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五個目の車輪と蛇の足
ひっそり静かな生活(主観的には)***その後の研究員と
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「―――これで、禁呪の森を囲む規模の結界を展開できると思うの。……どうかしら」
終業時間の三十分前に召集されたミーティングで、新たな結界装置の説明が王妃殿下によって行われた。
艶やかな黒髪が、はらりと肩から流れ落ちる。
手入れの行き届いた指先を絡めながら集まった研究員たちを上目遣い気味に見渡す姿は、とても十七歳の息子がいるとは思えない。
私のような末端の研究員にとって、雲の上の存在であるその方は、近くでこうしてみれば噂通り確かにあの少女によく似た面差しだった。
現場から遠ざかって久しいにも関わらず列席している所長は、そのためだけに来たかのように王妃殿下の案を褒めちぎっている。……彼がとっくに今どきの研究についていけなくなっているというのは周知の事実だというのに、王妃殿下が元教え子だという実績はいつまでも輝かしいものだと思い続けたいらしい。
日の入りが遅くなってきているこの季節、もう窓の外は薄闇が降りてきている。
「……では、明日から必要素材の算定と手配を開始します」
「え」
「お疲れさまでした」
かたん、かたん、と若手研究者たちが飾り気のない椅子から次々立ち上がる。高位貴族たちの作法など知ったことではない。研究所内にそういった作法は無用だと決めた本人がまさにこの場にいるのだから。
「お、おい君!これが喫緊のプロジェクトだと」
「私は今月の残業上限時間に達していますし、必要素材数の予算算定担当や手配担当などの各部署もすでに終業時刻を過ぎています。……災害時の特例法はまだ適用になっていません。ですよね?所長」
「そ、そうよね、私が急にこんな時間にきちゃったんだもの。先生、そんな元々今日明日でどうこうなるものでもないのだから、ね」
怒りのせいかみるみるうちに顔を赤くする所長を、おろおろしながら窘める王妃殿下の眉が頼りなく下がっている。
―――よく似た面差しのあの少女ならば、凛として明日の段取りを指示しただろう。そしてその段取りが滞りなく進むようたった一人で根回しに走っただろう。
より合理的に、より機能的にと組織や制度が組み立てられたとしても、所詮動かしていくのは人間だ。歯車のように勝手にかみ合って動いていってはくれない。イレギュラーに発生した業務であればなおのこと。
「……明日の午後には試作に着手できるな?」
「さて、どうでしょうか。在庫の確認もありますし、各部署に話が通るのは早くて夕方になるかと」
「はあ?何故そんなにかかる?!試作の分だけでも」
「勿論、その分のために通常かかる時間です」
「君はそういう雑務は得意だっただろう!」
「……雑務ですか。所長、私は所長の直属助手からもうすでに研究員に昇進しています。私にも自分の担当する研究が別にあるのですが」
「優先順位ってものを考えろ!」
だんっと拳を机に叩きつけた所長と、しらーっと椅子の背もたれに立ったまま寄りかかる私を、王妃殿下はやっぱり交互に見上げ続けるだけで。
「その頃と同じ雑務はできません。研究員になったとはいえそれでも私は下っ端ですのでね、根回しもなくイレギュラーな対応は無理です。各部署の上層に掛け合ってお願いしてくれる方がいなくては」
所長はあくまでも研究者であって、教育者ではない。
献身的といえるほどに熱心な講義ではあった。予定された時間を超えたとしても、それだけの価値がある教え子だと思ってあの少女に接していたのは知っている。
ただそれは十にもならない子どもにとって、常識的に消化できるはずもない内容と量だった。助手としてそばについていた私ですら、時に理解が追い付かないようなものだったのだから。
同じ年頃であった時の王妃殿下が、一度で飲み込み自分の持ち物にし得たというのが異常なのだ。
予定を超過した講義のせいで昼食もとれないまま、研修という名の公務へと向かう少女に私ができることなど、隙間時間に口を慰める程度の菓子を添えることくらいだった。
―――それが今でもしくしくと私の胃の裏を苛む。
「城中のあらゆる部署で実務を行う者たちの中から、よりその業務に適した人材を選出し、彼らが働きやすいようにスケジュールを調整して、必要とされる資材や資料を先読みして手配をし、各部署同士の衝突を緩和して、上層部に根回しを行う。イレギュラーな作業を実際に行ったものたちにささやかながらも手当や評価がいくようフォローして、そんな神業を一人で行っていた方がもういらっしゃらないので」
ああ、確かにその新しい結界装置は素晴らしいものだろう。
過去に研究半ばで停止していた土台があったとはいえ、天賦の才を持つものでなくてはこの短期間に成し得るものではない。例えそれに必要とする魔力が、現実的ではないほど大量だという欠点がさほど解消されていないにしてもだ。
突出したセンスも技能もない平凡な研究者である私にもそれは理解できるから、敬意を払おうとは思う。
けれどこのお守りほどではないと、革ひもで首から下げたそれを服の上から握りしめた。
「高位貴族である王太子妃候補として行う補佐だから、けれども王族でもなければ雇用されているわけでもなく、ただの研修であり教育の一環だからと命令権限も持たされないために、お願いして回るしかなかった公爵令嬢と同じ仕事は、凡人たる私にはできませんね」
喉の痛みを伴ってあふれ出てきそうなものを、早口でまくしたてた言葉にのせていなしていく。
今更こうしてこんなことを言ったところで、この痛みが消えるどころか増すばかりなのはわかっているのだけど。
「そ、そう!そうなのよ!あの子はとても優秀なの!わかってくれてる人がちゃんといたんじゃない!あの子ったら!」
「……は?」
