所以

津田ぴぴ子

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三話

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茹だるような夏の日だった。痛いほど強い日差しが、アスファルトに濃い影を作り出している。鳥たちの鳴き声を遠くに聞きながら、田舎特有の、古びた木造小屋を改造したようなバス停で誰かを待っている。どこかの飲料メーカーのロゴが描かれた青いベンチに腰を下ろすが、親に強請ってやっと買って貰ったワンピースが錆だらけのベンチで汚れるかもしれないと思い至って、すぐに立ち上がった。いつも右横の髪を留めている猫のピン留めを家に置いてきたので、僅かに風が吹く度に髪が揺れて落ち着かない。
「早いね」
よく知った声がして顔を上げた。頬に冷たい缶のオレンジジュースを当てられて、思わず奇声を上げてしまう。それを見てけらけらと笑う、自分より幾分年上の、背が高い細身の少年を見上げた。十代の後半くらいだろうか。逆光で顔は見えない。
「───ちゃん」
少年がやわらかい、掠れた声音で自分を呼んだ。頭を優しく撫でられて、汗かいてるから触らないでと言うと、別にいいのにと笑われた。差し出された手を握って歩き出す。蝉が鳴いている。



けたたましく響くアラームの音が、未汐の意識を眠りの底から引き上げた。少し汗をかいている。徐々に頭が覚醒し、現実感を取り戻していくのをじっと待った。病院から帰ったままの服、靴下も穿きっぱなしで、部屋の隅に鞄が転がっている。数時間前に目を閉じて、それから随分と深く寝入っていたらしい。小さい頃の夢を見ていた、と思う。
ずきずきと痛む頭を押さえて、スマートフォンを見る。午前九時、いつもなら家を出ている時間だ。すぐにアルバイト先のコンビニに電話を掛けると、数コール目で社員が出た。
「あの、十時です、お疲れ様です」
「お疲れ、どうしたの?声掠れてるけど、大丈夫?」
「あ、いや、あの実は、祖父が今朝亡くなりまして、急で本当に申し訳ないんですけど、今日だけお休みをいただければと思うんです」
「あー全然いいよ!寧ろ今日だけで大丈夫?」
「大丈夫です、明日は出れますんで、失礼します、すいません」
虚空に向かって頭を下げて、通話を切る。数年続けたアルバイトでも、欠勤の連絡は苦手だった。溜息を吐きながら廊下を歩き、洗面所の扉を開ける。この後寝るにしても、シャワーを浴びて歯を磨かなければ、どうにも気持ちが悪かった。べたついた髪の毛を掻き上げて、近所の薬局で安売りされていたクリアブルーの歯ブラシに歯磨き粉を塗りたくる。
唾液混じりの泡を吐き出し、正面の鏡を見た。口の端から垂れた白い歯磨き粉が、昨夜の乳児を連想させて吐き気がする。すぐに鏡から目を逸らして、早々に口を濯いだ。眠気のせいか足元が覚束ず、ふらふらしながら洗濯カゴを取り出す。脱いだ服をそこに投げ入れて、風呂場の冷たい床を踏みしめた。ドアがぎいぎいと軋み、ゆっくりと閉まる。そう新しくないアパートだからか、ボイラーのスイッチを入れてすぐお湯が出るわけではない。シャワーから出る冷水が徐々に温かくなっていくのを感じて、髪を濡らしていく。スーパーのセールで安くなっていた適当なシャンプーで髪を洗いながら、ぼんやりとアルバイトを急に休んでしまった罪悪感に包まれている。
伸ばしているわけでもない、顎あたりまでのボブは洗うのが楽だった。実家から送られてきた薄いピンクのタオルで雑に髪を拭いて、ひとつ息を吐いた。

すぐ隣の磨りガラスのドアの向こうに、誰かが立っている気配がした。一瞬びくりと肩を震わせて、そちらを見る。誰もいない。過敏になりすぎているのだと自分に言い聞かせて、ドアを開けた。誰もいない。当たり前だが、それに酷く安堵した。

着替えて居間に戻ると、スマートフォンが光っていた。確認すると父からのメールで、会わせたい人がいる。迎えに行くから、今日の夕方五時頃は空いているか、と言った内容だった。首を傾げつつも大丈夫だと返事をした。とは言え、会わせたい人とやらが誰だろうと、今の未汐にはあまり関係が無かった。強烈な倦怠感と眠気に誘われて、ベッドに吸い込まれるようにして転がる。

ふわふわとした意識の中で目を閉じると、先程寝ている時に見た夢を鮮明に思い出した。妙な安心感が全身を覆って、力が抜けていく。あの夢で出てきた少年は、未汐のことを何と呼んだだろうか?そして夢の中の幼い未汐は少年の名前を呼んだはずだが、碌に思い出せなかった。とは言え所詮夢であるから、最近見た漫画や映画小説の類と小さい頃の記憶がごちゃ混ぜになっているのだろう。

