あなたの一番になれたらいいのに

小田恒子

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1巻

1-1

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   プロローグ


 まただ……
 今日もあの時の夢を見て目が覚めた。
 和範かずのりと婚約をしてから、幾度となく見るようになった悪夢。
 私は一体いつまでこの夢を見なければいけないのだろう。確かに、あの時のことは誰にも言わず、一人で十字架を背負う覚悟を決めたのは私自身だ。だが、自業自得とは言えいつまで苦しめばいいのだろうか。
 今は真冬。部屋は凍えそうなくらいに冷え切っているというのに、私は汗だくだった。また、いつものようにうなされていたのかもしれない。
 私は布団の中からベッド横のカラーボックスに手を伸ばし、スマホのアラームを止めた。
 時刻は朝の六時を少し回ったところだ。カーテンの向こう側には、まだ夜明け前の微妙な色合いの空が広がっている。
 一月最終日の今日は忙しい。月末は残業が確定しているのだから、のんびり過ごしている暇はない。
 私はゆっくり起き上がると、スマホの横に並べて置いていたリモコンで部屋の電気を点けながら、そっと溜息を吐いた。


 あの夏の夜の出来事を、私はずっと忘れない。たとえあなたが覚えていなくても。
 湿気がじめじめと肌にまとわりつくような熱帯夜。常夜灯の光に照らされた、エアコンのよく効いたあなたの部屋。遠くで打ち上がる花火の閃光と、遅れて届く爆発音。ベッドの下に散らばった、無造作に脱ぎ捨てられたあなたの衣服。
 高校時代にバスケットボールで鍛えた身体が、常夜灯の陰影で一層たくましく見えて、いつも以上にあなたを男性だと意識させられる。
 ベッドの上に組み敷かれて、したたり落ちるあなたの汗を肌に受けながら、耳元でささやかれた『好きだ』の言葉。その言葉をどれだけ私が待ち望んでいたか、和範、あなたは知るはずもないだろう。
 行為の最中に情熱的な愛をささやかれて、嬉しくない人がいる訳ない。
 それが最愛の人なら尚更のこと。
 たとえあなたの見ている相手が、私でなく双子の姉であったとしても。
 私は無我夢中であなたを求めていたし、あなたもそうであったと信じている。身体を繋げたあの時だけは、あの子のことも考えられないくらいにあなたにおぼれていた。
 最後まで、私の名前が呼ばれることはなかったけれど……
 それでもあの時、あなたに抱かれていた私は、あなたの最愛の人だったと思わせて欲しい。
 私はあなたの一番大切な人なんだ、と。
 胸の内に秘めた甘く切ない痛みを隠しながら、私はあなたから与えられる初めての快楽をむさぼった。
 行為のあと、あなたはお酒の酔いが抜けていなかったせいか、あるいは疲れ果ててしまったのか、私に覆い被さったまま気持ち良さそうに寝息を立てる。
 その身体の下から身をよじって抜け出すと、私は改めてあなたの寝顔を見つめた。
 その寝顔は無防備で、まるで出会ったばかりの頃のように幼く見える。
 私の気持ちなんて知るよしもなく、行為が終わったそのままの状態で眠ってしまったあなたの寝顔に、心の中で問いかけた。
 ねえ、やっぱりあなたは、あの子のことを愛しているの?
 当然ながら、返事はない。でも、そんな私に追い打ちを掛けるかのように、あなたは寝返りを打ちながら、無情にも寝言を発する。
 それは、よりによって私が今一番聞きたくない名前。

