殺人事件ライラック (ブリキの花嫁と針金の蝶々)

尾崎諒馬

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第一部 月は笑うが…… 

 二章

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     二
 
 駐車場で車を降りる。既に何人かお客は集まっていたが、全員私とは面識はなかった。
 三、四人の紳士たちが何やら話をしていた。
「それはちょっと物騒ですね」
 聞き耳を立てるとどうも麓の住宅地で野良犬が殺されていたらしい。それも首がない状態で――
 少し胸騒ぎがしたが、面識のない人たちの会話に入っていく勇気はなかった。
 少し離れて二、三人の女性が楽しげに話をしていた。そのうちの一人と目が合ってしまったので、仕方なく軽く会釈をした。
「社長のお知り合い?」
 一人の女性から訊かれたので、
「いや、会うのは今日が初めてです」正直にそう答える。
「じゃあ、婚約者の方の? どういう関係? まさか元カレ?」女性がいやらしく笑った。夜の雰囲気があった。
「いや、ただの知り合いです。ところで社長さんはどんな方です?」強引に話題を変える。
「どんな?」女性は少し考えて「一言でいうと可愛い人」そう笑った。
 ――可愛い? 
「会えばわかるって」それだけ言うと女性は可笑しそうに笑った。
「そうですか? では社長さんに挨拶に行くんで失礼します」そう言って、別荘の敷地内に入っていく。
「社長さんファンデーション塗ってたよね」
「そうそう。学生の頃、地下アイドルやってたらしいよ。女装して。可愛くて結構人気あったんだって」
「そうなんだ。まあ学生だったらね。でも結局大企業の御曹司で、社長の椅子に納まるんだね。うらやましい」
 先ほど別れた二、三人の女性の声が聴こえてくる。
 ――社長は一体、どんな男なんだろう?
 砂利道の右側に側溝があって、その近くに何か昆虫のようなものが死んでいた。誰かに踏みつぶされたのだろうか? 身体の前半分がつぶれていて明らかに死んでいた。
 ――カマキリ……
 いや、死んでいるはずなのに何かがウネウネと動いている。
「ハリガネムシ……」思わず顔をしかめる。
 カマキリのお尻から針金のようなそいつがウネウネと這い出してきており、砂利の上で妙な形にうごめいていた。
「嫌なものを見てしまったな」私は気分が悪くなった。
 砂利道を上っていくと、彼女――社長の婚約者が電話していた。
「だから――」そう少しムキになったような声で誰かと話していた。
「あ、切るね」彼女が私に気付いて出迎えてくれた。
 笑顔だったが、一瞬彼女は淋し気な顔をした。しかしすぐに柔和な笑顔に戻ったので、私は大して気にはしなかった。
 ――電話、誰?
 思わずそう訊きそうになったが口からは出なかった。
「あら? やきもち? 電話、パパから」彼女は可笑しそうに笑って「あれ? まだ違うか? まあいいや、とにかく久しぶり。そしておめでとう。今じゃミステリー作家だもんね」
「いや、デビューからだいぶ経つし、おめでとうはもういいよ。それよりそっちこそ婚約おめでとう」私は精一杯の笑顔を作った。
「えー、残念に思わないのかな? 少しは」彼女は笑顔だったが少し怒っているようにも感じた。
「今日は招待ありがとう。手ぶらで気楽に、と言われたから本当に手ぶらなんだけど」
