられた所で、そう簡単に非現実的なことを受け入れられるはずがない。

「皆さんそう仰います。ですが、お二人がいられた場所とは違うこの風景が何よりもの証拠です」
「第一、葵の姿が見えないじゃないですか」
「……此処はあの世とこの世を繋ぐ三途の川。川に流れる灯篭に灯りが灯っている間、死者と会うことができるのです」

 怪訝の表情を浮かべる康晴を気に止めることなく、店主は暖簾の隙間から向こうの様子を伺っていた。

「さんずのかわってなぁに?」
「死んだ人が船に乗って、この川を渡って死んだ人たちの世界へ渡るんだ」

 康晴自身もその程度の認識しかないが、そう説明すると光は興味深そうに頷いた。

「早くママ来ないかなぁ……」

 足をぷらぷらと揺らしながら母を待ちわびる光はすっかり腰を落ち着けていた。
 しかし康晴は警戒した瞳で店主を見上げた。人が良さそうな笑みを浮かべてはいるがこんな場所で屋台を出している彼女は本物の人間なのだろうか。

「パパ、ひかりがいっしょだからだいじょうぶだよ」

 光に励まされた康晴は苦笑を浮かべた。
 彼女が怖がっていないなら大丈夫だろう。もうどうにでもなれと康晴は腹をくくるようにおしぼりで顔を拭いた。
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