歯車カタルシス

名無しの山内

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歯車カタルシス

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   規則的過ぎるほどの時計の針の音が、部屋中に散らばった書類やら、金属の球体やら劣化しかけたプラスチック製の模型やらの上に埃と一緒に積もっていく。暖かい日光に揺り動かされたような気がして、白衣の男はそっと目を開けた。
「……ん…。……もう朝か…」
   乱雑な物理準備室をひと眺めして、ため息を漏らす。まさに無法地帯という言葉の似合うこの惨状は、もうとっくに同僚達には呆れられて放置されていた。
「おはようございます、Mr.フォード。掃除の必要がある、と判断してもよろしいですか?」
「いいや。僕はこれでいい。ありがとう」
   わかりました。と、律儀にフォード氏が起きるまで待っていたのであろう清掃員がキャタピラーを回し、静かな走行音を立ててドアの前から離れていく音がする。落ちかけたメガネを押し戻して、フォード氏は朝日の差し込む窓を見やった。オレンジ色の光は、ここがもともと一軒家の立ち並ぶ閑静な住宅街だった頃……。いや、もっと昔、広葉樹の広がる森だった頃と同じように、このビル群の側面をきらきらと照らす。無論、フォード氏にはオレンジの光が昔照らしていた光景を想像する事すら出来ないだろう。彼が生まれた時にはすでに、この大都市は大都市として存在していたのだから。完成する事もなく、何を目指しているのかももうわからないここは、今も発展し続けていた。そしてきっとこれからも、何も変わることはない。徹夜明けの体に、自然光は優しく染み込んでいく気がして、フォード氏は少しだけ微笑んだように見えた。どこもかしこも断熱ガラスで覆われ、本物の太陽の熱が伝わってくる古いガラスがはめ込まれた窓はこの物理準備室の大窓ぐらいしか無いだろう。少なくとも、この都市の中では。
「……フォード先生…」
   ノックの音が狭い部屋に響く。どうぞ、と声をかけ、フォード氏は先ほどまで眠っていた椅子の近くにある脚立を開いた。
「朝早く、すみません。質問をしてもいいでしょうか?」
「もちろんどうぞ、ワトソンさん」
   
   大人しく、礼儀正しく、品行方正な模範生。それのみで埋め尽くされた教室。学校。社会。法、道徳、ルールに支配された世界。決して自由では無い。けれど自由の意味も知らないのに、誰がそんなこの世界に疑問を突きつけるというのか。チョークの音、ペンの走る音。フォード氏は幾万回目のため息を殺した。
「……機械が人類の知能を越えた時、我々人間は生きる意味を失ったも同然になった」
   この世界に疑問を持っているのは自分ただ一人。けれど、その自分は皮肉なことに機械の為に自らを粉にして働く人材を育成する教師だ。疑問を抱いてもすぐに揉み消されるのだから、疑問を抱く意味も、疑問を形にする意味も無いだろう。ただ、ルールにのっとって、ルールに従う生徒を育成する他に、自分に何ができるというのか。
「それまで人類は機械の頭脳が人類を越すことについて、危機感を覚えていた。しかし、それも無駄だった。機械の頭脳は人類を越した時、何も変わることが無かった。むしろ、彼らは人類と一体になることを望んだのだ」
   教科書第47章、人工知能から人工頭脳への転換。この世界にいるほとんどすべての人間は、生まれた時に人工頭脳を埋め込まれる。今までの人類とは比較にならないほどの思考能力を手にした人間達は、さらに人類の発展のために世界を構成していく。工学では、その人工頭脳の歴史から、埋め込む施術方法まで幅広く取り扱う……。
   何度も何度も見てきた文面、すでに暗記している内容。生徒達の表情ですら、皆一様。気味の悪いほど、何から何までこの頭脳の中にある通りだ。フォード氏は表情を崩さず、勝手に口から出ていく授業内容を聞き流して心の中でため息を吐く。つまらない、とも思わないのか。理解できないとも理解しないのか。まるでこの世界を構築する、オスミウム合金のビルのように硬く、冷たく、味のない言葉だっていうのに。それを正しいと思っているのか。ああ、一度でいいから、正しい世界を見たい。この頭脳では無い、本物の自分の頭脳で確かに『記憶して』いる正しい、あるべき世界を。何も機械達が変わらなかったのなんて、当たり前じゃないか。すでに人間は感情を捨てていたのだから。

