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透きとおる
しおりを挟む何をやってもうまくいかない。
「354円です」
隼人はカウンター上に放り出された商品のバーコードを通し、機械的に言葉を紡ぐ。客の男は無言で黒い革財布の中を漁った。
客が小銭をカウンターに並べている間、隼人は息だけしていた。何も考えず、微動だにせず、息だけして立っていた。
このコンビニで深夜、バイトを始めて数か月。三十を目前に控えた隼人の頭の中には苦悩なんて一切なかった。
***
客足が落ち着いた午前三時。レジをもう一人の店員に変わってもらうと、隼人は店の裏から掃除用のモップを携え店内に戻った。
レジ周りを入念に拭き、入り口付近から雑誌棚へと拭いて行く。こびりついた黒い汚れを力任せに拭いていると、背後から客の入店を知らせるチャイムが鳴った。レジの男店員が「いらっしゃいませー」と気の抜けたような声で言う。隼人は目も上げず、汚れと格闘しながら「いらっしゃいませ」と小声で言った。
カツカツと靴の底が鳴る音が近づく。それと同時に独特な煙の臭いがして、眉を顰め視線を床から上げた。
「店内禁煙になんで、煙草は消してください」
抑揚のない声で述べると、隼人の傍まで来ていた客は「あ」と、吊り目を丸めて小さく声を漏らす。
隼人より背の高い、端正な顔の造りの男だった。目鼻形がくっきりしたその男は、咥えていた長い煙草を慌てて手に取り、ジーンズのポケットから取り出した携帯灰皿に詰め込む。
それをポケットにしまうと、男は隼人を振り返る。片手を目の高さまで上げて「ごめんね」と落ちついた口調で言い、小さく舌を出して笑った。気の強そうな顔立ちには似合わない、その動作が妙に癪に障る。馴れ馴れしい。
自分よりも若いだろう男。白い肌の艶やかさがそれを物語る。首まで伸ばされた金髪は後頭部で雑に結ばれており、それを柔らかく揺らしながら、男は便所の中へと消えていった。
周辺に煙草の香りが残る。隼人はグレーの制服の襟を鼻先まで引っ張った。幸い、そう簡単に匂いは移らない。
煙草はどうしても好きになれないのだ。
***
もうすぐ三十になるんやでアンタ。ええ加減定職にもつかんとウロウロしとるんやったら、こっち戻ってきて家事の一つでも手伝ったらどうやの?
今はまだお父さんもお母さんも元気に働いとるけど、いつ倒れるかわからんねし。お金のことは私やお父さんがどうにかするから、アンタとりあえずこっちに帰って来て、手伝いでもしながら仕事探さんせよ。
ああそれと、高校の同窓会のはがき来てたけど、どうする?
***
「桂木さん」
ハッと勢いよく振り返る。レジにいるはずの男が何故かすぐ背後に立ち、隼人の驚きように目を瞬かせながらレジの方を指さした。
「少しレジ見てもらっていい? 事務所に忘れ物して」
ああ、はい。と生返事でレジへ向かう隼人。カウンター内に入り、モップを壁に立てかける。不意に頬を流れた一筋の汗に、ふー、と深い息を吐いた。
丁度その時、便所に入っていた男が店内に戻ってきた。数列並べられた陳列棚を見て回り、最後に行きついた飲料水の棚からペットボトルの炭酸飲料を手にする。それから他に目をやることなく、それレジカウンターにそっと置いた。
130円です、と淡々と述べれば、男はきっちり130円、カウンターの上に並べる。
「レシート要らないから」
そういうと男は、購入したペットボトル飲料を手にし、去り際、隼人の方を向いて吊り目を柔和に細めて笑った。
「ありがと」
言い残し、男は店を出て行く。
しばらく隼人は立ち尽くした。
真っ直ぐ前を見据えたまま、数回瞬きし、男が冷静さの孕んだ口調で述べた言葉をゆっくりと咀嚼する。脳裏に男の優しげな眼差しが蘇った。
深夜のコンビニで働き出して数か月。面と向かって感謝の意を客から伝えられたのは、今日が初めてだった。
