2 / 12
第1章
噂の人と、小さな出会い 2
私はすれ違うだけのつもりで歩みを進めたが、そのとき男の子の手から絵本がするりと落ちた。
ぱたん、とアスファルトに音を立てて落ちる。
「あっ……」
気づいた私は咄嗟にかがみ、絵本を拾い上げた。表紙には可愛らしい動物の絵。
「落としましたよ」と声をかけると、男の子がくりくりした目で私を見上げた。
「ありがと、おねえちゃん!」
ぱっと笑ったその顔は、あまりにも無垢で、思わず私も笑顔になる。
「どういたしまして」
藤堂さんが「すみません」と低い声で礼を言った。近くで見ると、長いまつげと端正な顔立ちが際立つ。
でもその表情には、少しだけ戸惑いが混じっていた。
「いえ……藤堂さん、今ご帰宅ですか?」
藤堂さんは私が名前を呼んだことで、ようやく私が同じ会社の人間だと気付いたようだ。
「ええ。保育所の迎えです」
案の定、藤堂さんは短い返事で会話が途切れた。声を掛けたことが迷惑だったのかと不安になるけれど、その声は思っていた以上に柔らかかった。
それ以上は踏み込むのも失礼かと思い、「お気をつけて」とだけ言って別れた。
歩き出すと、なんとなく胸の奥が温かくなった。
小さな子どもがあんなふうに笑う顔、久しぶりに見た気がする。
翌朝、部署の前を通る藤堂さんと目が合い、軽く会釈をすると、向こうも小さく会釈を返してきた。
たったそれだけのことなのに、なぜか私の心は弾む。
お昼の休憩が終わり、同じ経理部の先輩に頼まれて総務に書類を届けに行くと、藤堂さんがカウンター越しに応対してくれた。
私の顔を見て、ほんの一瞬だけ口元がゆるむ。
「昨日は……ありがとうございました」
「あ……いえ。たいしたことしてませんから」
思い出してくれたことを嬉しいと思う私がいた。
書類を受け取った藤堂さんは、業務的なやりとりを終えると、また黙々とパソコンに向かった。
その背中を見ながら、ふと、昨日の男の子の笑顔が蘇る。
この会社での新しい日々に、少しだけ彩りが差した気がした——
午後の会議が長引き、私が自席に戻ったときには、もう定時を過ぎていた。
周りの先輩たちは残業を続けているけれど、今日は新人は早く上がっていいと言われている。
パソコンをシャットダウンし、軽く挨拶をして会社を出た。
エレベーターを降り、正面玄関を抜けると、外の空気が一気に広がる。
そこに、また見覚えのある背中があった。
藤堂さんだ。
手には昨日と同じように、紙袋と、男の子の手。
どうやら保育所はこの会社の近くにあるようだ。
藤堂さんが私に気づくと、少しだけ眉を上げる。
ぱたん、とアスファルトに音を立てて落ちる。
「あっ……」
気づいた私は咄嗟にかがみ、絵本を拾い上げた。表紙には可愛らしい動物の絵。
「落としましたよ」と声をかけると、男の子がくりくりした目で私を見上げた。
「ありがと、おねえちゃん!」
ぱっと笑ったその顔は、あまりにも無垢で、思わず私も笑顔になる。
「どういたしまして」
藤堂さんが「すみません」と低い声で礼を言った。近くで見ると、長いまつげと端正な顔立ちが際立つ。
でもその表情には、少しだけ戸惑いが混じっていた。
「いえ……藤堂さん、今ご帰宅ですか?」
藤堂さんは私が名前を呼んだことで、ようやく私が同じ会社の人間だと気付いたようだ。
「ええ。保育所の迎えです」
案の定、藤堂さんは短い返事で会話が途切れた。声を掛けたことが迷惑だったのかと不安になるけれど、その声は思っていた以上に柔らかかった。
それ以上は踏み込むのも失礼かと思い、「お気をつけて」とだけ言って別れた。
歩き出すと、なんとなく胸の奥が温かくなった。
小さな子どもがあんなふうに笑う顔、久しぶりに見た気がする。
翌朝、部署の前を通る藤堂さんと目が合い、軽く会釈をすると、向こうも小さく会釈を返してきた。
たったそれだけのことなのに、なぜか私の心は弾む。
お昼の休憩が終わり、同じ経理部の先輩に頼まれて総務に書類を届けに行くと、藤堂さんがカウンター越しに応対してくれた。
私の顔を見て、ほんの一瞬だけ口元がゆるむ。
「昨日は……ありがとうございました」
「あ……いえ。たいしたことしてませんから」
思い出してくれたことを嬉しいと思う私がいた。
書類を受け取った藤堂さんは、業務的なやりとりを終えると、また黙々とパソコンに向かった。
その背中を見ながら、ふと、昨日の男の子の笑顔が蘇る。
この会社での新しい日々に、少しだけ彩りが差した気がした——
午後の会議が長引き、私が自席に戻ったときには、もう定時を過ぎていた。
周りの先輩たちは残業を続けているけれど、今日は新人は早く上がっていいと言われている。
パソコンをシャットダウンし、軽く挨拶をして会社を出た。
エレベーターを降り、正面玄関を抜けると、外の空気が一気に広がる。
そこに、また見覚えのある背中があった。
藤堂さんだ。
手には昨日と同じように、紙袋と、男の子の手。
どうやら保育所はこの会社の近くにあるようだ。
