神様の言うとおりに

なつか

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8. 嘘つき

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 旭が風呂に入っている間、昨夜はできなかった旭のスマホをチェックする。英司が言っていた通り、課題で聞きたいことがある、などと英司から数件のメッセージと着信履歴が残っていたが、まだ返してはいないようだ。
 朝に置いていった位置からスマホは動いていないから、触ってすらいないのだろう。外部と連絡を取ろうという思いにはまだ至っていないようで少し胸を撫で下ろした。
 でも、きっとそれもあと数日も持たない。さっき事後に見せた表情からして、旭は巴が“種主”とやらになることをきっとまだ受け入れていない。

 ――甘えてくれたら、ドロドロに溶けてしまうまで甘やかすのに。

 発情状態の時に聞けば素直に話してくれるかもしれないが、それでは後々正気に戻ったときに『覚えていない』などと言い逃れをされかねない。旭の頑なさは説得する方に回るとほんとに厄介だ。
 頭を悩ませているうちに、風呂から上がった旭がとぼとぼと戻ってきた。乾かしてこなかったようで、髪からはまだ水滴が滴っている。そんな姿なんて何度も見ているはずなのに、今は無性に胸がかき乱される。
 正直、巴の旭に対する想いは、純粋な愛などではなく執着に近いと自分でもわかっている。ところが、これまでほとんど意識していなかった――しないようにしていた――性欲まで絡んできたせいで、旭に対する想いが暴力的なほど強く、深くなってしまっている。
 巴の身体に満ち始めたこの想いを今は何とか踏みとどまらせている理性も、波打ち際に置かれた砂の城のようにいとも簡単に崩れてしまうのは時間の問題だろう。
 まるで曇天の海のように暗く濁った自分の感情を今は見て見ぬふりをし、巴はちょこんとソファに座っている旭の横に座った。
「髪、ちゃんと乾かさないとダメだよ」
「……そのうち乾くからいい」
 拗ねたようにそっぽを向く旭の首にかかったままになっていたタオルと取って髪を拭くと、旭は下を向いたまま小さく「ごめん」と呟いた。
「それは何に対する『ごめん』?」
「……巻き込んで……」
「言った気がするけど、僕は巻き込んでほしいんだよ。お願いだから一人で悩まないで」
 下を向いたまままた黙ってしまった旭の顔を両手で包んでぐっと上を向けると、大きな黒い瞳には今にもあふれ出しそうなほど涙が溜まっていた。その瞳にそっとキスをすると、反対側の目からこぼれ落ちた涙が頬に一筋の後を残して、ポタリとどこかに落ちて行った。
「俺は……巴にこんなことさせたくない……」
「それは、僕とセックスするのがイヤだってこと?」
「そう言うことじゃなくて……、いや、そうなんだけど、 」
「旭はそうじゃないのかもしれないけど、僕は自分の意思で旭を抱いたよ。僕は巻き込まれて仕方なくしてるんじゃない。僕がそうしたいからしてるんだ」
 次々と瞳からこぼれ落ちる涙をぬぐい、そっと唇を重ねると、旭は元から大きな目をさらにまん丸に見開いて表情を固まらせた。
「僕は旭のためなら何でもできるし、何でもしてあげたい。だから、旭が僕を求めてくれるのも、抱きあえるのもすごく嬉しいんだ」
 表情を固まらせたままの旭の頬に手を伸ばし、もう一度キスをしようと顔を寄せたその時、空気を読まない着信音が部屋に響いた。
 その音に驚いたのか、旭はすぐ顔の傍まで近づいていた巴をドンと押し、慌てて立ち上がった。
「お、俺のスマホ……」
 巴は心の中で盛大に舌打ちをしながら、何とか表情だけは取り繕って旭のスマホがおいてある場所を指さす。
 バタバタと焦るように電話に出た旭をじいっと眺めながら、電話相手を確認するために自分のスマホのアプリを開く。案の定、相手は英司だった。
「今ちょっと忙しいんだよ……多分、九月になったら……」
 どうにか電話の内容も監視できるものはないのだろうかとイライラとしながら聞き耳を立てるが、全ての会話が聞き取れるはずもなく、ただただ苛立ちが増す。
 盗み聞くのも虚しくなり、諦めて夕飯の支度にとりかかることにした。
 この部屋は巴が所属するモデル事務所が管理するマンションの一室で、大学生の一人暮らしとしては十分すぎる広さと設備が整っている。特にカウンターキッチンは作業スペースも十分な広さで、コンロも二口。夕食は旭のアパートで作って食べることが多いが、ここの方が比較にならないほど快適だ。だからこそ、以前からここで一緒に暮らそうと旭には言っているが、今のところ首を縦に振ってはくれていない。