深夜のコンビニにやって来る客は、ほとんどトラックの運転手や、顔の厳つそうな、愛想のない人ばかりだった。と言っても、隼人にとってそれは特別苦痛なことでもなかったので、別に気にもしていなかった。
特に何もしていない、サービス業としては当たり前のことをしていただけなのに、今日初めて礼を言われた。
それが嬉しくて、つい「ふへ」と変な声を出して笑んでしまう。こんなに嬉しいことがあるのなら、これからレジする時はもう少し愛想よくいようと思った。
思えば大人になって初めてかもしれない。
ありがとう、と言ってもらえたことなど――
……そんなことを考え始めると、口元に浮かんだ笑みや、頬を色づけていた興奮の熱は、次第に消え失せていく。
鼻の奥に蘇る、煙草の匂い。
目の前が、マジックで黒く塗りつぶされていく。
――図に乗るな俺。
――どうせ何をやってもうまくいかないんだから。
***
ホワイトボードの前で、隼人はスーツ姿で立っている。黒いマジックを手に、何かを書きだしながら、向かいの円卓に座る人たちに提案した企画案を熱弁していた。
その人たちの顔はよく窺えない。
黒いマジックで塗りつぶされたように、顔色は陰に覆われていた。
黒く塗られたうちの一人が、皺の多い人差し指を隼人に向ける。
『過去例がないよ、そんなこと』
その声に周りも賛同の声を漏らす。
黒い澱んだ空気が、十人程度を収容できる室内に広がる。人が隼人に何かを言う度に、その空気の濃度は増して行く。
『成功するわけないよ』
別の人がそういうと、スーツの胸ポケットから煙草の箱を取り出した。ピクリと隼人の眉が動いたのにも気づかず、その人は一本、取り出した煙草の先端に火を点ける。
『会議中ですよ。煙草は控えて下さい』
忌まわしい煙が、澱む室内をさらに澱ませる。だが隼人の忠告も聞かず、その人は煙草の煙を蒸し続けた。
涙腺を刺激するような匂いに咽ながらも、隼人は黒いマジックを握りつぶしそうになりながら語った。
『そもそも過去に記録のないことを世に出すのが、我々の仕事じゃないんですか!』
バンッとホワイトボードの表面を叩きつける。罵声で湧いていた室内は静まり返り、黒い靄が一瞬、晴れたかに思われた。
『……下っ端の分際で鬱陶しい』
その小声が、場をまた黒くした。
真っ白いホワイトボードの上。殴り書かれていた字が、ゆらゆらと躍り出す。
子供の落書きのような、無意味な線が幾つも隼人の心につけられる。
視界は黒くなり、ついには何も見えなくなった。
***
午前六時。
朝担当の女性と交代業務を済ませ、グレーの制服から着替えた隼人は帰途につく。
まだ早朝に近い時間帯。陽が昇ったばかりの街並みは、青白く靄がかっている。大通りを行く人の姿はまばらで、ほとんどがスーツを着た男性の姿だった。
一応隼人も、少しの期間サラリーマンをしていた身だ。この時間帯に通勤していたが、とりわけ朝が早い会社に就職したわけではない。隼人の場合、こんな朝早く出るのは通勤ラッシュの電車を避けるためだった。
通勤の際の満員電車は苦痛だった。限られた容量の中に「これでもか」というほどの人が詰め込まれる。
それに加え香水や汗の匂いやらが辺りに充満して、吐き気をもよおすほどだった。おぞましい苦行を避けるため、隼人はよく早めにマンションを出て、会社周辺の朝からやっている喫茶店に入り浸っていた。
コーヒーから立ちのぼる白い湯気を肌に感じながら、窓に隣接した席から人の往来を眺めていた。せかせかと歩く人たちは、これから始まるであろう一日に、何を思っていたのだろう。
今思えば、あの早起きに何の意味があったのだろうか。わざわざ行きたくもない会社に、苦痛なくいくために早起きして、コーヒー一杯で開始時刻を待つのに、何の意味があったのか。
現状、何もなかったとしか言いようがない。なにせ自分はもう、あの会社にいないのだから。早起きした意味も結果も、何も手元には残らなかった。
