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きれぎれの叫び
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嵐のような夜が、ふたりをまっさらにした。
互いの弱さが一晩にして露呈して、朝のうちは目も合わせられなかった。けれど、軽食を終えると、ソファーに座っていたラウがリカを隣に呼んだ。
「昨日は、ごめん」
隣り合ってすぐ、ラウはリカの目を見て言った。「ううん。おれも言い過ぎた。ラウ、ごめん……」ラウは緊張の面持ちを緩めた。
「手を、握ってもいい?」
手を差し出すと、ラウは硝子細工にするかのように、この手を取った。
「あんなこと言って、ごめん。君が海を忘れられないこと、それでもおれを選んでくれたこと、感じていたのに……。赤ちゃんのことだって……。おれ、君の気持ちを十分に分かってあげられずに……」
「ううん。おれも……。ラウがいつも、おれのために行動してくれてること、分かってたのに……。あんなふうに言って、ごめん」
ふたりで見つめ合い、微笑む。けれど、赤ちゃんのことには触れられなかった。真実を知ってもなお、この腹にいのちが宿っているような気がしていた。
自分にとっては、いる。けれど、ラウにとっては、いない。
そのことを改めて分からされたら、自分は壊れてしまうかもしれない。
「おれ、リカとずっと一緒にいられるように、頑張るから」
「うん」
「じゃあ、おれは出るよ。今日は遅くなると思うから、先に寝ていて。今日明日と来客が多いから、あまり外に出ないようにね」
「分かった」
ずらりと並んだボタンを、ふたりで精一杯にはめたり、掛け違えたり、そんな気の遠くなる作業が続く。リカはモーニングドレスに並んだボタンを思い起こしながら、ラウの口づけを受け止めた。
「ミゲルは、子どもが欲しいって思ったこと、ある?」
紅茶を注いでいるミゲルに尋ねれば、彼は手を止め、「そうですね……。わたくしには、三人の娘がおりますが……」と応えてくれた。
「実は、欲しいからというわけでなく、偶然だったんです。夫婦になって二度目の冬に、妻が身篭っていることが分かって、ふたりで大慌てして……」
「え? 交尾したらそうなるのは当たり前だろ」
ミゲルは、苦く笑った。
「深くは分からないまま、肌を重ねていたんです。妻も初めての妊娠で、あれこれと不調はあったのに、気付いたのはお腹が大きくなってからでした」
人魚の雄は、体格や性格の違いはあっても、交尾や子育てとなれば皆一様に同じ行動を取る。同じニンゲンの雄でも、ミゲルとラウで印象が違い、リカは戸惑った。
「ラウは、ニンゲンの雄同士では子どもはできないって。でも、ラウは、すると、中に種を注ぐんだ。分かっていて、なんで何度もそうするのかなって……」
「リカ様は、どうしてだと思われますか?」
身体を結ぶと、ラウは安堵した息を吐く。互いの温みを分け合って、確認している。相手のアイというよりも、存在を……。
「寂しいから……?」
ミゲルは相好を崩し、リカの手に自身の手を添えた。
「ラウ様は、アンヌ様の形見を身に着けておられるでしょう。あれを見つけた時、わたくしたちは、ほんとうに驚いて……。と言いますのも、アンヌ様は……、一度だけ、ラウ様の食事に……毒を……盛ったことがあったんです」
受けた衝撃は、声にさえならなかった。
「リカ様、どうか、彼女の名誉のために真実を述べさせてください。彼女は自ら、その罪を告白したのです。ラウ様が手を付ける前に、その一皿は処理されました。殿下はもちろん、お怒りになりました。そこで彼女を庇ったのが、ラウ様だったのです」
「じゃあ……ラウの父さんが彼女の遺品を捨てたっていうのは……」