 ――このままずっとここに閉じ込めちゃえばいいかな。

 切った野菜をいためながら、パスタを茹でる。料理中は考え事をするのに向いていると思う。決まった作業工程をこなしていると頭の中も整理ができるから。
 旭の口からこの状況を直接聞きたいと思っていたが、だいたいのことはわかったし、別にもういいのではないかという気がしてきた。
 今はそれよりもここにいてもらうことの方が大切だ。“目的”を見誤ってはいけない。
 茹で上がったパスタを野菜を炒めていたフライパンへと移し、具材と絡める。少し塩を足して味を調えていくと、フライパンから立ち上る湯気からよい香りが立ち込めた。
 そうしているうちに、電話を切った旭がまだ気まずそうな顔のまま巴に声をかけた。
「俺、課題やらないといけないから明日アパートに帰る。服とかってどこにある?」
 まるでさっきの巴の話などなかったもののような旭の言葉に、フライパンで頭を横から叩かれたのかなと思うほどの音が脳内に響いた。
 伝わっていないのか、ないことにしようとしているのか、どちらにしても旭は巴を選ばないという結論を出した。
 頭の中にある砂の城が波にさらわれていく音がする。重みに耐えきれなくなった曇天の空が海へと落ち、目に映るすべてが灰色に変わっていく。
 色をなくした世界にただ一人ぽつんと立つ巴自身も、その波にさらわれていくような気がした。
 ふいに浮かんだ恐怖を振り払うように笑顔を作るが、口の端が上を向くのを拒むようにヒクヒクと震える。
「課題は僕が部屋からとってきてあげるよ」
「えっいいよ、帰ればいいだけだし」
「またさっきみたいになったらどうするつもりなの?」
「……もう、大丈夫だから」
 話す間、旭とほとんど目が合わなかった。
「……嘘つき」
「えっ?」
 ぼそっと投げつけた言葉は旭にぶつかることなく、そのまま床にポトリと落ちた。
「とりあえずご飯食べよっか」
 そう言ってもう一度にっこりと笑って見せ、皿に盛りつけたパスタを渡すと、旭は俯いたままダイニングテーブルにそれを運び、椅子に腰を掛けた。
 巴も旭の正面に腰を掛け、二人とも黙ったままパスタを口に運んでいく。旭はいつも巴の料理をおいしいとか、ありがとうなどと言いながら食べてくれるのに、今日は下を向いたまま目線も合わせようとしない。
 思わずふうっとため息を吐くと、旭は小さくビクッと肩を震わせた。
「……僕が怖い?」
 そう尋ねると、旭はパッと一瞬だけ顔を上げ、またすぐにうつむいてしまった。
「巴、昨日から全然知らない人みたいだ……」
「僕はなにも変わってないよ。僕は今までもこれからもずっと旭が一番大切だし、ずっと一緒にいたいと思ってる。そのためならなんだってするよ」
 これまでもことあるごとに巴の想いは伝えてきた。
 旭が一番大切だ。ずっと一緒にいたい。他には何もいらない、と。
 でも、旭はただの軽口だと思って真剣には受け取ってくれたことはない。
 巴自身もまだそれでいいと思っていた。
 でも今は違う。旭もきっと今までとは違うを感じたのだろう。戸惑いを隠さず、今にも泣きだしそうな顔で巴をじっと見た。
「ねぇ旭、僕を遠ざけないで。もっと頼ってよ」

 結局、時計の長針が一回りしも旭は下を向き黙り込んだまま口を開くことはなかった。
「パスタ、冷めちゃったから片付けるね」
 旭が頷くのを待ってから、巴は冷えた塊になり果てた食べかけのパスタを台所と運び、ゴミ箱へと捨てた。
 その光景は、ただただ虚しかった。