すれ違うサラリーマンたちは皆一様に、大通りを横断した先にある駅の中へと飲み込まれていく。その背中を、立ち止まり目で追いながら深いため息をついた。
どうして自分は、何もかも〝そつなく〟こなせないのだろうか。
子供の時からずっとそうだった。何をやっても夢中になって熱中しすぎて、最後に転んでしまう。そこから上手く起き上がれない。
運動会の徒競走がいい例だ。いつも一位を独占して走っていても、最後小さな石に躓いて転んでしまう。皆がゴールしても、隼人だけが起き上がることが出来ず、ゴールを目指そうともしないでグラウンドから退場するのだ。
最後までやった例が一つもない。
また深いため息をついて、駅に向かうサラリーマンから視線を逸らし、借りているマンションへと足を進めた。
「桂木さん」
先に大通りを渡ってしまおうと、律儀に横断歩道前に立つ。そんな隼人に澄んだ声がかけられた。
女性とは違う涼やかさの孕んだ声に、隼人は聞き覚えがあってゆっくり目だけで背後を振り向く。
「ほら、桂木さんだ」
ジーンズに薄めのTシャツ。目鼻立ちの整った色白で、伸びた金髪を適当に結っている男。
指の間に挟んだ一本の煙草を、丁度口元まで運んだところだった。それを目にした隼人の鼻の上に皺が寄る。
「……もしかして、煙草嫌いな人?」
隼人の険しい表情に気づいてか、男は「そっか、そうだよね」と言いって携帯灰皿にそれを押し込む。それから首を横に傾がせ「ごめんね」と笑った。
そもそもコンビニでバイトを始めて数か月。隼人はこの男を今日初めて見た。なのに男は隼人の顔どころか、おそらく制服につけられた名札を見て苗字まで覚えている。なんでわざわざ、と。思い眉間に皺を寄せた。
「今帰り?」
小動物のように首を傾げる背の高い男は、隼人が眉間の皺を濃くしていくのを見て「あ」と声を上げる。
「俺、神崎、神崎操」
そういうことではない。内心隼人は律儀に自己紹介した男、操に毒づいた。面に怪訝を張り付けたまま、隼人は「どうも」と述べる。丁度横断歩道の信号が青に変わり、歩き出したが、そうすると操も隼人の後に続いた。
「桂木さんいくつ?」
どこのナンパ師だと、心で言いながら隼人は深い息を吐く。横断歩道を渡り終っても、操は頻りに落ち着いた口調で「どこ住んでるの?」「いつバイトなの?」と血気盛んな大学生のようなことを聞いてきた。
しかも中々引かず、隼人がマンションに向かう足取りにずっとついてくる。
気怠くなり、諦めて「神崎さんよりは年上ですよ」と小声で言った。
操は細い目を丸くし、え、と声を上げると、次第に苦い笑みを滲ませる。
「俺、今年28だよ」
隼人はつい驚き、足を止めてしまう。
艶やかなあの白い肌が、まさか同じ年の男のものだったとは。つい自分のかさついた肌を撫でてしまう。同時に「俺も老けたな」と落胆した。
同いかよ、と消沈して肩を落とす。長身の男をやや見上げれば、操は喋り方に似合わない鋭利な目を柔和に細め、隼人を見た。
その目の奥に鮮やかな光を見た気がして、隼人は一瞬身を強張らせる。
「桂木さん、関西の人でしょ。同い年って意味で『同い』って、こっちの人はあんまり言わないよ」
言うと操は静かにジーンズのポケットに手を伸ばし、煙草を取り出そうとした。だが「あ」と声を零すと、それをなかったことのようにポケットに押し戻す。
「俺、あそこの店で石売ってるんだ。パワーストーン。趣味でやってる店だからさ、儲けもないけど、暇な時あったら見に来てよ」
操は鉄橋の下まで来ると、そこを潜った先にある草むらを指さした。
そこに一つ、廃墟のような小さな洋館が建っている。まるでおとぎ話にでも出てくるような、蔦に覆われた灰色の建物だった。
はぁ、と短く答えた隼人は疑いの目を操に向ける。それに気づいているのか、いないのか、操は口元を緩く綻ばせると、軽い挨拶をし、その洋館の方へと帰って行った。