「アンヌ様は、すぐに乳母を解任されました。けれど、ラウ様の方から足しげく彼女の元へ向かうものですから、殿下は見張り付きを条件として彼女を城に呼び戻したのです。……その一件まで、彼女は確かにラウ様を可愛がっていました。けれど、城へ呼び戻されてからは、気力も愛も尽き果てたようになって、最後は……自分自身で命を絶ちました。殿下はそれをラウ様に覚られまいと、彼女の部屋にあるもの全てを焼くようにと、わたくしたちに命じました」
「ラウは、それを知っているのか?」
「分かりません。この城には大勢の使用人がおりますが、誰も、ラウ様のことを真に理解してはいないのです」
「でも、ラウの兄ちゃんは違うんだろ? ラウはいい兄ちゃんだったって」
「……ふたりが腹違いの兄弟だということは、リカ様も?」
「ラウから聞いたよ。でも、そんなこと関係なく優しくしてくれたって……!」
ミゲルの瞳に陰が差す。その陰に、あの、フードを被った魔物が重なった。
「お優しく、聡明な方でした。けれど、王子という重圧には耐えられなかった」
軍事練習に向かう汽車の中で、ご自分の頭を撃ち抜かれて……。
ミゲルの声が遠のいていく。リカは愕然とした。
「ラウ様は、絶えず不安に包まれていました。寂しいからというのは、そうでしょう。ラウ様はリカ様の中に生や永遠や愛、そんな途方もないものを探して……その欠片に触れたんです。そしてそれを、今、自分で守ろうとしているんです。拙くて、荒っぽくて、わたくしとしても、今のラウ様は、見ていられないような苦い心地になります。でも、わたくしは、これだけ強く生きようとしているラウ様を、」
ミゲルの喉元が大きく震え、瞳から涙が滴った。
「リカ様。これからどんなことが起きようとも、ラウ様を信じて差し上げてください。一国の王子でありながらひとつの愛を守り抜くことが、どんなに……」
ミゲルはまるで祈りを捧げるように跪いたけれど、その心情は掴めない。
生まれたばかりの心が軋んで、そこからヒビが入りそうになって、リカは考えるのを止めた。
ラウが言った通り、城内は日が暮れるにつれ騒がしくなっていった。ミゲルは舞踏会に給仕として駆り出され、リカは部屋にひとり残された。
椅子に腰掛け、雨に濡れた窓辺から大広間を見下ろす。土砂降りの闇の中、一階部分の大広間は燦然と輝き、音楽と共に揺れていた。
ラウ、あそこにいるんだ……。
ぼうと眺めていると、光が滲み、二百ヤードは離れているその一室の様子が、大きな窓越しに鮮明に浮かび上がった。
無数の男女がペアになり、音楽に合わせて踊っている。輪を注視していると、際立った輪郭を持つ彼が目に飛び込んできた。未だにニンゲンと人魚の間をさまよっているこの身体。人魚の自分が見せた現実は、今の自分には受け入れがたく、けれど、そこから目を離すことはできなかった。
「ラウ」
着飾った彼は、美しい雌のニンゲンと手を取り合い、踊っていた。城の窓という豪奢な額縁に似合いのふたりは、輝かしい未来を確信し、微笑み合っている。
「お似合いね」
「互いが互いのために生まれてきたようなおふたりだわ」
耳元で誰かが囁く。リカは耳を抑え、雨音から拾い上げられてしまうその声を拒んだ。彼女たちのおしゃべりは止まなかった。
「ご成婚間近だっていう噂よ、今日は満を持してのお披露目というわけね」
「おふたりこそが平和の象徴よ。今日この場にいられることを誇りに思うわ」
……やめて!
胸の中で叫ぶと、おしゃべりは止み、雨音が戻ってきた。
吹き荒れる風。ざわめく木々。窓を叩く雨粒……。
「伴侶」「許嫁」その二つの点が、重なった。
彼女が、そうなんだ。
この胸のどこかで慎重に慎重に積み上げていたものが、呆気なく崩れ落ちていく。
ラウの手を取っている彼女を、食い入るように見つめる。
海も見えない、山奥ののどかな場所。ラウと彼女は同じ城に住んで、家族になる。その光景がありありと脳裏に浮かんで、唇が自嘲気味に歪んだ。自分とラウの未来は想像できないのに、彼らの未来はどうして想像できてしまうんだろう。
「あいしてるよ」
ラウの声が、震え始めた心の襞に小石を投げ打つ。
リカは床を蹴って立ち上がった。空耳なんかじゃない、おれがラウの言葉を聞き間違えるはずがない、だっておれは……!
