仮面夫婦のはずが、エリート専務に子どもごと溺愛されています

小田恒子

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史那編

中学三年、ファーストキス 2

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 このハンカチのこと、覚えてるだろうか。
 それは理玖がまだ中等部にいた頃、理玖本人から貰った物だった。
 通学途中、前方からものすごい勢いで自転車が突進してくるのを避けた拍子に、転んで擦り剥いた時、理玖から渡された物だった。
 きちんと洗濯して返すと言ったのに、いらないからと言われ、そのまま私が貰ってお守り代わりに持ち歩いていたのだ。

「ほら」

 ハンカチを差し出す理玖の手から、それを受け取ろうと私も手を伸ばした刹那、理玖の指先が私の手に触れた。
 私の体温が高いせいか、一瞬触れた理玖の指先はひんやりと感じた。

「史那、やっぱ熱あるんだな」

 今更のように理玖が呟く。
 熱のせいで私の身体はいつもより熱く、布団がかかっているところに熱がこもっている。
 布団を剥ぎ取りたいけど、倒れた時に着用していたワンピースの裾が捲れ上がり、太腿を晒してしまうかも知れない。
 それは誰が相手であろうと恥ずかしい。
 でもワンピースの上に羽織っていたカーディガンは、藤岡先生が点滴をする際に邪魔だと脱がせたのだろう。
 気づけばノースリーブのワンピースから伸びる私の腕が剥き出しになっていた。

 ハンカチのことについて、理玖はなにも触れない。
 もしかしたら理玖も理玖のお父さんもハンカチを沢山持っているから、私にくれたハンカチの柄なんて一々覚えていないのかも知れない。
 それならば、私も敢えてそれを口にする必要もないだろう。

 腕を折り曲げると点滴をした肘の内側が痛むので、ゆっくりと動かす。
 それに気づいた理玖は、私の手からペットボトルとハンカチを取り上げた。

 なにをするのかと見ていると、理玖はペットボトルの結露をハンカチで綺麗に拭き取り、蓋の封を切ると再び蓋を閉めた。

「点滴してるから、注射の痕が痛いんだろ? 無理するな」

 ぶっきら棒だけど、優しさが嬉しい。
 結露を拭き取り、ハンカチをコースターのようにペットボトルの底に敷いて私のベッドの横に置いているカラーボックスの上に置いてくれた。

 ここには文庫本や目覚まし時計、今流行りのハーバリウムを置いていた。
 観葉植物は、日中部屋の日当たりが悪いから枯らしてしまうと言う母に従って置いていない。
 造花やドライフラワーを飾ろうかと思ったけれど、埃が溜まりやすいと却下され、行き着いたのがハーバリウムだった。

 こうやって、いつだって綺麗な状態のお花を愛でることができるのは、最高の贅沢だと思う。
 また、容器も可愛らしいのでインテリアに最適だ。ハーバリウムに目を向けていると、母が再びやって来た。

「お薬飲む前に、少しだけでも食べなさい」

 母がトレイに乗せて持って来たのは、瑞々しい梨と、薬と水だった。
 皮と芯を包丁で切り落とし、食べやすいサイズにカットしてある。
 結局お昼ご飯も食べていないけど、余り空腹感がないのは点滴のおかげだろう。正直言って今は梨も食べたいとは思わなかったけれど、食べなきゃ心配されてしまう。

「一個だけでもいい……?」

 私の問いに、表情を険しくさせたのは母だった。

「お昼も結局食べてないから、食べられる分だけは食べて欲しいけど……無理強いもできないからね。あ、理玖くん、良かったら晩ご飯食べて帰ってね?」

 母は理玖に声を掛けると、理玖は素直に頷いた。

「今日の家庭教師は結局流れちゃってバイトにならなくてごめんね」

 どうやら理玖は、きちんとバイトの報酬を貰うように父が話をしていたらしい。
 家庭教師としての仕事はまっとうできなかった上に、貴重な理玖の時間を潰してしまったのだ。
 そう思うと申し訳なくなってくる。

「そんなのいいよ叔母さん気にしないで。体調不良は仕方ないから、それに果穂と遊べたし」

 理玖の表情はいつもに比べて柔らかい。
 口にしているのは本心だと伝わる。ここ数年間見たことのない表情だけに、私の心は複雑だ。
 こんな表情、私の前で見せたことなんてないのに……。

「今日は家庭教師してくれる予定だったから、いいお肉を買ってきてたの。焼肉しようと思って。理玖くん、食べるよね?」

 母の言葉に理玖の表情が変わった。
 高校生男子の胃袋を掴むには、肉と言うワードは必須だ。母もそれはきちんと心得ている。
 きっと遥佳伯母さんからも、理玖の好きな食べ物について情報を得ているのだろう。
 家庭教師のある金曜日はしばらくの間、豪勢な食卓が期待できるに違いない。
 案の定、理玖は素直に頷いている。

「史那も焼肉の匂いに釣られて食欲湧いたら、起きてきなさいね。お肉はたくさん買ってあるから」

 母はそう言うと、部屋を後にした。残されたのは果穂と理玖と私。

「果穂、史那姉ちゃんお熱あるから向こうで遊ぼうか?」

 理玖はそう言うと、果穂を連れて部屋を後にした。
 結局は、私一人がこの部屋に取り残され取り残されて養生することになるのだ。

 私は溜息を吐くと、母が用意してくれた梨を一口、頬張った。

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