大体なぜ自分が会って間もない人の店に、喜んで迎え入れられるのか。
パワーストーンの店と言っていた。きっと高価なものを脅し売りされるに違いない。
そう思い、隼人は洋館を一瞥してマンションへと向かった。
****
『真剣にやらな、勝てるもんも勝てへんやろが!』
グラウンドの上、手にしていたグローブを地面に放り投げる。高校生の隼人を取り囲んでいた数人の少年たちは、泥だらけのユニフォームを鬱陶しそうに叩きながら、聞く耳も持たなかった。
『俺らは弱小校やから死ぬほど練習しよって。んで甲子園行くんやって言い出したん誰やったよ! お前らやったやんか! なのに練習キツなったら誰も練習せんと文句だけ言うて。なんやねんそれ!』
夕方の部活練習でのことだ。
珍しく集まった部員の前で、隼人は主将らしく仲間を叱咤するつもりだった。だが部員たちは真剣に話を聞かず、怠そうに息つくばかりだ。
話しても埒が明かない。自分一人が頑張っていても、意味がない。
『ほんなら、もうええわ。俺野球部辞めたる。新しい主将も、練習メニューも、自分らで勝手に決めたらええわ』
そう言って、隼人はグラウンドを去った。
――辞めんといてや、ハヤちゃん。ハヤちゃん辞めたら、俺頑張れんわ。
背の低い、野球のユニフォームを着た少年が両手で顔を押さえながら言った。
涙声で、ユニフォームのまま校門を出ようとする隼人を引きとめ、絞り出した声に、隼人は「ごめんな」としか言わなかった。
――ハヤちゃんがおったから、頑張れたんよ。
少年がそう言っても、隼人は振り返らなかった。
自分が野球で努力していた意味や結果は、何だったのか。あの努力に意味があったのか、今でも隼人はわからない。
***
夜二十三時からのアルバイトに向かう前、通り道の鉄橋の下を潜ってみた。
暗い辺り。ぼんやりと聳える小さな洋館は、規模こそ小さいが雰囲気がある。ぽう、と小さな窓から零れる光が、辺りを薄らと照らしていた。
生い茂る草を掻き分け、入り口の石段を数段上る。虫の鳴く声が、都会に不釣り合いだった。
いいところだな、と単純に思う。都会にいながら、まるで自然の中に暮らしているようだ。
辺りには特に他の店のようなものもなく、灯りが一切ない。だが鉄橋が近いせいで、電車が通るたびに周辺は明るくなる。
電子的な青白い光が暗闇の草むらを不気味に染める絵は、都会というよりもホラー映画の世界観だ。
扉の前に立った時、丁度背後の鉄橋の上を電車が走り抜けた。暗がりの中に数秒、目に痛い光が注がれる。
鉄橋の軋む音が遠ざかっていくのを聞きながら、隼人は扉に視線を這わす。
綺麗な扉だった。ガラスを基調とした扉は、いろんな色のガラス破片を繋ぎ合わせた造りのようだ。ドアノブには木でできた看板が吊るされており、ガラスで「closed」の文字が埋め込まれている。
部屋の中の光を受け、外に出た光は色とりどりに輝いていた。その幾つもの光を体に受け、隼人は遣る瀬無い気持ちになる。
自分は、こんな綺麗な色、似あわないな。
何をしても上手くいかない。最後まで行動せず、意味や結果を知る前に逃げてしまうような敗者である隼人には、白黒はっきりしない、鈍い色がお似合いだ。
最後まで頑張らない。高校の頃の野球部もそうだ。
部を辞めた後、隼人は女担任から「煙草吸ってるでしょ」と問いただされた。煙草など手にしたこともないと弁解したが、担任は顔を曇らせるばかりで認めなかった。
野球部の部室で見つかった煙草の空箱。部員が口を揃えて「桂木の」と言ったそうだ。
呼び出された応接室でそれを聞いた時、絶望より呆れが襲ってきて、全て諦めた。誰が部室で煙草を吸っていたか、隼人は知っていた。だが担任には言わなかった。
どれだけ相手に尽くしたつもりでいても、結局上手くいかない。最終的にはだらけて練習にならなかった部活だったが、初めの頃は皆一様に同じ目標を掲げ、共に汗水を泥に染み込ませながら練習したのに。