リカは杖を取り出し、ブーツの紐を固く締めた。
「帰らなきゃ」
部屋を出て、どこにも帰れないことに気付く。けれど、ここへはないどこかへ去らなければならない。
誰もいない廊下を、時折差し込む月明かりを頼りに進む。壁を伝って階段を下り、礼拝堂に出ると、そこでは女神像が眼差しを伏せていた。
テラスへの扉は、簡単に開いた。雨風がリカを包み込む。
「……っぐ、」
雨とは別の、生ぬるい血に似た何かが、眦からあふれ出た。
「っひ、ひぐ、うう、うぁ、あ、ゔぁあ~っ……!」
あいしてるって、言ったくせに!
アイを感じた時に言うんだよって、おれに教えたくせに!
「あぁああ―――っ!!!」
嵐の中で、声の限り叫ぶ。吹きつける雨を掻き分け前へ進み、転んで、泥だらけになりながら、それでも前へと進む。自分が前だと感じる方へ、自分の願うままに。
「ゔぁあああ―――――!!! くそ! くそ!!」
悔しいのか、悲しいのか、愛しいのか、分からない。きっとそのぜんぶだ。降り注ぐ雨の存在を忘れるほどに、身体が熱くて、同じくらい冷たかった。
海に近づくにつれ、雨はみぞれになった。風はごうごうと唸って、雨は視界を煙らせた。けれどこの身体は分かっている。この先に海がある……。
足が刺すように痛む。警告のように発される痛みを振り切り、街を下り、リカは白く泡立った灰色の波を見た。
「う……、ぁああああああっ!!!」
リカは海に向かって、全身で叫んだ。
この荒れ狂う海に飛び込んで、ひとつになりたい。
そうだおれはこの海で孤独だったけれど、孤独じゃなかった。おれは、大いなる存在の一部だった。
リカは、砂を蹴り上げ、海へと駆け出した。
杖を放り、何度目か分からない転倒の後、ラウの笑顔が脳裏に過った。
「リカ、あいしてる」
そう聞こえた気がして、振り返る。誰もいない。
どうしてこうなってしまったんだろう。
ラウと出会って、あいしあって、それ自体は悪いことではなかったのに、ふたりで共にあろうとするとどんどん坂を転がり落ちて……。
ラウ。あいしてるよ。おれもラウをあいしてる。
心の中のラウに言えば、彼は笑って、「あいしてるよ」と応えてくれた。
確かに安らいで、けれど虚しさはやってきた。悲しかった。もうずっと寂しくて仕方なかったのに、ラウにそう伝えられなかったことが。
互いの弱さが一晩にして露呈して、朝のうちは目も合わせられなかった。けれど、軽食を終えると、ソファーに座っていたラウがリカを隣に呼んだ。
「昨日は、ごめん」
隣り合ってすぐ、ラウはリカの目を見て言った。「ううん。おれも言い過ぎた。ラウ、ごめん……」ラウは緊張の面持ちを緩めた。
「手を、握ってもいい?」
手を差し出すと、ラウは硝子細工にするかのように、この手を取った。
「あんなこと言って、ごめん。君が海を忘れられないこと、それでもおれを選んでくれたこと、感じていたのに……。赤ちゃんのことだって……。おれ、君の気持ちを十分に分かってあげられずに……」
「ううん。おれも……。ラウがいつも、おれのために行動してくれてること、分かってたのに……。あんなふうに言って、ごめん」
ふたりで見つめ合い、微笑む。けれど、赤ちゃんのことには触れられなかった。真実を知ってもなお、この腹にいのちが宿っているような気がしていた。
自分にとっては、いる。けれど、ラウにとっては、いない。
そのことを改めて分からされたら、自分は壊れてしまうかもしれない。
「おれ、リカとずっと一緒にいられるように、頑張るから」
「うん」
「じゃあ、おれは出るよ。今日は遅くなると思うから、先に寝ていて。今日明日と来客が多いから、あまり外に出ないようにね」
「分かった」
ずらりと並んだボタンを、ふたりで精一杯にはめたり、掛け違えたり、そんな気の遠くなる作業が続く。リカはモーニングドレスに並んだボタンを思い起こしながら、ラウの口づけを受け止めた。
「ミゲルは、子どもが欲しいって思ったこと、ある?」
紅茶を注いでいるミゲルに尋ねれば、彼は手を止め、「そうですね……。わたくしには、三人の娘がおりますが……」と応えてくれた。
「実は、欲しいからというわけでなく、偶然だったんです。夫婦になって二度目の冬に、妻が身篭っていることが分かって、ふたりで大慌てして……」
「え? 交尾したらそうなるのは当たり前だろ」
ミゲルは、苦く笑った。
「深くは分からないまま、肌を重ねていたんです。妻も初めての妊娠で、あれこれと不調はあったのに、気付いたのはお腹が大きくなってからでした」
人魚の雄は、体格や性格の違いはあっても、交尾や子育てとなれば皆一様に同じ行動を取る。同じニンゲンの雄でも、ミゲルとラウで印象が違い、リカは戸惑った。
