ドブ川の宝石

のがれみすみ

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chapter.1 日焼けた傷跡

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 お酒のペースが思ったよりも早くなってしまい、少し酔った体を冷ましたくて外で夜風に当たる。気が緩んでいるのか、仕事の時より酔うのが早い気がした。家に帰ったらデトックスのサプリ飲まないと、明日は夜出勤だし。
 気持ちいい夜風に当たりながら、回りっぱなしの換気扇の唸り声と、中にいるほろ酔いたちの話し声や、食器とグラスが当たる音をぼんやり聞いていた。こんな風にぼーっとしたの久しぶりかもしれない。
 居酒屋の横の路地にお尻を付けないように座り、下を向いていると白いスニーカーが目に入った。緑、赤、緑の順で横にラインが引かれている白いスニーカー、GUCCIだ……じゃない。

「気分悪いの?」

 上から降ってきた低音で、でも柔らかい声に顔を上げるとそこにいたのはあの一条秀で、彼に見下ろされるアングルに嫌な思い出がある私はすぐに頭を下げて、平気ですと小声で答える。

「本当?ならいいけど、それにしても随分久しぶりだね。同じ大学で同じ学科なのに気づかなかったよ。」

 これは雑談?それとも何か私に対して嫌な思いをさせたいの?全く意図の読めない言葉に、そうですね、と私は言うしかなかった。相変わらずごうごうと換気扇は唸っていて、少しも黙る様子はない。

「財木さんの方で君を見かけないと思ったらお母様の方にいたんだ。」
「ええまあ、はい……。」

 どうしてこんなに長く話しかけてくるの。訳が分からないし逃げ出したくて、私は立ち上がる。少し酔いが余計に回ってふらつきそうになったがどうにか堪え、戻りますと言って一条さんの方へ背中を向ける。

「もし講義が被ったら仲良くしてね。」

 そんな最後の言葉に有り得ないと思いつつ、はい、と一応返事をして店内へ戻った。

 今日は夜のアルバイトもあるのに一限はきついなぁなんて思いながら、講義の行われる教室でスマートフォンに記入しているシフトを見て、今日は総額でいくらになるかなんて考えていたとき。

「おはよう瑠璃ちゃん。」

 昨日も聞いた低音の柔らかい声が私の名前を呼んで、そちらへ目を向けると一条さんがいて私は目を丸くするしかなかった。

「早速被ったね。」

 なぜか楽しそうにしながら一条さんは私の隣を一つ空けて座り、その空けた席には鞄を置いた。なんで講義が被るの、いや学科は同じだし有り得ない話ではないけれど、どうして一限なんて取っているの。
 頭を抱えたくなるのを堪え、スマートフォンを閉じて講義の準備に集中している風を装い、一条さんに話しかけられないようにした。


「心的外傷、つまりトラウマというものは日本文学においてもよく登場するテーマです。トラウマについて、多種多様な表現がされています。例えばこちら。」

 教授の話を聞きながら、画面に映るトラウマについての表現を見る。豊かな表現で書き出されるトラウマという苦しい記憶についての記述は、どれも人によって個性が色濃く出ていて面白い。
 しかしトラウマというと、私は今隣にいる男によって植え付けられた強いトラウマがある。ノートにメモを取りながらも少し一条さんの方へ視線を向けると、青がほんのりかかったような黒い瞳がしっかりと前を見据えていた。
 私にしたことなんて忘れているのだろうな、その横顔を見ながらそう思う。それに、あれは確かに子供のした些細ないたずらみたいなものだろう。けれど、私にとっては兄からの最初で最後のプレゼントで、家族を信じなくなった第一の原因なのに。
 心の傷を消したくても消せない。渇いたと思って剥がしたかさぶたはいつまで経っても治らなくて、次第に傷跡が日に焼けて身に焼き付いてしまっている。