「……り、……か、り」

 その言葉に、私の心が悲鳴を上げる。
 やめて、今はあの子の名前を呼ばないで! お願いだから私の名前を呼んで!
 そう、咄嗟とっさに口に出しそうになるのを必死でこらえる。
 抱かれたことを後悔なんてしていない。私の身体の至るところに、あなたが愛してくれた印が残っている。優しく触れてくれた手の感触が、愛を伝えてくれた唇の感触が、私の下半身なかにあなたが確かにいた感覚が、甘いうずきが残っている。あなたが与えてくれた熱を、私の身体が覚えている。
 あなたに抱かれるなら、あの子の身代わりでもいいと思っていた。
 そう望んだのは私自身だし、絶対に後悔しないと思ったから。
 けれど……
 欲張りな私は、やっぱりあの子ではなく私を見て欲しいと望んでしまう。
 あの子の名前ではなく、私の名前を呼んで欲しいと望んでしまう。
 私だけを愛して欲しいと願ってしまう。


 あれから何年も経た今でも、私はあの日のことを夢に見る。
 夢の中でどれだけ身体を重ねても、未だに彼と心が重なることはない。
 私はあの日、姉の恋人である和範を騙して、姉を裏切らせた。
 そして今もまた、私は彼を縛っている。この、身体に負った傷のせいで……
 あの夢を見て目覚めたこんな日は、後悔という名の深い闇から抜け出せなくなる。そこには希望という名の光は見つからない。
 それなのに、願わずにはいられない。身勝手だとわかっていても……
 ねえ、お願いだから私だけを愛して欲しい。
 私の心が壊れてしまう前に――



   第一章 婚約者


 図書館内に、閉館を知らせるメロディが流れる。
 私は返却された書籍に目を通して、修繕が必要なものかどうかを選別していた。大量に積まれた書籍を一冊ずつ、その全てを確認するのは、眼への負担が半端じゃない。仕事中だけ掛けている眼鏡を外すと、ポケットの中から目薬を取り出し、両目にさした。
 交通事故の後遺症で左足の歩行に障害がある私は、書籍を所定の位置へ戻して回るような、歩いて行う作業ができない。そのため、座ってできる仕事を担当している。

「月末だから今日はいつも通り残業になるけれど、大丈夫?」

 目薬をさし終えて眼鏡を掛け直していると、背後から先輩司書であるさかもとさんに声をかけられた。
 坂本さんは四十代後半で、二児の母だ。
 お子さんは中学生と高校生。そんな大きな年頃のお子さんがいるようには見えないくらい若々しいので、この図書館に赴任した当初、年齢を聞いた時にはとても驚いた。
 確か下のお子さんは、そろそろ高校受験を控えている。
 自身の家庭も大変な時期なのだから、毎月のこととはいえ残業などせず早く帰りたいに違いない。
 現在、時刻は十八時を回ったところだ。
 普段ならあと三十分もしないうちにみんな退勤するけれど、今日だけはそうもいかない。
 貸出書籍の未返却者をリストアップしたり、新刊入れ替えをしたりと、月末にだけ行う業務が多数あるのだ。
 みんな日中からできる範囲で業務を前倒しするけれど、図書館利用者が多いうちは作業を進めるのが難しく、結局残業することになる。

「もちろん大丈夫です」

 私は笑顔で返事をする。
 坂本さんは、手に持っていたペットボトルの紅茶を私に差し入れてくれた。

「婚約者さんに、連絡しなくてもいいの?」

 私が作業している机の上には、修繕の必要な本が山のように積み上げられている。
 その脇の台車にも、返却を受け付けただけで手付かずの書籍がまだたくさん残ったままだ。
 修繕不要の綺麗な状態のものもあれば、故意に破られてしまったものや、経年劣化でページが剥がれ落ちそうになっているものもある。修繕をするか否かだけでなく、修繕方法が異なるものも選別しなければならなくて、その膨大な量に坂本さんも毎回目を丸くしている。
 坂本さんから渡されたペットボトルを遠慮なく受け取ると、お礼を言って返事をする。

「お気遣いありがとうございます。月末が残業になるのは彼もわかってますから。いつものことなので、帰る時に連絡すれば問題ないです。坂本さんこそ、おうちのほうは大丈夫ですか?」