「ラウは、ニンゲンの雄同士では子どもはできないって。でも、ラウは、すると、中に種を注ぐんだ。分かっていて、なんで何度もそうするのかなって……」
「リカ様は、どうしてだと思われますか?」
身体を結ぶと、ラウは安堵した息を吐く。互いの温みを分け合って、確認している。相手のアイというよりも、存在を……。
「寂しいから……?」
ミゲルは相好を崩し、リカの手に自身の手を添えた。
「ラウ様は、アンヌ様の形見を身に着けておられるでしょう。あれを見つけた時、わたくしたちは、ほんとうに驚いて……。と言いますのも、アンヌ様は……、一度だけ、ラウ様の食事に……毒を……盛ったことがあったんです」
受けた衝撃は、声にさえならなかった。
「リカ様、どうか、彼女の名誉のために真実を述べさせてください。彼女は自ら、その罪を告白したのです。ラウ様が手を付ける前に、その一皿は処理されました。殿下はもちろん、お怒りになりました。そこで彼女を庇ったのが、ラウ様だったのです」
「じゃあ……ラウの父さんが彼女の遺品を捨てたっていうのは……」
「アンヌ様は、すぐに乳母を解任されました。けれど、ラウ様の方から足しげく彼女の元へ向かうものですから、殿下は見張り付きを条件として彼女を城に呼び戻したのです。……その一件まで、彼女は確かにラウ様を可愛がっていました。けれど、城へ呼び戻されてからは、気力も愛も尽き果てたようになって、最後は……自分自身で命を絶ちました。殿下はそれをラウ様に覚られまいと、彼女の部屋にあるもの全てを焼くようにと、わたくしたちに命じました」
「ラウは、それを知っているのか?」
「分かりません。この城には大勢の使用人がおりますが、誰も、ラウ様のことを真に理解してはいないのです」
「でも、ラウの兄ちゃんは違うんだろ? ラウはいい兄ちゃんだったって」
「……ふたりが腹違いの兄弟だということは、リカ様も?」
「ラウから聞いたよ。でも、そんなこと関係なく優しくしてくれたって……!」
ミゲルの瞳に陰が差す。その陰に、あの、フードを被った魔物が重なった。
「お優しく、聡明な方でした。けれど、王子という重圧には耐えられなかった」
軍事練習に向かう汽車の中で、ご自分の頭を撃ち抜かれて……。
ミゲルの声が遠のいていく。リカは愕然とした。
「ラウ様は、絶えず不安に包まれていました。寂しいからというのは、そうでしょう。ラウ様はリカ様の中に生や永遠や愛、そんな途方もないものを探して……その欠片に触れたんです。そしてそれを、今、自分で守ろうとしているんです。拙くて、荒っぽくて、わたくしとしても、今のラウ様は、見ていられないような苦い心地になります。でも、わたくしは、これだけ強く生きようとしているラウ様を、」
ミゲルの喉元が大きく震え、瞳から涙が滴った。
「リカ様。これからどんなことが起きようとも、ラウ様を信じて差し上げてください。一国の王子でありながらひとつの愛を守り抜くことが、どんなに……」
ミゲルはまるで祈りを捧げるように跪いたけれど、その心情は掴めない。
生まれたばかりの心が軋んで、そこからヒビが入りそうになって、リカは考えるのを止めた。
ラウが言った通り、城内は日が暮れるにつれ騒がしくなっていった。ミゲルは舞踏会に給仕として駆り出され、リカは部屋にひとり残された。
椅子に腰掛け、雨に濡れた窓辺から大広間を見下ろす。土砂降りの闇の中、一階部分の大広間は燦然と輝き、音楽と共に揺れていた。
ラウ、あそこにいるんだ……。
ぼうと眺めていると、光が滲み、二百ヤードは離れているその一室の様子が、大きな窓越しに鮮明に浮かび上がった。
無数の男女がペアになり、音楽に合わせて踊っている。輪を注視していると、際立った輪郭を持つ彼が目に飛び込んできた。未だにニンゲンと人魚の間をさまよっているこの身体。人魚の自分が見せた現実は、今の自分には受け入れがたく、けれど、そこから目を離すことはできなかった。
「ラウ」
着飾った彼は、美しい雌のニンゲンと手を取り合い、踊っていた。城の窓という豪奢な額縁に似合いのふたりは、輝かしい未来を確信し、微笑み合っている。
「お似合いね」
「互いが互いのために生まれてきたようなおふたりだわ」
耳元で誰かが囁く。リカは耳を抑え、雨音から拾い上げられてしまうその声を拒んだ。彼女たちのおしゃべりは止まなかった。
「ご成婚間近だっていう噂よ、今日は満を持してのお披露目というわけね」
「おふたりこそが平和の象徴よ。今日この場にいられることを誇りに思うわ」
……やめて!