たった一つの出来事で、全て切り捨てられてしまうなんて。
隼人は一週間の停学処分を受けた。
以来、煙草は嫌いなのだ。嫌な昔を思い出すものだから。
――ハヤちゃん辞めんといてや。
脳裏に少年の声が過る。声変わりを終えていない声の持ち主が一体誰なのか、隼人は思い出せない。
鼻を啜りながら、両手で顔を押さえる少年。隼人が背を向け歩き出しても泣き止まなかった。
――ハヤちゃんがおったから、頑張れたんよ。
と。その時突然、ぼやけた視界に陰が差す。
過去に馳せていた意識を戻した隼人は、ガラス造りの扉に映った人影に身を強張らせた。
――そもそも、どうして自分はココにいるのだろうか。
――なぜこんな店に、来てしまったのだろうか。
結論が出る前に扉が開けられた。鼻を突く煙草の匂いが、脳を軽く揺さぶる。
「……桂木さん?」
どうしたの、と。ジーンズにタンクトップ姿の操が目を瞠る。
え、あ、いや……と、目を泳がせながら言葉を探す隼人の腕を素早く掴み、操は隼人を家の中に引き入れようとした。
「いや、ちょっとま、」
「大丈夫だよ。別に高いものとか売りつけないって」
「そう言うことじゃなくて、俺――」
「必然だよ」
掴まれた腕を振り払おうとした隼人に、操が息するようにポツンと言葉を零す。
隼人は「は?」と眉間を寄せた。それを見た操が緩く口角を上げる。口元が月明かりに照らされ、妖艶さを演出した。
ギラリと光る吊り目に見られ、隼人は音をたてて生唾を呑む。
「桂木さんは、ここに来るべきだったんだよ」
操は掴んでいた隼人の腕をするりと手放す。
もう無理矢理部屋にいれることはしない。そう言いたげに、操は開け放った扉を支え呆然と立ち尽くす隼人に笑いかけた。
ぼんやりと闇に浮かび上がった部屋の明かりは、橙色をしている。肌に受けたその光に、隼人はひと肌に似た温かみを感じ、誘われるままに敷居を跨いでいた。
***
昔から隼人は頑張っていた。
何をしても人一倍頑張って、結果に繋げようとした。
だが、徒競走も部活も仕事も「頑張る」という気持ちが空回りして、上手く出来なかった。
高校の煙草問題の謹慎が解けてから、隼人は学校に行った。
周りの視線を感じながら、廊下を進んだ。心を無にして足をせかせかと動かした。
教室にいれば、無慈悲な陰口が耳に入った。それでも隼人は耐えた。何もせず、息だけして教室の中央にあり続けた。
――あと少しやから。あと少しで俺は都会の大学に行くねん。
こんな奴らがいる土地なんて出て行ってやる。
そんな思いで自分の成績に見合う、偏差値の高くない私立大学を探し、臨んだ試験はすんなりと通った。
かつての仲間たちに挨拶もせず、隼人は家族を残し一人で家を出た。
大学はあっという間で、勉強やら将来を考えているうちに社会人になっていた。
広告会社の企画職に就いた隼人は自身の熱量を生かし、世に役立つものを生み出し、社会に貢献しようと考えていた。
一人黙々と企画案を詰め、臨んだプレゼンテーション。高校のことや、かつての自分が身をもって経験していた「空回る」という過ちなど、社会の忙しさに忘れさせられていた。
案の定、企画は一蹴され、心は粉々に砕けた。
三年いた会社を、その一撃で辞めた。そこからはフリーターとして、多くのバイトを転々をしている。
脆く崩れやすい自身。パラパラと目の前を落ちていく心の破片の中に、鈍い色を放つ昔の記憶を見つけては毎回一人、絶望に顔を歪めて呻いた。
――頑張っても、結果に繋がらない。努力なんて意味のないことなんだ。
目の輝きが消え失せていく。曇っていく目の前に、チラリと華奢な白い手が差し出された。
『ハヤちゃん』
泥と肉刺だらけの、細い手。あの少年の手だ。
ゆっくりと、隼人はそれに縋るように手を伸ばした。
――ハヤちゃん
***
かくん、と。隼人は肩の上に乗せられた温かいものに体を揺すられる。
頭の力が抜け、目の前にあったテーブルに額をぶつける寸前で覚醒し、狭い額に青痣を作るという事態は免れた。