 私が問うと、坂本さんも空いた席に腰を下ろし、自身が手にしているペットボトルのお茶を飲みながら答える。

「うちも今日は、夫が早く帰ってくるから大丈夫。ご飯も朝のうちに準備してきたから、あとは温めるだけだしね」

 子供たちももう自分のことは自分でできる年齢だから、と言うと、ちょうど目の前を通りかかったパートのいのうえさんに指示を出す。
 そして坂本さんは、早く終わらせようね、と笑顔を見せて、自分の業務に戻っていった。
 婚約者、か。
 その言葉に、心が沈む。
 分別を終えた私は、ページが破れた書籍の修繕作業に取り掛かりながら、そっと溜息を吐いた。
 私はみやひか、二十七歳。
 この公立図書館で司書をしている。
 司書とは、図書館において資料の選定から貸出、読書案内に至るまでの全般的な業務を行う専門職だ。
 具体的な資格は司書と司書補の二つがあり、どちらも図書館法により国家資格に定められている。資格取得のためには司書講習の受講、または大学で必要な科目を履修することが必須である。
 私は司書になるのが子供の頃からの夢だったため、大学時代に資格を取得して地方公務員試験に合格し、現在に至っている。
 司書の役目は、大きく分けて二つある。
 一つは資料の管理や蔵書を熟知し、利用者の目的に応じた資料の提案などをする、「利用者と資料を繋ぐ」役割。
 そしてもう一つは読書活動をうながし、「人と本の距離を縮める」役割である。
 つまり図書館資料のスペシャリストとして、「人」と「本」を繋ぐという目的のもと、仕事をしているのだ。
 私も実際に図書館勤務の司書となり、「人」と「本」を繋ぐお手伝いができるこの仕事に誇りを持っている。
 私にとって司書の仕事は全く苦ではない。
 元々小さい頃から本が好きで、公務員試験に合格して運良く通い慣れていたこの図書館に勤務することができた。もし図書館に勤務できなくても出版社や書店など、とにかくなんらかの形で書籍に関わる仕事をしたいと思っていただけに、本当に恵まれている。
 この図書館に在籍している司書の資格保持者は、公務員としての正規雇用されている坂本さんと私、あと数名で、残りの半数以上の職員は司書の資格を持たない二年契約のパートさんだ。
 長引く不況の中、市は雇用救済措置で定期的に図書館職員の雇用募集をかけており、二年間の契約を更新しないという条件で、パートさんが採用される。
 なのでようやく図書館の仕事に慣れた頃に契約が切れて、新たに採用される人にまた一から教えて……というループがここ何年も繰り返されていた。
 確か来月末で、一人契約が満了し、再来月にはまた新しい人が採用される。
 そんな頻繁に人材を入れ替えず、慣れた人をずっと置いて欲しいという現場の意見は、市の決定事項の前ではなんの意味もない。
 坂本さんからの差し入れを飲んで一息吐こうと、私は眼鏡を外した。ペットボトルの封を切り紅茶を口にすると、疲れた身体に甘いそれがみ渡る。眼精疲労がひどくて頭痛もするものの、そんなことを言っている暇はない。休憩を終えると再び眼鏡を掛けて、改めて台車の上に置かれた書籍に目を通し、作業を再開した。
 黙々と集中して作業し、終わったものは手付かずのものとまざらないように別の場所へ置いていく。修繕が終わると書籍を分類ごとに整理して、パートさんに本棚への返却をお願いする。
 他の人たちも、リストアップした未返却者に電話連絡をしたり、新刊や雑誌の入れ替えを終えたりと、なんとか終わりが見えてきたようだ。