胸の中で叫ぶと、おしゃべりは止み、雨音が戻ってきた。
吹き荒れる風。ざわめく木々。窓を叩く雨粒……。
「伴侶」「許嫁」その二つの点が、重なった。
彼女が、そうなんだ。
この胸のどこかで慎重に慎重に積み上げていたものが、呆気なく崩れ落ちていく。
ラウの手を取っている彼女を、食い入るように見つめる。
海も見えない、山奥ののどかな場所。ラウと彼女は同じ城に住んで、家族になる。その光景がありありと脳裏に浮かんで、唇が自嘲気味に歪んだ。自分とラウの未来は想像できないのに、彼らの未来はどうして想像できてしまうんだろう。
「あいしてるよ」
ラウの声が、震え始めた心の襞に小石を投げ打つ。
リカは床を蹴って立ち上がった。空耳なんかじゃない、おれがラウの言葉を聞き間違えるはずがない、だっておれは……!
リカは杖を取り出し、ブーツの紐を固く締めた。
「帰らなきゃ」
部屋を出て、どこにも帰れないことに気付く。けれど、ここへはないどこかへ去らなければならない。
誰もいない廊下を、時折差し込む月明かりを頼りに進む。壁を伝って階段を下り、礼拝堂に出ると、そこでは女神像が眼差しを伏せていた。
テラスへの扉は、簡単に開いた。雨風がリカを包み込む。
「……っぐ、」
雨とは別の、生ぬるい血に似た何かが、眦からあふれ出た。
「っひ、ひぐ、うう、うぁ、あ、ゔぁあ~っ……!」
あいしてるって、言ったくせに!
アイを感じた時に言うんだよって、おれに教えたくせに!
「あぁああ―――っ!!!」
嵐の中で、声の限り叫ぶ。吹きつける雨を掻き分け前へ進み、転んで、泥だらけになりながら、それでも前へと進む。自分が前だと感じる方へ、自分の願うままに。
「ゔぁあああ―――――!!! くそ! くそ!!」
悔しいのか、悲しいのか、愛しいのか、分からない。きっとそのぜんぶだ。降り注ぐ雨の存在を忘れるほどに、身体が熱くて、同じくらい冷たかった。
海に近づくにつれ、雨はみぞれになった。風はごうごうと唸って、雨は視界を煙らせた。けれどこの身体は分かっている。この先に海がある……。
足が刺すように痛む。警告のように発される痛みを振り切り、街を下り、リカは白く泡立った灰色の波を見た。
「う……、ぁああああああっ!!!」
リカは海に向かって、全身で叫んだ。
この荒れ狂う海に飛び込んで、ひとつになりたい。
そうだおれはこの海で孤独だったけれど、孤独じゃなかった。おれは、大いなる存在の一部だった。
リカは、砂を蹴り上げ、海へと駆け出した。
杖を放り、何度目か分からない転倒の後、ラウの笑顔が脳裏に過った。
「リカ、あいしてる」
そう聞こえた気がして、振り返る。誰もいない。
どうしてこうなってしまったんだろう。
ラウと出会って、あいしあって、それ自体は悪いことではなかったのに、ふたりで共にあろうとするとどんどん坂を転がり落ちて……。
ラウ。あいしてるよ。おれもラウをあいしてる。
心の中のラウに言えば、彼は笑って、「あいしてるよ」と応えてくれた。
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