「いいよ、本当に気楽なパーティーなんだから構わないよ」彼女は笑って「寧ろ、こっちからいろいろプレゼントあるんだ」
「え? プレゼント? 何のお祝い?」怪訝に思いそう訊くと、
「さあ? 何でしょう?」彼女はそう笑ったが、急に思い出したように「あ、いけない。サプライズだったかも。今の話は忘れて」
「やあ、いらっしゃい」不意に後ろで声がした。
「こちら社長さん、婚約者よ」彼女がそう紹介した。
 振り返ると今まで電話していたのか、スマホをジャケットの内ポケットに戻しながら私に微笑みかける男がにこやかに立っていた。
「今日はお越しくださりありがとう。お初にお目にかかりますが、あなたのことは私のフィアンセ――彼女から聞いてますよ」
 別荘の玄関の前でそう迎えてくれたのは社長だった。
「近藤勝男――近藤メディボーグの社長をやっています。すべてに勝つ男、そういう父親の想いが込められた名前です。名は体を表す――まあ、そんなことはない、それは見ての通りで……」
 ――なるほど、かわいい、か……
 近藤社長は、ブ男の私とは違う、端正な――いや、美しいとさえ言える中性的な顔立ちの男だった。良美と同じくらいの小柄な体格で、うっかり、美少年――いや、少年ではない、古い言葉で言えば、麗人、そう言ってしまいそうな……
「ご婚約おめでとうございます。彼女のことをよろしくお願いします」私はできる限りにこやかにそう言った。
 ――可愛らしい彼女には近藤のような美しい男がふさわしいのだ。
「ありがとう。今日はゆっくりしていってください。夜はみんなでバーベキューしますので、大いに楽しんでください」
 三人で横に並んで砂利道を玄関まで歩いたが、近藤は私と彼女の間に割り込んできた。私と彼女が並んで歩くのを嫌がっているようにも感じた。
「どうです。なかなかいい別荘でしょう?」近藤が自慢げに言った。
「私、先に行ってるね」彼女が小走りに玄関に向かっていく。
「はは、あの娘はいつまでも子供っぽいところがあってね」近藤が眼を細める「そこが一番の魅力ですがね」
 近藤の案内で私は別荘の玄関に辿り着いた。
 ふと、近藤の首の日焼けの後が気になった。ポロシャツの襟で隠れてはいるが、首の周りにぐるりと白い跡が付いているように見えた。
「ああ、これですか?」近藤が私の視線に気づいてポロシャツの襟を正した。
「昨日、接待ゴルフで焼けたんですよ。出資を考えてもらえている方の相手をしてましたんでね、一日中。それより、ちょっとこっちを先に見てもらおうかな」近藤が砂利道の脇の小路に私を案内する。
 玄関の左手に別荘と並行する小路――紫の花が美しい灌木が両側に植えられた小路があって、その先に小さな家屋があった。
「離れですか?」
「ええ」近藤は自慢げに「あの娘が別荘には離れが欲しいと言うんでね」
「するとここは彼女の――」
「いや、特にそうと決めたわけじゃないんですよ。こうして見ると洒落ているでしょう。ちょっとした『庵』ですよ」
「なるほど、方丈庵――」
「そうそう」近藤は私の喩えに同意して「籠って法華経でも紐解きますか」そう笑った。
 別荘の玄関先から小路が左に伸びていて、その先に「庵」と表現される離れがある。そのこと自体はなんの変哲もないことなのだが、私は少し妙なものを感じた。
 更に離れの玄関のドアも少し奇妙な感じがした。いや、奇妙ではなく普通と言えば普通なのだが――
 