 子供のころ、村の人たちにどうにかよく思ってもらおうと、祖父母に言われた通り、笑顔を絶やさず、困っている人を助け、謙虚でいようと努力していた時期があった。
 それでも、笑顔でいれば『お気楽でいいね』と嫌味を言われ、困っている人を助ければ『恩を売ったつもりか』と煙たがられ、謙虚でいれば『バカにしている』と陰口をたたかれた。
 何をしても、何の意味も持たないのだと、心が真っ暗な海へと沈んでいった。
 息のできない海の底でうずくまっていた巴を救ってくれたのはやはり旭だった。
 そのままの巴でいいんだよ、といつもと変わらない優しい笑顔で手を差し伸べ、引き上げてくれた。

 救われない虚しさが押し寄せる波打ち際にこぼれ落ちた心は、あっという間に深く深く沈んでいく。
 それを自分で掬い上げるすべもわからない。
 色をなくした世界に一人ぼっちになって改めて、旭にどれほど助けられていたかを思い知る。

 ――かっこ悪いな、僕……。

 皿を洗い、片づけを一通り済ませてからダイニングテーブルに戻るが、そこにいる旭は眉をひそめたままずっと下を向いている。もうすっかり乾いた旭の髪に手を伸ばし、一撫ですると、旭はまたビクッと肩を震わせた。
「僕はお風呂に入ってくるから、もう休んで。僕はこっちで寝るから、ベッド使ってね。」
「あ、巴……」
 何か言いかけた旭に巴は背を向けた。

 風呂から出てリビングに戻ると、もうそこに旭の姿はなかった。明かりの消えた寝室をそっと覗くと、寝息が聞こえてくる。
 昨日から体力も気力もたくさん使ったから疲れたのだろう。静かに寝室に入り、ベッドに腰を掛けるとスプリングが小さくきしんだ音がした。

 幼い頃から何度も見た可憐な寝顔。見るたびに愛しさが溢れた。
 その想いは今もずっと変わらない。
 大切な、大切な幼馴染。自分を救ってくれた神様。
 その想いが執着に変わるほど、好きで好きでたまらない。
 側を離れることなど考えたこともない。
 こんなに想ってるのに、なぜ伝わらないんだろう。
 歯がゆさをぐっと食いしばると、瞳から溢れた想いが旭の頬にこぼれた。
 なだらかな頬を伝い、シーツの上にポタリと落ちたそれは、そのまま吸い込まれて消えてった。
「好きだよ、旭。僕の神様……」
 そのまま頬に残った痕跡を拭い、そっとキスをして寝室を出た。


 翌朝、起きてこない旭の様子を寝室へと見に行くと、布団が丸い塊のようになっていた。
「どうしたの? 起きれる?」
 その中に閉じこもっているだろう旭に声をかけるが、返事はない。その代わりに、短く繰り返し吐き出される息遣いが聞こえてくる。

 ――あぁ、また……。

「旭、出て来て」
「いやだ」
 まだ正気が残っているのだろう。どっぷりと発情状態になるまではこうして少しばかりの抵抗を見せる。
 でも、そんなの意味のないことだって旭だってわかっているはずだ。そうしてもう何度も体を重ねたのだから。
 だから巴は待つ。抗いきれない情欲に旭が飲まれるのを。旭自ら巴を欲するのを。
 吐き出す息遣いがより色濃くなり、旭を内包する丸い塊がじれったくほどけていく。
 その隙間から覗いた旭は、涙を浮かべ、頬と同じように普段よりも色づいた唇から情欲を漏らしながら、苦しそうな、悔しそうな表情で巴を見上げた。
「やっぱり大丈夫じゃなかったね」
 何も言わない旭の髪を撫でると、旭はそれに甘えるようにすり寄った。閉じた瞳からこぼれ落ちた涙は、昨夜の巴の涙と同じように頬を伝い、シーツに吸い込まれて消えていく。
 消えた涙は曇天の空を通って海に落ち、砂の城を削る波の一部へと姿を変える。
「旭、僕にどうしてほしい?」
「……きて」
 伸びてきた腕に引き寄せられるように旭に唇を重ねた。
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