「──ちゃん」
朦朧としていると、すぐ近くで誰かに呼ばれたような気がした。夢の中の声と似ている。返事をしようと思ったが、あまりの眠気にそれすら儘ならない。
「史緒ちゃん」
次に呼ばれた時には、未汐の耳ははっきりとそれを捉えた。けれど、脳がその名前を認識する前に意識を深い眠りの底へと落としてしまう。自分のことを呼ばれているのは分かっている。まるで心底大事にしている恋人を呼ぶかのような、優しく穏やかな声音だった。
「──しゅ、う」
しゅうじくん、と。未汐は自分の口が緩やかにそう動くのを感じたが、知らない名前だ。ただ、とても懐かしい響きだった。無意識に一筋だけ流れた涙が頬を伝っていく。温かい手のひらで頭を撫でられているのが分かって、数分と経たずに未汐は深い寝息を立てていた。



自宅近くの踏切がかんかんと鳴る音で目が覚めた。部屋の壁に掛けられた時計は十五時四十分を指している。随分と寝ていたらしい。進み続ける秒針を暫く眺めて、父からのメールを思い出した。そろそろ準備を始めなければならない。ゆっくりと起き上がると、腹のあたりに毛布が掛けられていることに気付く。寝入る時に被ったのだろうか、全く覚えていない。頭には優しい手の感触が残っている。部屋の中には誰もいない。
テーブルの上の手紙は変わらずそこにあった。未汐はまだ少し湿ったそれを手に取って、カーテンレールにぶら下がった青色のピンチハンガーの端に留める。これと言った理由はないが、捨ててはいけない気がした。

髪を梳かし最低限の化粧をして、服をクローゼットから適当に毟りとる。準備を終えたところで鳴った電話を取ると、父の声がした。
「もうすぐ着くけど、大丈夫かな」
「へーき」
「よく寝れた?」
「ぼちぼちくらい、外に出てたほうがいい?」
「そうして貰えると助かるよ」
短い会話を終えて、財布とスマートフォンだけを入れた小さい鞄と鍵を持つ。玄関で一度振り返ると、窓際で例の手紙が揺れていた。

父の車はすぐに到着して、数時間前にそうしたように助手席に乗り込む。走り出してすぐに会わせたい人って誰?と聞くと、父は暫く唸った後「遠い親戚みたいなもの、かな」と言った。意味がよく分からなかったが、疲れたように笑う父にそれ以上は言えず、ふうん、とだけ頷いた。

二十分ほど走っただろうか。父が車を停めたのはチェーンのファミリーレストランで、どうやらここが待ち合わせ場所らしい。父のあとに続いて入ると、すぐに若い女の店員が声を掛けてくる。待ち合わせで、と父が告げると、にっこりと笑って引き下がった。
店内はそこそこ混みあっていて、そこかしこで人の声が反響している。家族連れが多いのは、今日が土曜日だからだろうか。コンビニの仕事は休日があまり関係ないので、どうしても曜日感覚が曖昧になってしまう。

店内を見回していた父が不意に手を振った。その先のボックス席には二人の若い男女が対面で座っていて、どちらも未汐と同年代に見えた。男のほうは明るい茶色に染めた髪に所々金色のメッシュが光っている。服装は上下黒のスウェット。顔は整っているが、お世辞にも誠実そうとは言えない外見をしていた。
一方女は濃い茶髪を後ろにひとつで纏めている。落ち着いたメイクときっちり着込まれた女物のスーツに、ピンクの可愛らしいシュシュが映えていた。
父は戸惑う未汐を女の横に座らせると、自分はさっさと退散してしまった。終わったら迎えに来るから、連絡してねと言い残して。
「今日は急に呼び出してごめんなさい」
謝罪の言葉と共に未汐に笑い掛けた女は、自らを樋川舞希と名乗った。対面の男を指して、こいつは土山陽祐、と続ける。陽祐は大層不満げに舞希を睨みつけたが、それ以上のことにはならなかった。その場の流れで、未汐も軽く自己紹介をした。
舞希は手元のコーヒーを一口飲んで、続ける。
「本当はもう一人いるんだけど、遅れて来るみたいなの、だから」
まず私たちだけでお話を進めていましょう、と微笑んだ。見蕩れてしまいそうなほど綺麗な笑みだった。そこに陽祐が間髪入れずに口を挟む。
「随分丁寧じゃん、俺にもそのくらい優しく接してくれよ」
「あなたと馬鹿話をするためにここに来たんじゃないの、ふ、──未汐ちゃんと話をしに来たのよ。あなたもそうでしょ」
何か呼び違えでもしたのだろうか、舞希が途中で言葉に詰まったように聞こえた。
未汐の前に先程の女性店員が水の入ったグラスを置いて、何かご注文はございますか?と首を傾げる。
「未汐ちゃん、お腹空いてない?何か食べる?」
気を遣ったのか、舞希がメニューを渡してくる。そう言えば昨日帰宅してから何も食べていない。未汐は舞希の言葉に甘えることにして、丁度目に付いたミートドリアを頼んだ。
「それで、あの、話って何ですか……?」
「タメなんだし敬語じゃなくてもいいんじゃねえの、俺らもそうするしさ」
そう言って笑った陽祐に同意するように舞希も頷いている。何で同い年だと分かるのか、と疑問に思ったが、大方父が教えたのだろう。
父は彼らのことを遠い親戚みたいなもの、と言っていたが、それがどういうことなのかは対面した今も分からなかった。

陽祐がひとつ咳払いをして、未汐を真っ直ぐ見詰める。

「鹿代脩司、って知ってるか?」
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