 ああ、そうだ。書いている今、少し思い出したかもしれない。ドアノブに針金のようなものが巻き付いていたのかもしれない。それはただの針金の切れ端で何の意味もないのだろうが……
 
 近藤が離れの玄関のドアを開けてくれたが私は外から中を眺めるだけに留めた。なんということのないシンプルな内装だったが、壁にお面がいくつか飾られていた。また玄関脇の靴箱の上にもお面を着けた二体の人形の首があった。
「能面?」
「ええ、まあ」近藤が簡単に説明する。「近藤グループ会長の祖父のコレクションらしいです。私にはさっぱり価値はわからないですけれども」
 ――父親のことを近藤グループ会長と役職で呼ぶのは社会人として教育ができているな……
 私はちょっと感心して「なるほど、曾祖父のコレクションですか、私も能はさっぱりわかりませんね」
「まあ、中はごく普通の個室ですよ。シャワーとトイレも付いている。中から鍵をかけて籠城することも可能です。やはりミステリー作家としては密室が構成できるか? そんなこととか考えるんですか?」
「いや」私は首を横に振って「そんなことはありません」
「『笑う般若面』でしたっけ?」近藤がいたずらっぽく笑った。
 私は一瞬息が詰まった。何と返していいか? わからなかった。
 ――何だ? この嫌な感じは?
「あとは『鬼面の叫び』『死を呼ぶ天狗面』でしたっけ?」近藤が私の顔を伺った。
 近藤が上げたのはとあるミステリーに出てくる架空の本格ミステリーのタイトルだった。
「お面のコレクションは能面だけでなくいろいろでしてね。天狗も鬼もありますよ。ああ、般若は鬼でしたか」
 私は何も答えられなかった。私が黙り込むと近藤は満足げに、離れのドアを閉めた。
「この離れが密室だと断定するには……」近藤がポツリと言う。「中の死体は自殺では絶対ない、そういう状況が必要ですね。例えば、首の切断とか――。そうだ、心臓がえぐり取られているのもいいですね」
 私は何も返せなかった。
「ああ、あれは離れではなくて手術室でしたね」近藤は嗤った。
 
 いや、今、さらりと書いてみたが、現実はもっと奇妙だったはずだ。もっと正確に思い出してみよう。
 まず、近藤社長は何か意味ありげに笑っていた。こちらを馬鹿にしたような笑い――いや、嗤い、嘲笑だったかもしれない。
 お面も確かに能面や天狗や般若も飾ってあったが、祭りや縁日でのテキヤのお面も交じっていたはずだ。それこそウルトラマンやアンパンマン、ドラえもんもあったかもしれない。
 それより――
 そうだ、バケツが多数置いてあった。ブリキやら樹脂製のバケツが部屋の中あちこちに――
「バケツも被ればお面でしょうに」近藤が不気味に笑った。「チープですか? お気に召しませんかね?」
「いえ」私は首を横に振る。
「死体の首が切断され代わりにバケツが被さっていた。これも面シリーズなんでしょ?」近藤が意地悪く「一応、バケツもお面でしょう? ほらいくつかは顔を書いておきました」
 見ると目と鼻と口がマジックで書いてあるバケツもあった。
「ブリキの木こりですよ。オズの魔法使い」
 間違いなく、近藤社長は私のことを小馬鹿にしていた。
「チープなのも企みなんでしょう? 見解は分かれると思いますが」
 どこまでも近藤は私のことを馬鹿にしていた。
 ――確かに離れの造りもチープだった。
 玄関のドアは安アパートのそれだった。
 そうだった。ドアにはノブにサムターンのチープな鍵とドアチェーンが付いていた。それは別荘には相応しくない。私はその時、いっそのこと、この別荘が火事で全焼すればいいのに、確かにそう思った。
 