「明日もあるし、そろそろ帰ろうか」

 坂本さんの声に、残っていた職員たちは一斉に片付けを始める。
 戸締りの確認や、ブラインドの下ろし忘れがないか、といった館内の点検はみんなにお任せし、私は翌朝のために閲覧用の新聞を取り外しておく。
 みんながそれぞれに役割を済ませてタイムカードを打刻すると、荷物を取りにロッカー室へ向かった。
 図書館に制服はないけれど、代わりにエプロンが支給されている。業務が終わった今、みんなはエプロンを外して各自ロッカーの中にしまい込む。
 図書館という場所柄、ラフ過ぎてもカジュアル過ぎてもいけないので、我々は毎日の洋服選びが大変だ。
 私自身は元々地味な性格ということもあり、目立つことは苦手だ。だから私のワードローブも必然的に色合いの地味な無地の服ばかりになる。
 たまには明るい色のかわいい洋服を着てみたいと手を伸ばしてみても、結局は試着にも至らず、あきらめてしまう自分がいる。
 そんな洋服はきっと私には似合わない。私は灯里あかりとは違うのだから……
 灯里は私の双子の姉だ。二卵性双生児の私たちは、顔立ちこそ普通の姉妹よりずっと似ているものの、中身は正反対だった。
 地味な私と、明るく社交的な灯里。
 私にないものをなんでも持っている彼女は私の誇りで――同時に、ひどく劣等感を刺激する。灯里と比較されるのがいやで、ことさら明るい色、かわいらしいものを自ら遠ざけてしまうのだ。
 いい加減、そんな自分がいやになる。
 ロッカー室にある姿見で、今日も相変わらず地味な服装であることを再確認して、そっと溜息を吐いた。
 そんな私を気に留めずみんなは荷物を取り出して、雑談をしながら通用口へ向かう。私もそれにならって後をついていった。
 周りのみんなは、いつも私の歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれる。それを申し訳ないと思いながらも、そんなみんなの優しさについつい甘えてしまっている。
 歩行は杖を突きながらになるので、デスクワーク以外の業務をするのが難しく、仕事ではどうしてもみんなに迷惑をかけてしまう。
 それでも、こうやって社会復帰できただけでも本当にありがたいことだ。
 公務員ならではの手厚い待遇には本当に助けられているし、なによりこういった身体になってしまった私に、事故前と変わらず居場所を与えてくれる仲間たちがいる。彼らには、本当に感謝以外の言葉が浮かばない。
 勤務先がこの図書館で良かったとつくづく思う。


「光里ちゃん、お迎え来てるよ」

 坂本さんの声に、顔を上げて通用口の先にある駐車場を見ると、彼の車が停車していた。
 私の婚約者であるたきざわ和範である。
 身長は百七十八センチ、パッと見は線が細く見えるけれど、高校時代にバスケットボールをやっていたためほどよく筋肉質な身体だ。
 ルックスも、テレビでよく見かけるイケメン俳優さんと並んでも引けを取らないくらいに整った顔立ちをしている。

「ほら、待たせちゃダメだよ。早く行って」

 そばにいる坂本さん以外のメンバーも、和範に気付いたようだ。
 通用口を出ると、みんなはまた明日、と挨拶をして足早に立ち去っていく。私も挨拶を返して、車のそばまで杖を突きながら、ゆっくり歩を進めていく。
 いつも和範は、他の職員の邪魔にならないように図書館裏にある職員駐車場の隅に車を停車させる。なのに今日に限っては通用口に近い場所に停車して、私のことを待っていた。
 もしかして、少しでも私の足に負担がかからないように気遣ってくれているのだろうか……? そんな期待が胸をよぎる。
 こんな寒い日は特に、左足の傷口がひどくうずいて、痛み止めの薬を飲まなければ辛い時もあるくらいだ。けれど、そのことを和範に話したことはない。
 きっと偶然だ。そう思い直して、一つ溜息を吐く。
 毎日朝も夕方もこのように送迎をしてくれているおかげで、図書館の職員たちは和範の顔をしっかりと覚えている。おまけにルックスもいいので、婚約したと職場に報告した日には、みんなから羨望の声が上がるくらい、和範のファンは多かった。
 今では毎日の送迎もみんなが温かく見守ってくれている。
 私には本当にもったいないくらい、献身的な婚約者だ。
 そんな和範の献身を受けるたびに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 三ヶ月前に婚約をした和範は、私と灯里の高校時代の同級生であり……私の想い人だった。
 けれど、その頃の和範が付き合っていたのは私ではなく、灯里だ。
 大学進学を機に和範と、そして灯里ともしばらく離れていた私は、その後の二人のことは知らない。そして数年前、私たちは交通事故をきっかけに再会したのだ。
 自分に非はないはずなのに、和範は頻繁に入院中の私を見舞ってくれた。それだけでなく、私の身体に障害が残るとわかると、私にプロポーズをした。責任を取って、一生面倒を見ると……
 けれどそれは愛情などではなく、きっと罪の意識からに違いない。
 私が、彼の人生を壊してしまった。
 だから、私には彼を愛する資格も、ましてや愛される資格もない。
 和範の隣にいるべきは、私ではないのだ。
 彼が見ているのは、あの子――灯里なのだから。
 コツン、コツン、と夜の静寂に、私の杖の音が響いている。
 和範は車の中でスマホを操作しており、私に気付いていないようだ。
 もしかして、スマホでやり取りをしている相手は、灯里だろうか……?
 せっかく和範に会えて嬉しいと思う気持ちが、和範の行動一つで沈んでしまう。
 和範の乗るセダンの窓を軽くノックすると、音に気付いた和範がこちらを向き、スマホを座席に放置して、わざわざ運転席から降りてこちらへ向かってきた。

