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3.気の強い人 side 藤里 律
しおりを挟む――泣いていた?
あれはいつだったか。去年だっただろうか。
あの時の北本先生を見て、真っ先にそう思った。
事務室と同じ階にある職員休憩室から出てきた北本先生と廊下ですれ違い、その時は普通に挨拶を交わしたのだが、その直後にふとそう思い言葉がつい口に出たのだ。
切れ長の目はすこしだけ水分を多く含み、その周りは赤く染まっている。すれ違う一瞬ではそこまでしか掴めなかったが、それらの要因が『泣いていた?』と俺が思った理由のすべて。
俺の知る北本先生は、気の強い人だ。だけど、誰に対しても優しい。
泣いている北本先生なんて、想像もできない。
『見間違いか……』
もしかしたら、顔でも洗った後なのかもしれない。
俺はそう、自己完結をしていた。
しかし、そうではないことをすぐに思い知らされる。
夜、20時。
懐中電灯とマスターキーを持って事務室を出発する。そこから特別棟、教室棟、管理棟の順番にひとつずつ教室を見て回る。施錠されていない箇所は、マスターキーを使う。棟を繋ぐ渡り廊下の扉も、ひとつずつ施錠していくのだ。
この仕事を任されて数年。若い用務員の恒例業務となっている校内巡視は、俺の下に人が入ってくるまでは、俺の仕事である。懐中電灯で照らさなくても鍵の位置が分かるくらいには、感覚が体に染みついている。
そんないつも通りの日常に異変を感じたのは、去年の春、新年度がスタートしてすぐの日だった。
始業式を終え、明日は入学式だということで、慌ただしく仕事をしていた教師たち。俺も用務員として、校内の除草作業などを行い、新入生を迎える準備を終えたくらいの時間だった。
そしてまた、夜20時。
巡視の時間がやってきて事務室を出た俺だったが、さすがにこの日は管理棟が騒がしかった。教師たちはまだ仕事をしている。ということは、俺の帰りも遅くなる。
その事実を目の当たりにし、なんとなく漏れ出る溜息を止められなかった俺は、渡り廊下を渡って教室棟に入った。
さすがにここには誰もいない。明かりひとつない、いつも通りの静かな教室棟だった。
俺はひとつずつ教室を覗いて回る。鍵が開いていたら締める。それを繰り返していると、ふいにすすり泣く声が聞こえてきたのだ。
『……』
俺は自身の足音を消し、そっと泣き声が聞こえる方に向かう。
静かに、バレないように、ゆっくりと歩みを進める。そしてたどり着いた先の扉に張り付き、廊下から教室の中を覗いた。
そこでは、北本先生が座り込み、ひとり泣いていたのだった。
――見てはいけないものを、見てしまった。
率直にそう思った俺は、物音を立てずにその場から去った。
ここで声を掛けるのも違う。
北本先生の事情に、土足で踏み込むのも違う。
ならば、ここは様子見をしよう。
たまたまこの日は、教室棟にいただけかもしれない――。
しかし、その思いは簡単に裏切られる。
そう決めたあの日から毎日、北本先生は教室にいたのだ。
いつも泣いていた。
声を抑えようとしていたけれど、どうしても嗚咽が漏れ出ていた。
気の強い北本先生が泣いている。
たったそれだけ。だが、俺が北本先生のことを気にかけ始めるのには、充分な理由だった。
気になった。
声を掛けたかった。
だけど、完全にタイミングを逸していた俺は、声を掛けるタイミングを見失っていた。
そこから、およそ1年。
泣いている北本先生は、俺に気付かない。
俺も、泣いている北本先生に声をかけない。
だから――。
『誰だ』
わざとらしく声を上げ、懐中電灯を向ける。
そして驚いた表情の彼を照らし、わざとらしくその名を呼ぶ。
『え、北本先生?』
あの時、俺の目の前で教室を飛び出そうとした北本先生を見つけたとき、本気でチャンスだと思った。
初めて訪れたこの機会、これを逃すと、もう二度と声を掛けるタイミングはないと思った。
北本先生は、おそらく初めて俺の存在に気付いたのだろう。
今までは泣くことに気を取られて、俺の気配にすら気付いていなかったに違いない。
『ふ……藤里さんでしたか。お疲れ様です』
俺の視界に入った北本先生の顔は、すこしやつれているように見えた。
目の下には隈。この日は泣いていなかったのか、目元が赤くはなっていないが、瞳はなんとなく潤んでいるように見えた。
北本先生は徐々に目に力を込め、〝いつもの表情〟を作る。
だがその表情ですら無理をしていることくらい、俺には分かっていた。
『こんなところで何をしているのですか? 驚かせないでくださいよ』
『藤里さんは、校内巡視ですか?』
『えぇ。施錠の確認をして回っていたのです。北本先生、早く帰ってくださいよ。先生方が帰らないと、俺は帰れないのですから』
『……すみません』
悲しそうにすこしだけ目を伏せるのも、見たことのない表情で新鮮だった。
何度も言うが、俺が知っている北本先生は、気の強い人だ。
だから、その人の表情が崩れる様子が新鮮で、特別で――。
『いい加減、強がりは止めたらどうですか?』
ひどく興奮をしてしまった俺は、もっと北本先生の違う表情を見たいと思ってしまった。
『北本先生は、いつもここで泣いていました。それをバレないように隠している気がして、俺から声を掛けることはしませんでしたが』
今でも、口に含んだ涙の味を覚えている。
北本先生の涙からは、微かな甘さを感じた。
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