「では皆さん、次の講義までに2000字程度のレポートでトラウマについて、本などを照らし合わせながら皆さんの表現で教えてください。」

 感傷に浸っている合間に教授がそんなことを言って講義を終えていた。レポート、レポートって言ったのか今。
 しかも本を読んで2000字。来週までシフトがびっちり詰まっている。まずい、これはかなりピンチかもしれない。

「どうしたの、暗い顔してるけど。」

 横から声をかけられて、焦っていた思考が強制的に止められた。

「アルバイトが詰まってて、本読めるかなぁって。」

 はぁー、と深いため息が勝手に漏れていく。一条さんに話しかけられたことよりも、正直レポートへの心配の方が強い。
 時間をどうにか捻出しなくちゃ。二限の講義はとっていないし、その時間と昼ご飯を抜いて本を読むしかない。なるべく早めに読める薄い本がいいだろう。

「アルバイト?」

 なぜか眉をひそめてそう聞かれ、何か変なことを言ったのかと私は一瞬戸惑ってしまう。けれど、振り返ってみても何かおかしいことを言っているわけではなかった。

「してますけど、みんなそうですよね……?」
「ああいや、うん、そうだよね。ねえ、ところでこの後暇かな。」

 この後とは、二限の話だろうか。二限は確かに講義を取ってはいないけれど、本を読む予定だったし暇とは言いきれない。

「勉強、予定で……先輩は次の講義とってないんですか?」
「あんまり興味が湧くのがなくてね。じゃあ俺も一緒に勉強しようかな、レポート用に本借りに行く予定だったし。」

 え、なんで一緒に図書館へ行くなんて話になっているんだ。

 本当に一緒に図書館へ来て、向かい側に座る一条さんを少し盗み見て不思議な気持ちになった。高そうな時計をした右手が、黒いシックなシャーペンを回しながら本を読んでいる。
 ペン回しなんかするんだな、意外に思いながら本に視線を戻す。静かな図書館内では向かい側で単行本のページをペンを握った片手で捲る音、読んでいる間手が暇なのかペンを時折回す音と、たまに聞こえる足音くらいしか聴こえない。

「さっきも聞いたけど、瑠璃ちゃんはアルバイトしてるの?」

 静かな中、一条さんの少し潜めた声がして本に視線を向けたまま、質問の意図を考える。アルバイトなんて大学生であれば、基本的に誰でもしているはず。
 そこまで考えて、どうしてその質問をしてきたのか理解した。そうだ、この人はアルバイトなんてしていないんだ。生まれた時から、誰もが知る大企業を多数経営するグループの会長の跡取り息子として生きている一条さんには、アルバイトなんて必要すらない。
 だから、昔はそういう生き方を送るはずだった私がアルバイトなんてものをしているのが、到底信じられないのだろう。

「私はもう、ご令嬢では無いですからね。」

 予想外に、言葉に感情が乗らなかった。九歳の時に両親が離婚して、私はその時からもうご令嬢なんていうものではなく、後ろ盾のないシングルマザーに育てられることになったただの子供だ。

「そっか……ごめん、嫌なこと聞いたね。」
「え、いや?特にそんな嫌な話でもないですよ。」

 現代日本において、離婚なんてそう珍しい話でもない。片親だからどうのこうの、そんなこと言われたこともあったけれど、別に正直親が一人しかいないこととか離婚なんかよりよっぽど辛いことばかりで、離婚ごとき嫌な話でもなんでもない。
 現状、親に困らせられまくってはいるけれど、最早もう家族関係には何も思わないし、期待もできないし。

「強いね、瑠璃ちゃんは。」
「え……?」

 一条さんの言葉に、なにか別の意味が篭っているような気がして思わず顔を上げた。少し寂しげな顔をしていた一条さんは、私が顔を上げたのに気づいたからなのか人の良い笑みを浮かべる。
 それ以上は何も聞くことが出来なさそうで、私は静かに本へ視線を戻した。一体、どういう意図の言葉だったのだろう。
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