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第1章
噂の人と、小さな出会い 1
この会社に転職して、ようやく一週間が経つ。
まだ自分の机と、コピー機と、給湯室の位置ぐらいしか覚えられていない私、松下理緒は、今日も新人らしく慌ただしく仕事をこなしていた。
前職は販売職で、こうしてオフィスに腰を据えてパソコンを相手にする毎日は初めてのことだ。
覚えることは山ほどあって、正直頭の中はパンク寸前である。しかし、短大を卒業して就職した会社での販売業は思っていた以上に肉体労働かつ、オーバーワークで身体を壊してしまい、五年で退職した。
そのため、半年の療養を終え再就職した今の会社は、それまでとは違う職種でデスクワークがメインだ。今のところ、身体にそこまで負担がかからず、私に合っていそうだ。
ただし、私が配属されたのは経理部で、常に数字とパソコンをにらめっこする仕事だ。そのため、眼精疲労を緩和するために目薬とホットアイマスクは欠かせない。
今日も休憩時間に、私はドラッグストアの店員が一押ししていた目薬を目に挿していた。
——そんなふうに少しずつ慣れてきた頃、給湯室でお茶を淹れていた私は、偶然そばにいた先輩二人の会話が耳に入った。
「ねえ、総務の藤堂さんって、やっぱりシングルファーザーなのかな」
「らしいよ。ほら、この間、子どもを連れて歩いてるの見たって人がいたじゃない」
総務の藤堂さん……確か、藤堂係長は背の高い、落ち着いた雰囲気の男性だ。
総務部と経理部は同じフロアにあり、毎朝合同で朝礼を行っているので、その時にフロアの人たちの顔を覚えた。
藤堂さんは、いつも黙々と仕事をしていて、あまり話す機会がない。
「ふーん……結婚指輪はしてないけど、ああいう人って人気あるよね」
「うん。仕事もできるし、物腰やわらかいし……でも、あんまり笑わないよね」
お湯の出る音とともに、先輩たちのひそひそ話は続いていく。
私はお茶を淹れ終えて、軽く会釈をして給湯室を出た。別に人の噂に口を挟む気はないけれど、「シングルファーザーらしい」という言葉だけは、頭のどこかに残った。
その日の退勤後。
まだ外は明るく、初夏の空気が少し蒸し暑い。私は仕事帰り、スーパーに寄って晩ごはんの食材を買う予定だった。
駅へ向かう人混みの中、ふと視線の先に見覚えのある背中が見えた。
お昼に先輩たちが噂をしていた藤堂さんだ。
黒いスラックスに白いシャツ姿、片手に紙袋。もう片方の手には、先輩たちが口にしていたように、小さな男の子がいて、その手をしっかりと握っている。
男の子は五歳くらいだろうか。半ズボンにリュック姿で、何やら一生懸命話しながら歩いている。藤堂さんは小さく頷きながら、静かに耳を傾けていた。
まだ自分の机と、コピー機と、給湯室の位置ぐらいしか覚えられていない私、松下理緒は、今日も新人らしく慌ただしく仕事をこなしていた。
前職は販売職で、こうしてオフィスに腰を据えてパソコンを相手にする毎日は初めてのことだ。
覚えることは山ほどあって、正直頭の中はパンク寸前である。しかし、短大を卒業して就職した会社での販売業は思っていた以上に肉体労働かつ、オーバーワークで身体を壊してしまい、五年で退職した。
そのため、半年の療養を終え再就職した今の会社は、それまでとは違う職種でデスクワークがメインだ。今のところ、身体にそこまで負担がかからず、私に合っていそうだ。
ただし、私が配属されたのは経理部で、常に数字とパソコンをにらめっこする仕事だ。そのため、眼精疲労を緩和するために目薬とホットアイマスクは欠かせない。
今日も休憩時間に、私はドラッグストアの店員が一押ししていた目薬を目に挿していた。
——そんなふうに少しずつ慣れてきた頃、給湯室でお茶を淹れていた私は、偶然そばにいた先輩二人の会話が耳に入った。
「ねえ、総務の藤堂さんって、やっぱりシングルファーザーなのかな」
「らしいよ。ほら、この間、子どもを連れて歩いてるの見たって人がいたじゃない」
総務の藤堂さん……確か、藤堂係長は背の高い、落ち着いた雰囲気の男性だ。
総務部と経理部は同じフロアにあり、毎朝合同で朝礼を行っているので、その時にフロアの人たちの顔を覚えた。
藤堂さんは、いつも黙々と仕事をしていて、あまり話す機会がない。
「ふーん……結婚指輪はしてないけど、ああいう人って人気あるよね」
「うん。仕事もできるし、物腰やわらかいし……でも、あんまり笑わないよね」
お湯の出る音とともに、先輩たちのひそひそ話は続いていく。
私はお茶を淹れ終えて、軽く会釈をして給湯室を出た。別に人の噂に口を挟む気はないけれど、「シングルファーザーらしい」という言葉だけは、頭のどこかに残った。
その日の退勤後。
まだ外は明るく、初夏の空気が少し蒸し暑い。私は仕事帰り、スーパーに寄って晩ごはんの食材を買う予定だった。
駅へ向かう人混みの中、ふと視線の先に見覚えのある背中が見えた。
お昼に先輩たちが噂をしていた藤堂さんだ。
黒いスラックスに白いシャツ姿、片手に紙袋。もう片方の手には、先輩たちが口にしていたように、小さな男の子がいて、その手をしっかりと握っている。
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