「大丈夫?」
はは、と軽い笑い声が頭上から降ってくる。見上げれば片手に何かを収めた操が、ころころと笑っていた。
どうやら隼人は家に迎え入れられてから、座るよう促されたソファでうたた寝をしてしまっていたらしい。
頭を左右に振り、今一度眠気を覚まし辺りを見回す。
薄橙色の灯りに染まった部屋。花を模った飴色のランプが部屋の隅に数個あり、心を落ち着かせる空間を作っている。
そして何より隼人の目を惹いたのが、部屋の至るところに置かれた、色鮮やかな石だ。
少し背の高い丸テーブルの上に、まるで果物でも盛るかのようにバスケットに詰め込まれた赤、紫、緑など、光沢を放つ石。
飴色の光に照らされ、鈍いがどことなく艶めかしい光を見せつけている。
部屋の四面に並べられたシックな本棚や飾り棚の上にも同様、色は違えど籠やガラス皿の中に石が積まれていた。時たまに、棚に直に置かれた歪な形の石もある。
綺麗、と無意識に恍惚なため息を零した隼人。その隣、二人掛けのソファに腰を沈めた操が軽く笑い、石を見る隼人の膝にすり寄った。
びくりと隼人の肩が跳ねる。それでも意に介さぬ態度で、背筋を伸ばし座る隼人を下から覗き込みながら、操は包んだ両掌を軽く振った。その中でペチリ、と何かが跳ねる音がする。
「桂木さん、パワーストーンにはそれぞれに不思議な力があって、俺たちにその力を分けてくれるっていうのは知ってる?」
ぺちぺちと、両手に包んだものを左右上下に振りながら笑う操。
隼人は次第に、操の掌の中に何があるのか、興味が湧いてきた。ジッと目を凝らせば、余計に見せまいと、手を強く握り込まれてしまう。
「水晶とか、有名だよね。悪いものを吸い取ってくれるって。そんなこと踏まえた上で、唐突だけど、桂木さんに貰ってほしい石があるんだ」
「唐突だなホント……」
要らないよ、と素っ気なく言い放つ。パワーストーンに神秘的な力が宿っていることを知っているのは勿論、そのおかげで小さくても値段がとんでもなく高いことも知っている。そんなもの、さっき知り合ったような奴から貰えない。
スッと隼人が視線を逸らした途端、操はそのそっぽを向いた鼻先に包んだ両手を差し出す。隼人の意識がこちらに戻ったのを確認し、掌の包みをゆっくりと解いた。
掌の上には透き通った薄青の丸い石。まるで水をギュッと凝縮させたそれの中に濁りは一切見受けられない。
そして不思議なことに、その石の表面には虹のように七色の色が輝いていた。飴色の光の加減により、薄青の石の表面がゆらゆらと幾つもの色に輝く。
「アクアオーラって言う石だよ」
操の言った石の名前を繰り返す。すると、石の表面からまるで七色の湯気のようなものが上がったように見えた。
ハッとした隼人だったが、それは一瞬のことで、一つ瞬きすると湯気は見えなくなった。
「この石の効能は沢山あるんだけど、桂木さんに知っていてもらいたいのは、一つだけかな」
言うと、操は石を隼人の眼前に見せたまま、自身の口を隼人の耳元に近づける。
「報われない努力を繰り返して、傷ついた人を癒す石」
背に虫が這うような感覚。
爪先からせり上がってくる不快感。
脳裏に蘇った、嫌な記憶。
鼻腔を突いた、咽る匂い――
咄嗟、隼人は耳元にいた操を手の甲で叩いた。だが操はそれを難なく石を持たない手で取る。
「放せッ!」
拘束された手を振り払おうと騒ぐ隼人。だが操は一向に放さない。
「努力全部が報われるわけじゃない」
「五月蠅い放せッ! 大体何でさっき会ったような奴が、俺の何を知った上でそんな石渡そうなんて――」
「それでも、意味のない努力はないよ」
ぴたりと、動きを止める。見開いた目で操を見れば、操は隼人の拘束を解く。その手で隼人の飛び跳ねてしまった髪を優しく撫でて梳かした。
「頑張っても、最後上手くいかなくて、挫折する人は沢山いる。周りの人はどんな屈強にも耐え抜いて、結果を得た人ばかりを敬うけど、俺はどっちも一緒で、凄いんだって思うんだ」
