いつもの毎日をきみと

なつか

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7. 運命・前編

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 それからというもの、まずは動こうと維人の父親が務めている建設会社の地方支社がある地域に足を運ぶようになった。今日も学会を理由にして訪れた地方都市で当てもなく大型ショッピングモールのベンチに座っている。
 この大型ショッピングモール以外には田んぼと民家しかないような絵にかいたような地方都市。だからきっと近隣の人ならみんな来るんじゃないか、なんて浅知恵で来てみたはいいものの、地方の大型ショッピングモールの広さを舐めていた。
 四階建ての建物はとにかく横に長い。端から端まで行くのに何分かかるのだろう。おまけに昼時なこともあって、家族連れでごった返している。こんなところでばったりと出会えたら奇跡だ。
 でも、“運命”ならこの何千、何万と言う人の中からきっと出会えるだろう? そんな祈りにも似た想いで目の前を通り過ぎていくたくさんの家族連れを眺めていた。
 誰も皆、パートナーやその子供と手をつなぎ、幸せそうに微笑んでいる。その優しい光の中にぽつんと一人で座っている自分が不必要な異分子のように思えて目を伏せると、ふと目の前にそろえられた小さな靴が目に入った。
 顔を上げると、そこにいたのは六から七歳位くらいの女の子。真っ直ぐ伸びた色素の薄い長い髪に、山吹色の大きな瞳。たいそうな美少女だが、どこか既視感がある。
 その美少女は覗き込むようにじいっと諒を見つめていた。あたりを見回しても保護者らしき人はいない。子供への接し方にデリケートな配慮が求められる昨今、今の状況はあまりよろしくない。疑われる前に店員を呼ぼうと立ち上がろうとすると、その美少女は突然諒に顔を寄せ、すんっと鼻を鳴らした。
 驚いて後ろにのけぞると同時に壁に頭をぶつけた音が響く。でも、美少女はそんな諒の様子は気にも留めず、ぱあっと光が差し込んだように笑顔を輝かせた。
「やっぱり、お父さんだ!」
 その少女の言葉に心臓が強く打ち跳ねる。そして唐突に気が付いた。
 真っ直ぐに伸びた色素の薄い髪に、山吹色の瞳。既視感があって当たり前だ。
 だって自分と同じ色のなのだから。
 諒は壁から背を離して座り直し、見れば見るほど自分にそっくりのその少女に震える声で名を尋ねた。
「えっと、きみの名前を聞いてもいいかな」
「わたしはね、さくらば、」
「真結!!」