「遅くまでお疲れさま、光里ちゃん」

 いかにも『待ち侘びてました』と言わんばかりの極上な笑みを浮かべて助手席のドアを開けると、私から杖とバッグを受け取り、それらを後部座席へ置いて私を助手席に座らせる。
 はたから見れば、愛されているように映るだろう。
 だが、確かに大事にはされていても、そこにあるのは恋人のような甘さではない。ただ、自分が障害を負わせた相手に対する気遣いだけだ。
 和範は私が助手席に座ったのを確認してから車のドアを閉め、運転席へ戻る。
 運転席に放置されていたスマホをポケットにしまい込む姿を見つめていると「会社の人からだよ」と優しく返された。
 お互いシートベルトを締めたのを確認し、和範は胸のポケットに仕舞っていた眼鏡を掛け直して静かに車を発進する。
 日常生活では問題ない程度の視力だというけれど、運転時には眼鏡を掛けている。正統派なイケメンは黒縁眼鏡がこれまたよく似合う。これ以上女性ファンが増えたらどうしよう、と内心では心配するものの、それを顔に出すことができないでいる。

「ご飯、まだだよね?」

 考え事をしてうわの空の私は、和範に話しかけられてビクッとしてしまう。

「あ……、ごめん。なにかな?」
「晩ご飯、まだ食べてないかなと思って」

 時刻は二十一時二十分、もちろん残業中に食事をとる時間なんてない。
 口にしたのは、夕方坂本さんから差し入れてもらった紅茶だけだ。

「うん、まだ」

 私の返事に、和範が食事の提案をする。

「時間も時間だけど、よかったら軽く食べて帰らない?」

 和範はハンドルを握ってまっすぐ前を向いている。過去の事故のこともあり、運転には細心の注意を払っているのがわかる。
 もしかして和範は夕飯も食べずに私を待っていてくれたのだろうか。もしそうだとしたら申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 ……いや、和範だって仕事が忙しいから終わった時間も遅かったのかもしれない。私のために食事をせずに待ってくれていた、だなんてうぬれてはいけない、余計なことは口にしないほうがいいだろう。

「うん。……でも今日は疲れてるから、このまま家に送ってもらっていいかな?」

 本当は、一緒にご飯を食べに行きたい。こうやってもう少しそばにいたい。
 でも口から出る言葉はそんな心とは裏腹だ。
 どうしても、灯里のことを考えると和範に対して一歩引いてしまう。
 私が和範といて幸せそうにしていたら、灯里の笑顔をくもらせてしまうのではないか。そう思うと怖くなる。
 それでも、和範への想いも止められない。和範と灯里への気持ちの板挟みで、どうすればいいのかがわからない。だからいつも、逃げる道を選んでしまう。
 そんな私の気持ちなんて知らない和範は、いつもあっさりと騙される。