かつかつ、と。隼人の黒く塗りつぶされたものに雫が落ちる。清い雫に洗い流され、姿を見せたのは〝奥底にしまい込んだ昔の記憶〟だった。
――ごめんね隼人くん。隼人くんじゃなかったのに、先生疑ってしまって。沢山の友達がね、隼人くんは煙草なんて吸うような奴じゃないって……
実家の玄関先に立つ、高校の頃の教師。
誰かが事実を伝え、問題が新たに洗いざらいされた。一部の部員、クラスの友人の弁明がなければ、隼人は濡れ衣を着せられたままだった。
――桂木、この企画。絶対通すから。絶対。
退職届を出した帰り。外まで見送りに来てくれた同期の男が神妙な面持ちで言った。強く握った拳を震わせながら、真っ直ぐ隼人を見据え、唇を噛んでいた。
――ハヤちゃんがおったから、頑張れたんよ。
白く華奢な手。野球の練習中、怪我ばかりして、血だらけになった手をしていたあの少年の名前は、何だっただろうか。
部員が過酷な練習について来られない中、隼人と一緒に練習を続けた、無垢に笑うあの少年の名前は、何だっただろう。
人一倍努力家で、がむしゃらに突き進んできた道。
躓き立ち上がれず、情けなく道を逸れて褒めてくれる人はいなくても。
情けない、と馬鹿にして笑う人もいなかった。
「周りはちゃんと、君のこと見てくれてる。誰かが君の想いの後に続くんだ」
逸れてしまった道の上を、隼人に変わり歩いて行く人がいることに、隼人は気づかなかった。ずっと下ばかり向いて、息していた。
「君の努力は、無駄じゃない」
石を持った手を、操は隼人の手に添える。それからゆっくり手を開き、隼人の手に薄青い石をポトリと落とした。
「忘れないで。君の努力を見ていた人はいるよ」
空いた両手を隼人の頬に伸ばす。色白の骨ばった両手に顔を挟まれ、その冷たさに隼人の肩が跳ねた。
操の表情を真正面から見る形になる。
無造作に結われた髪。するり、とした白い肌にはシミ一つない。吊り上がった、柔らかな口調には似合わない目。小ぶりな鼻に薄い唇が、隼人の記憶の中の〝誰か〟と重なっていく。
飴色の光に照らされた瞳が揺れている。その瞳に見られれば、隼人の胸が早鐘を打ち始めた。
「君が頑張るなら。俺も頑張れるよ」
するりと。操の手が隼人の頬から離れる。細い指がゆっくりと隼人の頬の表面を撫で、その動作は隼人に名残惜しい気持ちを持たせた。
白く骨ばった手を、じっと見つめた。
それに気づいたのか、操の指先がピクリ、と動いた。一度引っ込められた手がもう一度隼人の頬に伸びる。かさつき冷えた指が隼人の頬を這い、首筋を下っていく。
隼人の肌に鳥肌が立つ。だがそれを決して面には出さない。やめてほしいとは、考えなかった。
操の手が急に止まる。途端、操は隼人の額に自身の額をコツン、とつけた。
「大丈夫」
何が大丈夫なのだろう。言葉の意味を噛み砕いているうちに、操は額を外す。引いていく体温が、隼人に寂しさを与えた。
その時。
突如、首に鋭い痛みが走る。あ、と声を上げて自身の首元を見ると、操の旋毛が視界に入る。首元の鎖骨部分を、操に吸われているのだと理解するのに、数秒かかった。
カッと頭の中が熱くなる。突き飛ばすことも出来ただろうが、しなかった。操の肩に手を置き、されるがまま時間が流れるのに身を任す。
甘い痛みに耐えながら、数秒ぼんやりと光景を見つめていた隼人だったが、急に我に返ると操を軽く突き飛ばし、勢いよく立ち上がった。そして飛んで逃げるように部屋をでる。
玄関に行き、靴を履き、慌ててドアノブを捻ったところで後ろを振り返る。
玄関先まで見送りに来ていた操が、吊り上がった目尻をやや下げて笑っていた。華奢な手を顔の高さまで上げると、左右に振った。
気をつけて。言われて隼人は、先の出来事の熱を冷まさぬまま、素早く軽い会釈をして外に出た。扉を勢いよく閉めて、歩き出す。