 声が聞こえる。
 少し高めの、明るくて優しい声。それから香り。

 震える手足に何とか力を籠めて立ち上がり、少女が駆けていった方を見る。

 会いたかった。
 夢に見るほど会いたくてたまらなかった。

「維人」

 痛いほどに早く動く心臓で揺れる瞳に映ったのは、あのころと変わらないその姿だった。

「…諒……」

 柔らかい黒髪に、小さな顔のほとんどを占めているんじゃないかと思うほどの大きな瞳。そして優しい声と、求めてやまなかったあの懐かしい香り。
 あの頃と何も変わらない維人は、今腕の中に諒によく似た少女を抱きしめている。あの子がおそらく、いや絶対に維人が産んだ子供だ。
 ところが、側へ行こうと足を進めると、維人は後ずさり、少女の手を引っ張って走って行ってしまった。
「ま、待って! 維人!!」
 慌てて追いかけるが、昼食時のショッピングモールはかなり混みあっている。人を避けて追いかけるのはなかなか至難の業、と思っていたが息を切らすまでもなくあっさりと数メートルで維人を捕まえた。
「くっ、足の遅い自分が憎い……」
「俺的にはよかったけど」
 そう言えば維人は極度の運動音痴で、球技はおろか、ただ走ることさえ苦手だった。高校のころそのどんくささがたまらなくかわいいと思っていたが、そんなところも変わっていない。もちろん、そんな維人を愛しく思う気持ちも。
 でも、やっぱり逃げたかっただろうか、と心がざわつく。それでもようやくつかんだその腕を離すことなんてできない。維人も、気まずそうに目線を合わせずにいるが、掴む腕を振りほどこうとはしなかった。
「久しぶり、維人」
「うん……」
 なかなか続く言葉が出ず、気まずいまま続く沈黙を破ったのは少し不安げな少女の声だった。
「お母さんはお父さんに会えてうれしくないの?」
「えっ、えっと、その……」
 肯定するわけにも否定するわけにもいかない問いかけに戸惑う維人にごめんっと心の中で謝りつつ、少女の前に膝をついた。
「ごめんね、急にびっくりしたよね。俺は木暮 諒と言います。もう一回、きみの名前を聞いてもいいかな?」
「さくらば まゆです!」
 顔のパーツは諒によく似ているが、笑った顔は維人の面差しがある。それだけで何やら胸の奥からこみ上げてくるものがあり、涙ぐみそうになってしまった。
「まゆちゃん、いい名前だね。まゆちゃんは俺のこと知ってたのかな?」
「んーん、お顔は知らなかったよ。でも、すぐわかったよ! だってマフラーと同じ匂いがするから!」
「マフラー?」
「わーーー!!!! ま、真結、お母さんはおと…、このお兄さんとちょっとお話がしたいから、あそこで遊んで待っててくれるかなぁ?!」
 わざとらしく話を遮った維人が指さしたキッズスペースに真結が走っていったのを見届けると、そこが見える位置にあったベンチに二人で座った。人一人半くらいの微妙なスペースを空けて。これが今の互いの距離感なんだろう。
「かわいくて、賢そうな子だな。さすが維人と……俺の子ってとこ?」
 わざといたずらっぽく笑って見せると、維人は困ったような顔をした。当然だ。Ωになったことも、子供の存在も知らないはずなのに驚きもせず、問い詰めもせずにいるのだから。
「維人、俺は今県立の総合病院で働いてる。維人があの子を産んだ病院だ」
 そこまで言えば頭の回転の速い維人はだいたいのことを察しってくれるだろうかと思ったが、それとは違う、予想外の言葉が返ってきた。
「じゃあ、お医者さんになったの?!」
「えっ、う、うん。まだ研修医だけど」
「そっか、よかった! 夢叶えたんだね、おめでとう。どうなったかなぁってずっと気になってたんだ」
 目を細め、嬉しそうに微笑む維人を目の前に、今度はこみ上げるものを止める堰はなく、あっけなく崩壊した涙腺から大量の涙があふれだした。

 ――どうしてそんな……、俺は維人にひどいことをしたのに……。

 少しだけ昼食時を過ぎても、まだショッピングモールにはたくさんの人が行きかっている。当然、さめざめと泣く諒の前を歩く人はギョッとした顔で通り過ぎていく。
「どうしたの?! なんで、どうしよう、」
「ごめん、俺が泣くのは違うよな……ホントごめん……」
 でも、もうどう頑張っても涙は止まらなかった。
 うわごとのように「ごめん」と繰り返しながら、あふれ出す涙を何とか止めようと顔を覆い、下を向くと、唐突にふわりと小さな温もりとあの香りが包んだ。
 澄んだ冬の朝のような、混じりけのない真っ直ぐな香り。
 大好きで、愛しいその香りを纏った小さな温もりは、そっと優しく諒の背を撫でた。
「だいじょうぶだよ、お父さん。まゆがいるから、もうだいじょうぶ」
 きっとこんなふうにいつも維人に抱きしめられているのだろう。こうして香りが移るほどに。

 真結の存在を知ったとき、本当は少し怖くなった。
 これまで存在すら知らなかった我が子。ただでさえ、自分自身が親に愛された記憶がないのに、いざ会ったとき何の感情も湧かなかったら? そんな不安を抱いた。
 でも、そんなの完全に杞憂だった。こんな優しい子、愛さずにいられるはずがない。

 ――『まゆ』っていう名の意味をあとで教えてもらおう。

 その大切な“意味”を知りたい、心からそう思う。
 愛おしい温もりに触れ、ようやく収まる兆しを見せた涙を拭きながら顔を上げ、真結の柔らかい髪をそっと撫でた。
「ありがとう、まゆちゃんがいてくれてよかった」
 少しはにかんだ真結はやっぱり維人によく似ていた。