藤堂さんが私に気づくと、少しだけ眉を上げる。
あなたにおすすめの小説
後宮入りしたら、冷酷な幼なじみ皇太子に囲われて逃げられません
由香
恋愛
幼い頃、ただ一人だけ優しかった少年。
けれど彼は――皇太子になっていた。
家の都合で後宮に入れられた私は、二度と会うはずのなかった幼なじみと再会する。
冷酷無慈悲と噂される彼は、なぜか私にだけ異常に甘くて――
「他の男に触れるな。……昔から、お前は俺のものだろ」
囲われるように守られ、逃げ場を失う距離感。
けれど後宮は甘さだけじゃ生き残れない。
陰謀、嫉妬、命を狙う妃たち――
それでも彼は、私の手を離さない。
これは、後宮で“唯一の執着”に愛された少女の物語。
疑惑のタッセル
翠月 瑠々奈
恋愛
今、未婚の貴族の令嬢・令息の中で、王国の騎士たちにタッセルを渡すことが流行っていた。
目当ての相手に渡すタッセル。「房飾り」とも呼ばれ、糸や紐を束ねて作られた装飾品。様々な色やデザインで形作られている。
それは、騎士団炎の隊の隊長であるフリージアの剣にもついていた。
でもそれは──?
秘められた薫り
La Mistral
恋愛
エブリスタにて、トレンド#恋愛で最高位
55位を獲得した作品です。
「愛しているよ」という夫の言葉が、今の美咲には虚しい空気にしか聞こえない。
欠けていたのは、理性を焼き尽くすような衝動。
クライアントの慎吾と交わす視線。ビジネスという仮面の下で共有される、剥き出しの欲望。
指先が触れる。名前を呼ばれる。ただそれだけで、美咲の積み上げてきた「良き妻」としての世界は音を立てて崩れ去る。
完璧なアリバイ、塗り固めた嘘。
夫の隣で微笑みながら、心は別の男の指先を求めている。
一度知ってしまった濃厚な「薫り」は、もう彼女を元の場所へは戻してくれない。
守るべき家庭と、抗えない本能。
二つの世界の境界線で、美咲が選ぶ「最後の一線」とは――。
欲望の熱に浮かされた女の、美しくも残酷な堕落の記録。
遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜
小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。
でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。
就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。
そこには玲央がいる。
それなのに、私は玲央に選ばれない……
そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。
瀬川真冬 25歳
一ノ瀬玲央 25歳
ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。
表紙は簡単表紙メーカーにて作成。
アルファポリス公開日 2024/10/21
作品の無断転載はご遠慮ください。
各務課長が「君の時間を十分ください」と言った結果
汐埼ゆたか
恋愛
実花子はカフェで恋人と待ち合わせしているが、彼はなかなか来ない。
あと十分でカフェを出ようとしたところで偶然上司の各務と会う。
各務から出し抜けに「君の時間を十分ください」と言われ、反射的に「はい」と返事をしたら、なぜか恋人役をすることになり――。
*☼*――――――――――*☼*
佐伯 実花子(さえき みかこ) 27歳
文具メーカー『株式会社MAO』企画部勤務
仕事人間で料理は苦手
×
各務 尊(かがみ たける) 30歳
実花子の上司で新人研修時代の指導担当
海外勤務から本社の最年少課長になったエリート
*☼*――――――――――*☼*
『十分』が実花子の運命を思わぬ方向へ変えていく。
――――――――――
※他サイトからの転載
※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※無断転載禁止。
【完結】美人な姉と間違って求婚されまして ~望まれない花嫁が愛されて幸せになるまで~
Rohdea
恋愛
───私は美しい姉と間違って求婚されて花嫁となりました。
美しく華やかな姉の影となり、誰からも愛されずに生きて来た伯爵令嬢のルチア。
そんなルチアの元に、社交界でも話題の次期公爵、ユリウスから求婚の手紙が届く。
それは、これまで用意された縁談が全て流れてしまっていた“ルチア”に届いた初めての求婚の手紙だった!
更に相手は超大物!
この機会を逃してなるものかと父親は結婚を即快諾し、あれよあれよとルチアは彼の元に嫁ぐ事に。
しかし……
「……君は誰だ?」
嫁ぎ先で初めて顔を合わせたユリウスに開口一番にそう言われてしまったルチア。
旦那様となったユリウスが結婚相手に望んでいたのは、
実はルチアではなく美しくも華やかな姉……リデルだった───