それまで萎れていた花が息を吹き返したように、ぱあっと晴れやかに笑う王妃殿下に、つい目を瞬かせてしまった。
ばかなのかこのおんな。
終業時間の三十分前に召集されたミーティングで、新たな結界装置の説明が王妃殿下によって行われた。
艶やかな黒髪が、はらりと肩から流れ落ちる。
手入れの行き届いた指先を絡めながら集まった研究員たちを上目遣い気味に見渡す姿は、とても十七歳の息子がいるとは思えない。
私のような末端の研究員にとって、雲の上の存在であるその方は、近くでこうしてみれば噂通り確かにあの少女によく似た面差しだった。
現場から遠ざかって久しいにも関わらず列席している所長は、そのためだけに来たかのように王妃殿下の案を褒めちぎっている。……彼がとっくに今どきの研究についていけなくなっているというのは周知の事実だというのに、王妃殿下が元教え子だという実績はいつまでも輝かしいものだと思い続けたいらしい。
日の入りが遅くなってきているこの季節、もう窓の外は薄闇が降りてきている。
「……では、明日から必要素材の算定と手配を開始します」
「え」
「お疲れさまでした」
かたん、かたん、と若手研究者たちが飾り気のない椅子から次々立ち上がる。高位貴族たちの作法など知ったことではない。研究所内にそういった作法は無用だと決めた本人がまさにこの場にいるのだから。
「お、おい君!これが喫緊のプロジェクトだと」
「私は今月の残業上限時間に達していますし、必要素材数の予算算定担当や手配担当などの各部署もすでに終業時刻を過ぎています。……災害時の特例法はまだ適用になっていません。ですよね?所長」
「そ、そうよね、私が急にこんな時間にきちゃったんだもの。先生、そんな元々今日明日でどうこうなるものでもないのだから、ね」
怒りのせいかみるみるうちに顔を赤くする所長を、おろおろしながら窘める王妃殿下の眉が頼りなく下がっている。
―――よく似た面差しのあの少女ならば、凛として明日の段取りを指示しただろう。そしてその段取りが滞りなく進むようたった一人で根回しに走っただろう。
より合理的に、より機能的にと組織や制度が組み立てられたとしても、所詮動かしていくのは人間だ。歯車のように勝手にかみ合って動いていってはくれない。イレギュラーに発生した業務であればなおのこと。
「……明日の午後には試作に着手できるな?」
「さて、どうでしょうか。在庫の確認もありますし、各部署に話が通るのは早くて夕方になるかと」
「はあ?何故そんなにかかる?!試作の分だけでも」
「勿論、その分のために通常かかる時間です」
「君はそういう雑務は得意だっただろう!」
「……雑務ですか。所長、私は所長の直属助手からもうすでに研究員に昇進しています。私にも自分の担当する研究が別にあるのですが」
「優先順位ってものを考えろ!」
だんっと拳を机に叩きつけた所長と、しらーっと椅子の背もたれに立ったまま寄りかかる私を、王妃殿下はやっぱり交互に見上げ続けるだけで。
「その頃と同じ雑務はできません。研究員になったとはいえそれでも私は下っ端ですのでね、根回しもなくイレギュラーな対応は無理です。各部署の上層に掛け合ってお願いしてくれる方がいなくては」
所長はあくまでも研究者であって、教育者ではない。
献身的といえるほどに熱心な講義ではあった。予定された時間を超えたとしても、それだけの価値がある教え子だと思ってあの少女に接していたのは知っている。
ただそれは十にもならない子どもにとって、常識的に消化できるはずもない内容と量だった。助手としてそばについていた私ですら、時に理解が追い付かないようなものだったのだから。
同じ年頃であった時の王妃殿下が、一度で飲み込み自分の持ち物にし得たというのが異常なのだ。
予定を超過した講義のせいで昼食もとれないまま、研修という名の公務へと向かう少女に私ができることなど、隙間時間に口を慰める程度の菓子を添えることくらいだった。
―――それが今でもしくしくと私の胃の裏を苛む。
「城中のあらゆる部署で実務を行う者たちの中から、よりその業務に適した人材を選出し、彼らが働きやすいようにスケジュールを調整して、必要とされる資材や資料を先読みして手配をし、各部署同士の衝突を緩和して、上層部に根回しを行う。イレギュラーな作業を実際に行ったものたちにささやかながらも手当や評価がいくようフォローして、そんな神業を一人で行っていた方がもういらっしゃらないので」
ああ、確かにその新しい結界装置は素晴らしいものだろう。
過去に研究半ばで停止していた土台があったとはいえ、天賦の才を持つものでなくてはこの短期間に成し得るものではない。例えそれに必要とする魔力が、現実的ではないほど大量だという欠点がさほど解消されていないにしてもだ。
突出したセンスも技能もない平凡な研究者である私にもそれは理解できるから、敬意を払おうとは思う。
けれどこのお守りほどではないと、革ひもで首から下げたそれを服の上から握りしめた。
「高位貴族である王太子妃候補として行う補佐だから、けれども王族でもなければ雇用されているわけでもなく、ただの研修であり教育の一環だからと命令権限も持たされないために、お願いして回るしかなかった公爵令嬢と同じ仕事は、凡人たる私にはできませんね」
喉の痛みを伴ってあふれ出てきそうなものを、早口でまくしたてた言葉にのせていなしていく。
今更こうしてこんなことを言ったところで、この痛みが消えるどころか増すばかりなのはわかっているのだけど。
「そ、そう!そうなのよ!あの子はとても優秀なの!わかってくれてる人がちゃんといたんじゃない!あの子ったら!」
「……は?」
それまで萎れていた花が息を吹き返したように、ぱあっと晴れやかに笑う王妃殿下に、つい目を瞬かせてしまった。
ばかなのかこのおんな。
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