 随分とショッピングモール内で目立ってしまったおかげで何とも居心地が悪くなり、維人の家で話の続きをすることになった。完全に想定外。棚から牡丹餅だ。
 楽し気に歩く真結に手を引かれながら浮かれ気分で十五分ほど歩いた先、田んぼの間を縫って建つ家々の中にある茶色い外壁のアパートが今の二人の住処らしい。「あそこだよ!」と満面の笑みで指を差す真結についていくと、ちょうどそのアパートの正面にある家から人が出てきた。
「あっけいくんとかのちゃんだ! こんにちは!」
 いわゆるご近所さんというやつだろう。真結に倣って母親らしき女性と、真結と変わらない年くらいの男の子に「こんにちは」と軽く会釈する。すると、その女性は目を丸め、維人めがけて走ってきた。
「ちょっと維人くん?! 誰よあのイケメン!!」
 維人の肩に腕を回し、諒から少しだけ距離をとるように離れたはいいが、残念ながら声が大きくて丸聞こえだ。
 でも、二人の雰囲気から親しい間柄ではありそうなので、黙って見守ることにした。何より、彼女のうなじにはしっかりと歯形が付いているから心配することはない。
 そう言えば、維人とは番が成立しているとカルテにあった。ということは維人のうなじにも噛み跡があるはずだが、とちょうど後ろ向いて立っている維人の首筋に目を凝らす。でも、服に隠れているのか、そこからは見えなかった。
 当の維人は何とか質問から逃れようとしどろもどろになっている。でも、そこへ真結が無邪気に爆弾を落とした。
「わたしのお父さんだよ!」
 その言葉に言い知れない満足感が広がる。うんうん、と後で頷いていると、その女性は目を輝かせ、維人から離れて真結の前に屈んだ。
「真結ちゃん!! 今日うちにお泊りにおいで!!」
「えっ、ちょっと佳乃かのさん?!」
「行くーー!!」
「よし、決まりぃ!」
 彼女は維人の引き留める言葉にも「大丈夫、大丈夫!」と軽く返し、星が飛んできそうなほど見事なウインクを諒に向かって決め、真結を自分の家へと手を引いて行ってしまった。
 あっけにとられたまま取り残されてしまった維人は諦めたようにため息を吐き、とりあえず部屋に行こう、とアパートに向かって歩き始めた。

 維人と真結の部屋はアパートの二階、階段から離れた一番奥。維人が鍵を開けている間、通路の先を照らす夕焼けに目を細めた。
 家と田んぼの向こうにオレンジ色に染まった大型ショッピングモールが見える。あの店のおかげで維人に再会できたのだと思うと、何やら神々しいものに見えてくるから不思議だ。

 ――完全に浮かれてるな。

 決して真結のことを邪魔に思っていたわけではない。でも、ただでさえ家に行けることに浮かれていた上に、計らずとも二人っきりになったこの状況にどうしても顔が緩んでしまう。
 そんな自分に呆れながらも後光の差すショッピングモール様を心の中で拝んでいると、維人が「何見てんの?」と不思議そうな顔でこちらを覗き込んだ。
「輝いてんなぁと思って」
「何それ、何にもないじゃん」
 笑いながら「どうぞ」と招き入れられた玄関に入った途端、思わず足を止めた。
「どうしたの??」
「……維人の匂いがする」
 すぅっと鼻から胸いっぱいに吸い込むとそれまで体の中にあった淀みのような、ドロドロとしたものが消えて心が軽くなっていく。
 空気清浄機、なんて例えたこともあるが『浄化』の方が正しいかもしれない。なんて維人の香りを堪能していると、背にドンッと鈍い衝撃を受けた。
「ちょっと、人んちの匂いかがないでよ!」
 顔を赤くし、むうっと眉間にしわを寄せる顔がかわいくて、維人を腕の間に閉じ込めるように玄関ドアに両手を突く。
「じゃあ直接嗅いでもいい?」
 そのまま首筋に顔を寄せ、鼻から息を吸い込もうとしたとき、今度は腹にさっきより強い衝撃を受けた。
「ナイスパンチ……」
 見事な右ストレートを決め、耳まで真っ赤に染めながらぷんぷんと先に進んでいく維人について入ったリビングの壁には真結が書いたのだろう絵が貼られ、棚の上にはたくさんの写真が飾ってある。
 まだ生まれたばかり赤ちゃんと維人が写った写真から、一歳、二歳、と毎年の誕生日の写真。どれも幸せそうな写真ばかり。でも、その中に見覚えのある顔を見つけた途端、ピクリと眉が動いた。