ふとそれまで、無意識に握っていた片方の手を恐る恐る開いた。
掌の真ん中には、片手で収まる大きさの、薄青の丸い石。透き通った中身とは裏腹、七色に輝く表面を持つ石があった。
――どうして操は、これを自分にくれたのか。
手の中で石を転がしながら、鉄橋下で足を止める。月に照らされた石は、まるで光の粒子をまき散らすように、辺りに輝きを放った。
目に見えない小さな光の粒子。それが隼人の肌に触れ、心の中へと染み込んでいく。
マジックで黒く塗りつぶされた記憶。思い出したくないと封じていたそれらを、粒子は綺麗に浄化していった。
記憶の片鱗が、徐々に隼人の目に映されていく。
色白の華奢な手を差し出す、背の低い少年の姿。泥だらけになった野球部のユニフォームを着ている。今まで黒く、靄がかっていた顔の部分は光の粒子にあてられ、はっきりと目鼻形がわかるようになった。
白い肌を泥で汚しながらも一切拭おうとはしない記憶の中の少年は、小首を傾げて隼人に笑いかける。
普段は泣き虫で、下手な笑顔しか浮かべることのなかったこの少年は、隼人と共に唯一努力を重ねた仲間だった。野球の練習をしている時だけは素になり、小首を傾げて光るように笑う少年だった。
目つきが悪く、気の強い印象を持たれがちな少年は、その顔に不似合なほどの優しげな声で隼人のことを「ハヤちゃん」と呼んだ。隼人が部活を辞めると言った時も、最後まで泣いて止めたのは、色素の薄い髪色を持つ、この少年だけだった。
――ハヤちゃんがおったから、頑張れたんよ
顔の上に泥をつけたまま、ぐちゃぐちゃに濡らす顔を、手の甲で拭いっている少年の姿が目に浮かぶ。
頑張っていたことは無意味なことではないと言ってもらえたことで、心の枷が少し緩んだ。
一方で隼人の努力する姿に触発された少年がその後、どうなったのかという不安が緩々と膨らんできた。
薄情なことに、隼人はかつての同じ学校、部活にいた少年の名前が一切思い出せない。
誰だっただろう、とスマホをポケットから取り出す。時刻は二十三時前。バイトに向かうにはまだ余裕がある。電話帳を呼び出し、実家の姉に電話した。姉はすぐ受話器向こうに出た。
『何? こっち帰ってくる気になったん?』
懐かしい語調。出た途端間髪容れずにそう聞かれ、隼人は小さく噴きだしてしまう。そして自らも懐かしい、故郷の訛で「帰らんよ」と伝えた。
「こっちでもう一回、頑張ってみるわ」
報われる努力は数少ない。けれど意味のない努力は決してない。がむしゃらに意味もなく頑張ってみるのも悪くないと、隼人は今日の仕事に向けて意気込んだ。うん、と独りで頷く。
「そんでさ、急なんやけど。高校の野球部に背の小さい色白の奴おったやん? アイツの名前覚えとる?」
と、そこで本題を切り出す。野球部時代、二歳上の姉はよく隼人たちの練習試合なんかを客席で見て応援してくれていた。
受話器の向こうで「んー」と唸る姉の声が聞こえる。しばらくして「ああー」と高い声が響いた。
『思い出した、神崎やろ? チビの。そういえばちょっと前に家に来てたわ。背丈めっちゃ伸びててビビったてよ。都会行くねんって話したんよ』
あんたに言ってなかったっけ? と軽く笑いながらいう姉。
隼人は微笑湛えたまま固まり、言葉を詰まらせてしまった。
すとん、と。頭の上に小石が降ってきたような感覚。
石をくれた理由と、優しく語り掛けてくれた言葉の意味。
それらは隼人の胸の中で一つに繋がり、体中に熱を循環させた。寒空に晒された鎖骨の赤い斑点がじくじくと疼き始める。
バッと、勢いよく背後を振り返る。離れた距離、灰色の古い建物の小窓からは、飴色の淡い光が漏れている。
はっきりとは見えない。小窓から光が漏れている程度しかここからは窺えない。
それでも隼人は、その窓からこちらを見る視線を感じずにはいられなかった。
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