「さ、母屋に戻りましょうか? この別荘は仕事で接待とかにも使えるようゲストハウスのように設計しました。客人が宿泊できる個室が四つ。一つがこの離れです。母屋の中にもシャワートイレ付の寝室が三つあります。あなたもそこに一泊してくだされば」
 近藤は何も答えられない私の様子に満足したようにそう言った。顔は真顔に戻り嘲りの表情は消えていた。
「私が一部屋で、もう一部屋は彼だと思いますが? もう一部屋は」私は思わず尋ねる。
「いえ、予備ですよ。今夜は会社のものが泊まるかもしれませんが客ではありません。宿泊するお客はあなたと彼だけです。ええ パーティーには十数人ほど呼んでいますが、宿泊いただくのは尾崎、坂東両先生だけです。ミステリー作家のお二人だけ」近藤は彼も私もペンネームで呼んだ。
「そうですか。ただ、ここではペンネームはちょっと……」
 私の話は軽く無視され、近藤は別荘母屋の中に私を引き入れた。母屋の玄関の扉が開かれるとそこにはホールと呼べる程の広い空間があった。そこに彼がいたので、挨拶しようとしたが、それより先に目の前にある階段に意識が吸い寄せられた。玄関ホールの目の前には立派な――実に立派な階段があった。
 ――離れといい、この階段といい、この別荘はまるで――
 私はますます妙な気持ちになっていた。その気持ちがどこから来るのか確かめようと記憶の奥を探ろうとしたが、すぐに現実に引き戻される。
「この階段いいでしょ? ねぇ、これ憶えてる?」彼女が階段の踊り場にいて、いきなりそう切り出した。
「まあ、とにかくお二人をまず部屋に案内して――」近藤が彼女を制するが、彼女は聞く耳を持たなかった。
「いいから、いいから、階段の下に――。早く――」
 彼女は一度こうと決めたら他人の話など聞く人間ではない。私はそれをよく知っていた。
「わかった。わかった」私は靴を脱ぎスリッパに履き替えると階段の下に急いだ。
「いちりっとせ♪」彼女はそう歌って一段階段を降りた。
 ――いちりっとせ?
 私は困惑した。その意味がわかるような、わからぬようなもどかしい気持ちになった。
「やんこやんこせ♪」彼女は歌を続け、また一段階段を降りる。
 私は困惑したまま、その場を動けずにいた。
「しんからほけきょ♪」彼女は、また一段階段を降りる。
「何してるの? いくよ!」
「は、ゆめのくに♪」彼女は不満げにまた一段階段を降りる。
 私の困惑は続いていた。困惑の本質は相変わらずわからなかったが、ただ、私はその遊びを知っていた。それで無意識のうちにその遊びに参加していた。
「もう一回、わかるでしょ?」彼女は続ける。
「いちりっとせ♪」
 彼女の歌に合わせて私も歌った。「いちりとっせ♪」
 彼女が一段下がり、私は一段上がる。
「やんこやんこせ♪」彼女が更に一段下がり、
「やんこやんこせ♪」私も一段上がる。
「しんからほけきょ♪」彼女が更に一段下がり、
「しんからほけっきょ♪」私も一段上がる。
「は、ゆめのくに♪」彼女が最後そう歌って、一段下がる。
 その時は私はすべてを悟った気がした。そしてそれは私を完全に硬直させた。私は身動きが取れず階段のその段に立ちすくんでいた。
「やった! 捕まえた!」彼女が私に抱き着いてくる。
 私はしばらく放心していたが、ハッと我に返り、良美の抱擁をやんわりとほどいた。「君が鬼だったのかい? それを最初に言ってくれないと……」そういうのがやっとだった。
 私は少しばつの悪い思いを押し殺して、良美から離れて階段を下に降りた。
 
 そうだ……
 この時、夢の国、即ちワンダーランドに迷い込んだのだ……
 ミステリーというワンダーランドに……
 そしてこの世界のヒロイン――彼女の名前は「良美」だ。この世界での彼女の名前は「良美」でなければいけない。
 
「良美、お二人をまず部屋に案内するから」近藤が少し怒ったように言って、私と彼を階下の個室にそれぞれ案内した。
 部屋に入る前に彼が独り言を言った。「いちりっとせ、かぁ」
「ああ、子供の遊びだ、階段を使っての」私は彼の独り言にそう反応した。 
「その次は『らいとらいとせ』じゃなかったか?」彼は首を傾げる。
「そうかもしれないが、記憶では『やんこやんこせ』なんだ」私はその次に「少なくとも私と良美の間では」そう言うつもりだったがその言葉を呑み込んでいた。
「君と良美ちゃんは?」彼がそう訊いた。
「幼馴染だ」私はそう答えた。
 廊下の腰窓から紫の花をつけた灌木が見えていた。
「きれいでしょ、あの紫の花、ライラックだよ」
 後ろから良美の声がした。
 ――ライラック……
 恥ずかしいことに、その時はじめて、ライラックの花が紫色なのを知った。
 
 それから――
 別荘にはピアノがなかった。
 これを書いている今、そのことを思い出した。
「この別荘にはピアノは置いてないんですか?」確か社長にそう尋ねたはずだ。
「ないですよ。誰も弾く人などいないですからね」確か社長はそう答えていた。


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