 ――田所……。

 やっぱり、と思うのだが、自分がいることができなかった場所に収まる一に黒く濁った感情が湧きあがってくる。
「田所とは今も付き合いあるんだな」
 自分でも驚くほどに鋭い声が出た。
「あ、うん……」
 どこかしら曖昧な返答に、もしかして付き合ってる? と喉まで出かかって、ギリギリのところでそのまま飲み込む。
 でも、多分だけど部屋の雰囲気から一緒に住んではいなさそう。そこだけはほっと胸を撫で下ろした。
 とりあえず一のことは一旦置いて置いておく。だって、肯定されたとき正気でいられる自信がない。
 手に取っていた写真をもとの位置に戻し、座るよう促されたダイニングテーブルの椅子に腰を掛けた。
「さっき、県立の総合病院で働いてるって言ったよな。そこで維人のカルテを見たんだ」
「あ、だから……。まさかそこからバレるとは思わなかったなぁ」
 正面に腰を掛けた維人はハハっとから笑いをすると下を向いたまま黙り込んでしまった。
「それからずっと探してた」
「えっ、」
「でも、全然どこにいるかわからないし、どうやって探したらいいのかもわからなくて。今日だって何の当てもないのに、ただあそこに座ってただけだったんだ」
 どうしようもないほど恋しくて、会いたいとずっと願っていた、祈っていた。でも、その途方もない祈りを真結が繋いでくれた。
「後でまたまゆちゃんにお礼言わないとな。俺を見つけてくれてありがとうって」
 俺たちを繋ぐ架け橋になってくれたんだから、なんて口からこぼすと、維人はその大きな目がころんと落ちてしまいそうなほど目を丸めた。
「えっ俺なんか変なこと言った??」
「違っ、えっと……また、今度話す……」
 “今度”という言葉がまるでやまびこのように頭の中に響き渡る。じんわりと広がる喜びで勝手に上を向こうとする口角を何とか止め、努めて落ち着いた声を出した。
「……それは、これからも俺と会ってくれるってこと?」
 もじもじと少し居心地悪げに視線を落としていた維人の手に上からそっと手を重ねると、維人はビクリと肩を震わせた。
「ずっと維人に会いたかった。やっと会えたのに、また会えなくなるのは嫌だ」
 重ねた手をそっと持ち上げて指先に唇を寄せ、そのまま口付ける。すると、ふといつもと少しだけ違う香りが鼻に触れた。あれ、と思ったのもつかの間、握っていた手がパッと離れ、突然立ち上がった維人は逃げるようにしてそのままリビングの奥にあった部屋に駆け込んでしまった。

「維人?!」
「開けないで!」
 慌てて追いかけたが、カチリという鍵が閉まった小さな音と共に閉ざされたドアの向こうから聞こえる声は、さっきまでの穏やかで優しい声とは打って変わって焦りを帯びている。
 その声にハッと自分の愚かしさにようやく気が付いた。
 再会した直後こそ維人は逃げようとしたが、その後は諒を拒絶するような態度は一切取らなかった。客観的に見てもむしろ好意的な態度だったと思う。
 それに浮かれてあんなふうに迫るなんて、ただでさえ前科があるのに最悪中の最悪だ。