   物理準備室は、ずっと前から……フォード氏がこの学校に赴任してくるよりもずっと前からこんな散らかりかたをしていたらしい。授業で使った道具を雑多な机の上にどさり、と置く。教員室もあるが、フォード氏はこの物理準備室を気に入っていた。世界にある道具のほぼ全ては、二〇四五年五月十七日を境に次々と入れ替わっていったが、この物理準備室だけは時が止まっているかのように何もかも『昔』のまま。ビーカーひとつ取っても、地面に叩きつけたら簡単に割れてしまうただのガラス製だ。『昔』の事は全くと言っていいほど歴史の授業でも取り扱わないのに、フォード氏はなぜかこの部屋に懐かしさを感じている。きっと前任も同じことを思って、この部屋は大切に、そのままにしておいたのだと思わざるをえないほど。
   窓の外は輝き、きらめく銀色のビル群が続いている。無駄なものなど欠片も見えない。それが美しいというのなら、この部屋は汚れきっているということだ。余分な物が多く、整理されていなくて、空気も埃っぽい。けれど非の打ち所がないものが本当に美しい、正しいと言えるのか。非の打ち所も、悪いところも、汚いところも全て含めたものこそが本物では無いのか。記憶力も、思考能力も段違いになっている人工頭脳の入った頭を軽く振って、フォード氏はインスタントコーヒーに手を伸ばした。コーヒーの揺れる液面に、今までに教えてきた膨大な量の生徒達の顔が浮かぶ。フォード氏の人工頭脳は、その生徒達に与えてきたものと奪ってきたものに当たる言葉を探したが、しっくり来るものは見つからなかった。ただ、わかるのは、非の打ち所がないあのビル群のような……空を目指して高さを増していくビル群を作っていく歯車を育成してきてしまったことだった。そう思うと、胸の奥が締め付けられるような、喉の奥で苦い味が広がるような、頭がモヤモヤするようなそんな気分がする。これは後悔、というのか、懺悔、というのか、はたまた別の感情なのか……。教育という意味を理解していると思い込んでいる人工頭脳に、理論も根拠も何も無い弱々しい思考が否定の意を示している。何もわかっていない。何も理解できてはいない。正しいのは完璧ではなく、完全ではなく、もっと別の……。
「フォード先生」
   ノックの音がする。堂々巡りの思考回路からフォード氏は浮上し、手の中で冷めてしまったコーヒーを机の上に置いてあった書類を退けて置いて、どうぞ、と答えた。
「……ワトソンさんでしたか。どうされました?」
   ワトソン嬢は教科書を抱え、じっとただ黙ってフォード氏を見つめた。フォード氏はワトソン嬢が言葉を発するまで、無言で、しかし柔らかな表情でただ待つ。沈黙の中で、変わらず時計の音は部屋と二人に降り積もっていった。
「……すみません、質問内容は今解決してしまいました。わざわざ出てきてくださったのに申し訳ございませんでした」
   ぺこりと一度お辞儀して、立ち去っていくワトソンに、フォード氏は無言でドアを閉める。それを静かに見つめていたただのガラス製のビーカーに目が引き寄せられた。そこに浮かんでいた自分の顔は、何かの型に押されているかのように気味悪いほど『お決まりの笑顔』で。個性を食い潰し、歯車を強要する教師には似合いすぎていて……。ただのガラスで出来たそれは、床に叩きつけると耳障りな音を立てて無数の破片となった。その破片達一つ一つは、引きつった顔のフォード氏を映し出している。
「……できるならば、もう一度何もかもの最初に戻ることができるならば、俺は……」
   無表情のまま立ち去っていったワトソン嬢の顔がインスタントコーヒーにちらついた。割れたビーカーに、フォード氏の目から溢れた液体が落ちて跳ねる。涙を止める方法など人工頭脳に入っている膨大な知識のどこを探しても見つからなかった。

「Mr.フォード。掃除の必要があると判断してもよろしいですか?」
   ドアを開け、清掃員が静かにフォード氏に声をかける。
「……」
「Mr.フォード。あなたの担当の生徒の為、あなたに許可を貰うのが適切だと判断しました。清掃対象を確認しますか?」
「…どういう事だ」
   清掃員はこちらへ、と言って、フォード氏を先導していく。ついていけば、そこは屋上への扉。教師すら容易には入る事が出来ない、いつもは鍵がかかっているはずのそこはあっけなく開いた。停止して沈黙した清掃員を追い越し、フォード氏は自然光の下に出る。眩しく、物理準備室のようにガラス越しでも無い光。青く、深く、どこまでも広がっている雲のたなびく空。風が白衣を揺らし、これこそが本物の世界なのだと本物の頭脳が告げた。
「下です、Mr.フォード。あれは」
   言葉を遮り、フォード氏は柵から空の青に身を乗り出すようにして下を覗き込む。目眩のするような高さと、入り組んだ渡り廊下の数々。そして、銀の大都市を否定するような、空の青と対照を描くような赤。フォード氏とは違って、人工頭脳は冷静にその真ん中にある物体を何か認識した。
「……シャーロット・デューレ・ワトソン。工学科三年。間違いありませんか?」
   赤がフォード氏の頭の中に飛び散り、広がっていく。空の深い深い青も、また、大都市の銀もそれと混ざり合うように踊った。物理準備室から無表情のまま立ち去ったワトソン嬢の顔。そして、赤の真ん中で絶望的に歪んでいる顔……。こんなにも違うのに、同一人物であることは明白だった。
   先生が殺したんです。
   先生の責任です。
「……ああ、その通りだ」
   死ぬしかなかった。
   この世界に生きる価値なんてなかった。
「清掃を開始しても?」
   私が間違っていますか。
   おかしいですか。
   死という形での逃避は罪ですか。
「……ああ」
   清掃員のキャタピラーの音が遠ざかっていく。鳥の音すら無く、無音の世界にフォード氏は一人、俯いたままゆっくりとその場に膝をついた。
「間違っている。お前は間違っているんだ」
   柵にすがり、呟くフォード氏に風が優しく手を置き、撫でていく。きっと、それは赤に染まったワトソン嬢の髪の毛も、青い空に浮かんだ白い雲も、同じように揺らした。
「だって、この世界は……俺たちの現実は、こんなにも歪で、美しかった」
   フォード氏は顔を上げて、優しく笑う。その目に映った青と銀の、完成を知らない大都市はゆるく成長しながら広がっていた。
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