「そっかぁ。疲れてるのに無理はさせられないな。じゃあ、今度早番の時、晩ご飯食べに行こうね」
「うん、そうだね」

 いつだって私に対して優しい和範。それに対して心の中で謝る私。
 いつも優しく次の約束をしてくれるのに、私はそれを守ることができないでいる。
 和範も忙しい時間をいて送迎の時間を作ってくれているから、当然業務にしわ寄せが出てしまっているのだろう。
 だから送迎以外では仕事を優先できるように、私から約束を取り付けることはない。
 いつも、和範のほうからこうやって色々と提案してくれるけれど、私はそれに従うように見せかけて、最終的には流れるように仕向けてしまうのだ。
 自分でもひどいことをしている自覚はある。
 そんなことで、灯里と和範に対するざんになるとは思えない。それでも、自分だけが和範と二人で楽しむことなど、許される気がしなかった。
 おそらく私の態度を見て、和範も薄々は気付いているのだろう。私が姉に遠慮していることを。
 私の二卵性双生児の姉であり、和範の最愛の人、灯里。
 本当なら、和範の婚約者としてこの席に座って幸せに微笑むのは、彼女のはずだ。
 私の和範への想いは、大学生だったあの日、断ち切ったはずだった。
 それなのに、私たちの関係は、あの事故で大きく狂ってしまった。


 あれは三年前――正確に言えば二年と三ヶ月前の十一月七日、水曜日。
 あの日私は仕事を休んで、久しぶりに日中の公園へ散歩に出かけていた。
 公休日は基本的に週二日のため、月曜日の休館日ともう一日休日を選べる。私は木曜日を公休日にあてていた。
 だからこの日の休みは、公休とは別に事前に申請して取得したものだ。
 俗に言う有給休暇である。規定で取得しなければならない公休と違い有給休暇はなかなか取得しづらくて、体調を崩した時くらいにしか消化していなかったけれど、今回は特別だった。
 この日は三歳年上の父方の従姉いとこであるなっちゃん――みやの結婚式が近く、挙式披露宴で着る洋服を買うため、灯里とランチも兼ねて一緒にショッピングモールへ行く約束をしていたのだ。
 朝から天気も良く、私は爽やかな秋の風を感じながら、公園にあるあずまのベンチに座って読書を楽しんでいた。
 それは職場である図書館で借りた本ではなく、先日書店で購入したもので、大きな文学賞を受賞した作家の新作だ。
 館内では新刊をすぐ入荷しないため、どうしても早く読みたいと思った本は、入荷前に自分で購入する。
 メディアでの前評判や書店の手書きPOPに惹かれて読むのを楽しみにしていたその作品は、やはり私の期待を裏切らなかった。
 読み手である私を、本の中の独特な世界にグイグイと引き込んでいく。
 読書をしていると、集中してしまって時間があっという間に過ぎていく。
 だからスマホのアラームをつけて、約束までの時間を忘れないようにしていた。
 このあと灯里のランチタイム出勤後にお店にお邪魔してご飯を食べてから、ディナータイムまでの空いた時間、一緒に買い物をする予定だ。
 灯里との買い物は、いつも食器やら調理器具、書籍といった、お互いの趣味や仕事に関わるものばかりだったので、洋服を買いに行くというのは非常に珍しいことだった。
 隣県の大学に進学して四年間実家を離れていたし、長期の休みは将来奨学金の返済資金に充てるためにバイト三昧だった私は車の免許を持っていなかった。だから就職でこちらに帰ってから、出掛ける際にはなんだかんだと灯里に付き合ってもらっている。

『今日のまかないは、オムライスを作るね。だから必ずお店に迎えに来てね』

 出かける時に、灯里から言われた言葉だ。
 オムライスに釣られる私も私だけれど、料理人である灯里の料理は本当に美味しい。
 ふわふわの卵はもちろん、中のチキンライスも他の人には同じ味を再現することはできない絶品だ。


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