『許されたと思うな』

 一の声が頭の中に響く。あの日、維人にしたことは簡単に許されるようなことではない、絶対に。
 グッと奥歯を噛みしめながら、ドアに隔たれた向こう側にある維人の気配を探るようにドアにそっと額を当てた。
「ごめん維人……。急にあんなことして……イヤだったよな」
「ち、違うよ! 別にイヤっていうわけじゃなくて……」
「えっ……?」
「諒に触れられてイヤだなんて思わないよ。むしろ……」
 そんなこと言われた都合よく解釈してしまう。浮かれてしまう。さっき自分を戒めたばかりなのに本当に調子がいい。
 でも、それなら今逃げるように部屋に閉じこもってしまったのはなぜ?
 おし黙る維人に、「出て来てほしい」と請うように呼びかける。それでも維人は頑なに出て来てはくれない。
「維人、お願いだから出て来て」
「だ、ダメだって」
「なんで?」
「だって、その……、フェロモンが出ちゃって……」
 あぁそうか、さっき一瞬だけ香った維人の香りに少し甘さを含んだような香りは、維人のフェロモンの香りだったんだ。
 運命の番は、一目見ただけで互いに強く惹かれ合うという。あけすけに言うと、目が合っただけで発情してしまうということだ。
 すでに番になっているせいか、そこまでの性急な反応は起こらなかったが、諒が軽はずみに触れたせいでフェロモンが漏れ出してしまったのだろう。
 でも、それなら逆に出て来てほしいなぁ、なんて脳裏に浮かんだ邪な考えをプルプルと吹き飛ばす。
「大丈夫、俺は抑制剤飲んでるから。維人は薬ある?」
「僕も飲んでる。でも、僕たちは運命だから薬が効かないのかも……だから収まるまでこのままでいさせて」
「ちょっとくらいなら大丈夫だよ。絶対に何もしない。だから出て来て」
「でも、諒はΩのフェロモン苦手でしょ……?」
 その言葉にハッとした。
 Ωのフェロモンを過剰に感知してしまっていたころ、Ωの存在は諒にとって体調を害するものでしかなかった。だから、極力か関わらなかったし、基本的には避けていた。
 そのことをもちろん維人は知っている。だから、“Ωになった自分”も諒を害してしまうと思ったのかもしれない。
「俺の、ため……?」
 いつも、維人は自分のことよりも諒を心配し、優先する。そんな優しすぎる維人が大好きで、愛しくて、寂しかった。
 維人の優しさに甘えるだけの自分が、悔しくてたまらない。今もそうだ。諒に不快な思いをさせないために、わざわざ部屋に閉じこもったんだ。
「ごめん」
 小さくつぶやくと、ずるずると扉の向こうで維人が座り込んだような音がした。
「違う、違うんだ……。僕ね、諒に“いい香りだ”って言ってもらえるのすごく嬉しかった。そのおかげで、七年前も諒は僕を選んでくれたんだし。でも、僕はΩになっちゃって……もう匂いが変わっちゃったかもしれない。だから今ここにいるのは諒のためじゃない。僕が嫌なんだ。諒に前と違うって拒否されるのが怖いから……」
「そんなことするわけない!」
 思わず、維人の言葉をさえぎって叫んでいた。
 さっきの一瞬で、むしろ嗅いでいなくてもわかる。絶対にいい香りだ。だって好きな人の、維人の香りなんだから。
 でも、そこでふと――ようやく――気が付いた。
 これまで一言も維人に自分の気持ちを告げていないということに。
 アクシデントとは言え、身体の関係を先に持ってしまって、互いに“運命の番”であることがわかって、子供までいて、伝わっている気になっていたが、そういえば一言も言っていない。
 他からしてみればあからさまな好意にだって全く気が付ないほど維人は鈍感なんだった。
 思わず「あ~~」っと間の抜けた声を出しながら頭を抱え、しゃがみこんでしまった。
「諒?! どうかした??」
「自分のバカさに耐えられなくなってる……」
 でも、今は反省している場合じゃない。この機会を逃したらもう一度会ってくれるかもわからないのだ。
 覚悟を決めてまた立ち上がり、ドアの向こうにいる維人にもう一度声をかけた。
「維人、俺は確かに維人の香りがすごく好きだよ。本当にいい香りだから。でも、それだけじゃない」
 維人は覚えているだろうか。高一の時に保健室で話したこと。
 初めて“木暮 諒”という存在に意味を与えてもらったときのことを。
 あれからずっと、維人は特別で、唯一の存在で、そんな想いが恋愛感情に変わるのに時間はかからなかった。
 当然維人がβ男性であることはわかっていたし、そもそもΩは苦手だったから何も問題ないと思っていた。まさかそのあと維人がΩになるとはさすがに考えもしなかったが、そんなことは関係ない。
 だって、
「維人はずっと俺にとって特別な人だ。性別も匂いも関係ない。全部維人だから好きなんだ」
 伝わるだろうか、わかってくれるだろうか、受入れて、くれるだろうか。
 いや、もう知っておいてくれるだけでもいい。そう思うだけで少し気持ちが落ち着いた。
 それでもまだ維人からの反応はない。やっぱりダメだろうか、と弱気になる心を握るように冷えた手で拳を作り、これで最後だと自分に言い聞かせ、「出て来て」と声を振り絞った。
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