鴉取妖怪異譚

松田 詩依

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第壱話「幻影電車」

幻影電車・肆

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 前を向けなくなった男を一瞥し、黒い男は隣に視線を戻す。
 あの中で一番怯えていたであろう運転手が決死の表情でブレーキを握りしめていた。

「運転手」
「は、はいっ」
「恐ろしくはないのか」

 男はそう尋ねながら僅かに視線を下ろす。
 制御装置を握る手は小刻みに震え——否、運転手の全身は極寒の地に裸で捨てられたかのように酷く震えていた。

「お、恐ろしいです。恐ろしいに決まっています。ですが、私は乗客を無事に駅に送り届けることが仕事です。もし一人になったとしても……その責務を投げ出すわけには参りません」
「どうやらこの中で一番まともでいられたのは貴方のようだ。仕事に並々ならぬ情熱があるんだな……お見逸れした」

 目は泳ぎ、全身を震わせながらも運転手の言葉は決意が満ちていた。
 この乗客達の中で一番臆病で、自信なく、頼りなさそうな人物とは思えない言葉。黒い男は運転手に敬意がこもった視線を送る。

「運転手殿。私の話を聞いてくれるか? この怪異を抜け出すには貴方の力が必要だ」
「え、ええ。勿論です。今、この場で頼りになるのは貴方以外の他におりませんので」
「……この怪異の原因は貴方にもあるかもしれない」
「——私に、ですか?」

 運転手は前を見据えたまま瞬きを一つ。

「嗚呼。何か思い当たることはあるだろうか」
「思い当たることと……いわれましても」
「そうだな……例えば。電車を運転している際に普段とは違うなにかが起こった事などはないだろうか」

 悩むこと数十秒、思い当たる節があったのか運転手は手を更に震わせ下を向いた。

「いや、しかしまさか……でも。あ、あれは仕方がなかったんです。可哀想だと思ったけれど、あそこで電車を止めるわけにはいきませんでしたし、それに……突然のことでしたし、どちらにせよ間に合わなかった——」

 運転手の目は泳ぎ、冷や汗がどっと溢れ出し襟元をぐっしょりと濡らす。その様を見て、黒い男は納得した様に頷きを一つ。

「——轢いたのか」

 なにを、とも聞かれずとも運転手はゆっくりと頷いた。
 男はその答えに短くそうか、とだけ返し真っ直ぐと前を見据えた。
 電車は尋常ではない速度を保ったまま走り続ける。そして長い森の出口が見え、視界が開けた。

「此処は——」

 目の前に広がる線路。そして見慣れた煉瓦の街並み——此処は東都だ。
 見覚えのある景色に運転手は驚き目を瞬かせる。

「戻ってきたのでしょうか」

 運転手が淡い勘違いをするのは至極当然のこと。森を抜けた途端、電車の速度が明らかに落ちたからだ。それも停止装置が効いたのではなく、あくまでも自然に。

「いいや。ここはまだ怪異の中だ。運転手殿、退いてくれるか」

 だが黒男は、否、と首を横に振る。そっと、黒男は運転手を押しのけて運転席の前に立った。
 電車は徐々に速度を緩めながらも、まるで走り疲れた人間が脇腹を抑えて歩いているかの如く、線路の上をゆっくりと動いている。

「——此処からが本番だ」

 男は流れゆく東都の街並みを眺めながら、徐に左手の手袋を脱いだ。
 黒革の手袋の下から現れたモノを見て、運転手は上げかけた悲鳴を飲み込んだ。
 そこには、手袋をしていた時となんら変わりはない——寧ろ光を反射していた手袋の方が明るく感じるほどの、木炭のように真っ黒な手が顔を出した。
 人間の物とはまるで違う。その左手はまるで鴉の足の様に鱗模様が浮かび、指先には鋭く尖った鉤爪が生えていた。
 黒い男はその恐ろしく不気味な左手で、停止装置を握りしめる。
 すると電車は最後の力を振り絞る様に、再び速度を上げ真っ直ぐ東都駅の方へ向かいはじめたではないか。
 男が力を込めると、びくともしなかった停止装置がゆっくりときき始めた。

「うわああああっ!」

 運転手上げた鼓膜が破れそうなほどの大声に、男は眉を顰め前方を見た。
 目の前から突然明かりが照らされて男は目を細めた。駅の方から物凄い速度で電車が此方に向かってきているのが見えた。
 今度は他の乗客達にもはっきりと見えているのか、背後からも断末魔の様なけたたましい悲鳴が聞こえる。

「っ……止まれ」

 男は額に汗を滲ませながら停止装置を引くが、いまだに止まらない。

「——また繰り返すつもりか。いい加減眠りにつけ……お前を縛る悪いものは私が食おう」

 男は歯を食いしばり停止装置を思い切り引きながら、何かに語りかける様に言葉を紡ぐ。
 目の前に迫る電車はまるで人間が小さな模型のようになってしまったように大きく見えた。見上げる様に眼前の運転席を見ると、そこに立つ運転手の姿がはっきりと見える。

「なっ……」
「そうか。やはり、そうか」

 黒い男はやはりと口角を上げ、運転手は愕然と腰を抜かした。
 こちらに向かってくる電車の運転手は——紛れもなく隣にいる運転手だったのだ。
 
 その瞬間、ぴたり、と男たちが乗っている電車は停車した。
 しかし向かいの電車は止まることはなく、警笛を鳴らしながら真っ直ぐに突っ込んでくる。
 皆衝撃を覚悟する様に、体を寄せ合い、耳を塞ぎ、目を固く閉じる。
 唯一人、黒い手で停止装置を握る男だけが真っ直ぐ前を見据えていた。そして相手側の運転手とはっきり目が合った瞬間——男はにいっと楽しげに笑みを浮かべた。

 むしゃり。

 ——目の前に広がる暗闇。訪れる静寂。

 むしゃり。むしゃり。

 その中で、葉物を食べるでなく、肉を食べるでなく、なんとも呼び難い奇妙な咀嚼音が聞こえていた。
 それと同時に聞こえる鳥が羽ばたくような羽音。

 むしゃ。むしゃ。むしゃり——ごくん。

 なにかがなにかを飲み込んだ。

 そうして最後にどんっという鈍い音がして、電車は僅かに揺れたのだった。
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