春が来る

みとの

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 悲痛な女の声が室内に響く。
 けれど周りの生徒たちは特に何も反応しない。慣れたように各々の作業を進めている。家庭科室内には美保先生の甲高い悲鳴と、男子生徒たちがせっせと昼食の準備を進める声で溢れていた。今日のメニューは鰤と大根の煮物になめこの味噌汁、ポテトサラダに菜の花の白和えだ。

「石垣先生がまた居てる! また居てる~!!」

 小鉢によそってもらった白和えを両手で受け取りながら、オレは美保先生の声の方を見た。きぃぃ! と怒り狂って、今にも火を吹くんじゃないかと思うくらい、彼女の顔は真っ赤になっている。

 その視線の先には生徒に混じって席に着く、教師の姿があった。
 
 ボサボサの髪に無精髭を生やした男性教諭。生徒が慣れた手つきで食事を用意してくれる様を、恍惚とした表情で眺めながら眼前で両手を合わせている。美保先生のヒステリーなど、彼の耳には届いていないようで、温かい味噌汁の湯気を顔面に浴びながら「神の所業」などと、寝起きのような腹に力のない声で呟いていた。


「みほちゃん諦めろって~!」
「そうそう! ガッキーにはみほちゃんみたいにご飯作ってくれるカノジョいないんだから! 慰めてやろうよ~!」


 石垣先生の前に食事の準備をしていた生徒が数人、美保先生を宥めるように笑って声をかける。男子校特有の、教師をまるで友人のように扱う口調は人によっては嫌われるのだが、この学校の教員は皆寛大だ。みほちゃんやらガッキーやら言われても、二人とも嫌な顔をしない。石垣先生に関しは、すでに箸を手にして食事を進めようとしている。


「みほちゃんも大変だなぁ。いくら言っても毎回来てるじゃん」


 オレの隣で白和えを口に運んだ爽太は、垂れた目を見開くと「うまっ!」と声を上げてオレを見た。


「白和えはやっぱ真紘に頼んで正解だったな。普段だったら苦くて食えないよ、こんなの」
「何も変わんないよ。たいしたことしてない」
「いやぁ神の手だな、ゴッドハンド。遺伝なのかなぁ」


 小皿に取り分けられていた爽太の白和えは、一瞬ですべて口の中におさめられた。うまい、と言ってボウルからおかわりをよそっている。それを見ると、担当した身としては悪い気はしない。ニッと口角が自然と緩んだ。

 オレも白和えを一口食べる。まずくはない。苦さも気にならない程度に和らいでいて、豆腐の味もしっかりする。先生の提示したレシピに書かれていなかった、味噌をほんの少しいれたことで口に馴染む味になっている。

 グループごとに分かれて調理してるから、上手く菜の花の下処理がされなかったところは最悪だったようだ。部屋の隅から「げぇぇ! にがっ!!」と声が上がっている。石垣先生に鬼の形相を向けていた美保先生は、生徒の悲痛な叫びを聞いた途端に教師の顔になった。ちゃんと下処理しなかったんでしょ! と呆れ口調で生徒の方へ向かっていった。

 視界に石垣先生が、背を丸めて味噌汁を啜っている様子が入った。確かまだ三十代だったはずなのに、少しずつ口へそれを啜っている姿は、まるで初老のようだ。隣にいた生徒が「先生おいしいか?」と笑顔で訊ねている。


「おいしいよ」
「じゃあ美味しそうな顔してよ~」


 ケラケラ笑う生徒に囲まれる先生の表情は、整えられない髪と髭に埋もれてはっきり見えなかった。

 

 ***


 男子校にも一応、家庭科の教科は存在する。それを真剣に取り組むかそうでないかの差であり、共学校や女子校と変わりなく平等に授業は展開されている。男子校だからと言って、家庭を学ぶ授業を蔑ろにするようなことはなかった。

 けれどやはり、女子校や共学校よりは真面目に取り組む人数は少ない。特に座学に関しては、大半の生徒が机に顔を突っ伏して居眠りをしている。開始早々、まるで家庭の授業は睡眠時間、とでもいうように教科書も出さずに寝る生徒もいるくらいだ。


 それを見かねた本校の家庭科教諭、美保先生は、座学をほとんどしない先生だった。手芸や調理等々の実技ばかりの授業であり、テストに関しても実習に真面目に参加していればわかる内容だった。

 長時間ずっと座っているより、体を動かして身に馴染ませることが性に合っていたのだろう。この男子校の生徒は、他の同年代の男子に比べるとわずかばかり家庭科のスキルが高い。
 ブレザーのボタンが取れかかっていれば自ら裁縫セットを取り出して直すし、オレが知っている範囲内でも、大半のクラスメイトは昼食に自分で作った弁当を持参している。家庭科の魅力に取り憑かれ、「いやちょっと刺繍でも始めてみちゃおっかなぁ」という輩まで現れたくらいだ。

 美保先生は常に家庭の授業中、同じことを口にする。必ず週に一回、調理実習の時間があるのだが、その時はいつもより声を大にして、その言葉を紡いでいた。


「いいですか! 今の時代! 男だろうが女だろうが!! 家庭科に秀でた奴がモテるんです!! 高学歴で高収入だろうとも!! 炊事洗濯家事全般!! 少しでもそれができる人の方が低学歴で低収入でもモテるんですよ!!」


 そうですよね!! と調理実習室で熱弁する美保先生の言葉は、室内にいる生徒全体に向けられたもの、ではない。特定の人を名指しせず、声の圧力と鋭い眼光がそれを物語る。刃物のように鋭利な視線の先にいるのは、調理実習に全く関係のない石垣先生だ。

 社会科の先生なのだが、調理実習室の灯りがついているのを見つけると、すぐに駆けつけてくる。調理の授業は基本四時間目の昼飯前に行われるのだが、石垣先生は四時間目に自分の受け持つ授業がはいっていても、必ず昼食時間になれば生徒に混じって席に座っている。美保先生がどれだけ文句を言っても、懲りずに毎週、どこかのクラスが実習で作った昼食をモソモソと老人のようにゆっくり口に運んでいた。


「みほちゃんも、嫌なら校長に言えばいいのにな」


 食べ終わった食器を洗っていると、隣で皿を拭いていた爽太がいった。自分たちで準備した料理の片付けは、もちろん自分たちで行う。各グループには一箇所作業台が与えられていて、そこに最後、水滴少しでも残っていれば美保先生は甲高い声を上げて説教をしてくる。なので生徒は皆、最後まで気を抜けない。

 蛇口を閉めて、最後の皿を爽太に渡す。爽太は、石垣先生がいる方を見た。自分の食事を用意してくれた生徒たちの皿を、彼は丁寧な手つきで洗っている。


「なんだかんだ言って、美保先生も嬉しいのかもよ」


 布巾で手を拭きながら言えば、爽太が卑しげに口角を上げる。垂れ目の優しい印象とは裏腹に、彼は時折こういった、子供じみた悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「不倫かな?」
「美保先生新婚さんじゃん」
「だからだって。新婚ほど怪しいんだ」


 テレビの見過ぎ、と苦笑いして爽太の背を軽く叩く。大袈裟に「いってー!」と呻く彼を連れて、調理室を出た。

 去り際、美保先生にこんこんと説教される石垣先生を見る。ちょっとは遠慮してくださいよ、と言われる彼は、すいません、と後頭部を掻きながら頭を下げていたが、感情はやっぱりわからない。
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