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2章
14話
しおりを挟むゆっくりと目を開いた。
あの青年はもういなかった。翡翠色の綺麗な瞳を思い出す。結局、彼の発した言葉の最後の方は聞取る事が出来なかった。だから名前も知らない。また彼に会えるだろうか。
そんな事を考えていると突然、風が吹いて髪を巻き上げていった。
頬を吹き抜ける風の感触と同時に、鮮明な草と土のにおいと降り注ぐ陽の暖かさを感じた。ついさっきまでいた世界とはまるで違う、生命力で溢れている世界が目の前にあった。
不思議だった。肉体はもうないのに、触れたもの全ての感触が感じられ、音も聞こえる。しっかりと大地を踏みしめて立っている私の体はまるで生きているような感覚だった。
ふと、今立っている場所に覚えがあることに気が付く。
幼い頃、母と手を繋いでよく歩いた道だった。あの頃と目線の高さは違うけど、記憶の中に残っていた風景がそこにあった。なんて懐かしいのだろう。この先を行けば私の生まれ育った生家、父の生家でもあり、母が嫁いで一緒に暮らしていたあの家があるはずだ。
あの青年が言っていた言葉を思い出す。母と父が婚約する前に戻れると。
だからこの先には母と結婚する前の父がいる。そう思うと一気に気持ちがささくれ立つ。
婚約なんて絶対にさせない。必ず阻止してやる。握った拳が震えるほど強くそう誓った。
一方で、この世界には母が生きているのだと思うと居てもたってもいられない衝動にかられた。もう二度と会えないと諦めていたのだから。
会いたい。そう思った瞬間、私は母の生家に向けて歩き出していた。
10歳だったあの日、父がいなくなって祖父から家を出された後、初めて訪れた母の生家はとても立派な屋敷だった。しかし、あの時は状況の変化について行く事が出来ず、当時の記憶が曖昧だった。歩いていれば道も思い出すだろうと安易に考えていたが甘かった。父の家から母の家まで、わりと距離があったのだ。うっすらと覚えていた景色もあったが、結局たどり着く事はなく、延々と彷徨い歩いてしまった。気が付けば辺りは薄暗くなっていた。
さて…これからどうしたものだろうと考えあぐねていると、突然後ろから声をかけられた。
「あんた、こんなところに突っ立てどうしたのさ。道に迷ったのかい?」
声をかけられた事にひどく驚いてしまった。
「えっ…私が見えるの?」
体はもうないのにどうして…!?。驚いて振り返ると私を真っすぐに見ながら初老の女性が立っていた。サバサバとした口調とその容姿はどことなくノラを思い出させた。
「あんた大丈夫かい? 見えているから話しかけてるんだよ!ちょっと心配だね…。家はどこだい?」
驚きすぎて固まっている私を心配そうに見ている。
家…?この世界に私の居場所なんてない。咄嗟の質問に最適な答えが用意できない。しどろもどろになっている私は随分怪しくみえるだろう。
「何か事情がありそうだね…。家、ないのかい?とりあえずもう遅いから私の家に来なさい。夜に一人でいるのは危ないよ。それにあんた男の子だけど綺麗な顔をしているから心配だよ」
男?その言葉に私は、髪を切り落として以来ずっと男装をしていた事を思い出した。
今も男の恰好だし髪だって短い。
「また、ぼーっとして。大丈夫かい!?ほら、もうすぐ暗くなる。行くよ!」
「えっ!?あっ…はい…」
畳みかけるような女性の話し方に圧倒され、グイグイ引っ張られて連れて行かれる。
通り過ぎていく人達はみな、そんな私の姿に視線を向けていく事に気が付いた。
やはり私の姿は他の人にも見えているようだ。この世界に実体があるなんて思ってもいなかった。
女性の家に到着するとリビングに通された。
「そこのソファーで少し休みなさい」
彼女の迫力にまけて言われるがまま大人しくソファーに座っていると、しばらくして彼女がリビングにやってきた。持っているトレーにはカップが一つ乗っていて、私にそれを差し出した。
「ありがとうございます。申し遅れました。私はレイといいます」
「私はモリスよ。レイ。疲れた顔をしているよ。少し休みなさい。夕食ができたらまた呼びに来るからね」
そう言ってにこやかにほほ笑むと、彼女はリビングから出て行った。
差し出されたお茶はどこか懐かしさを感じるような味がした。
暖かいお茶を飲みながらこれからどうするべきかを考える。
それにしても実体があった事には驚いた。だって私は一度死んでいるんだから。実体がある以上、いずれお腹もすくだろうし、汗もかく、そのうち着替えや風呂だって必要だ。期間限定とはいえ、どこかで生活の基盤を築かなければいけない。もちろんお金なんて持っていないしこのままでは目的を達成する前に野垂れ死にしてしまう。そのため仕事を探さなくてはいけない。なにより知り合いのいないこの世界では女性でいるより男性でいた方が安全だし、職もあるだろう。そもそも母を守ると決めたあの日から私は男でいる事を決めたんだ。だからこのまま男装でいよう。
次はどうやって婚約を阻止させるかだ。
結局今日は母に会えなかった。計画性のなかった今日の自分の行動を反省した。婚約成立までどれくらい時間があるのか不明だし、母の話では政略結婚だった。そのあたりの問題も絡んでくる。
手がかりや情報がない今の状態ではどう動いて良いのか分からない。確実に目的を遂行するには策は必要だろう。まずは二人の周辺を調べる必要があった。
問題は山積みだが必ず婚約は阻止させる。そう固く誓った。
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