ときどき脆いゼリー模様

みとの

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 友人がモデル業を引退するらしい。
 俺はその情報を通勤中の電車の中で知った。満員電車、座る席は当然どこにもなくて、人と人にもみくちゃにされながらSNSを眺めていた。
 隣に立つ人の肩に押し潰されて、無理矢理見ていたスマホの画面。そこに大々的に表示された写真の人物は見間違うことのない。中性的な顔立ちをした人は、高校の頃の同級生、村瀬だった。

 あ、とつい声が漏れた。車体が走る音や揺れる音。箱の中に入って会社や学校へ向かう人たちの間に、会話はほとんどない。俺の間抜けな、今日までに片付けなければいけない予定を思い出してつい声を漏らしてしまったような、そんな間抜け声は騒音の中でもよく響いた。隣の人や目の前の座席に座る人が一斉に俺の方を見る。でも俺はそれを気にすることもなく、声なんて出してませんけど? と澄まし顔を浮かべてみせた。しばらくすると視線は定位置に戻り、注目がそれたことにホッとする。

 そしてまた俺は、スマホの画面を見た。
 色白の肌に少し青みがかった瞳。地毛だと言っていたミルクティー色の髪。物憂げに目を細めてこちらを見つめる友人は、高校時代からは連想できない雰囲気を漂わせている。……いや、容姿だけみればモデルをやっていてもおかしくない美男子だったのだが、内面を知っている俺からしたら、彼がモデルをやっているなんて意外だった。


 高校三年間で一番仲の良かった友人、村瀬真緒がモデルになっていたのを、俺はこの引退報道で初めて知った。


 ***


 村瀬真緒は北欧人の母親と日本人の父親の間に生まれたハーフだった。
 スタイルが良く色白で美人と有名だった母親は土地柄か、寡黙で凛々しい目元が印象的な女性で、反対に父親は背も低く、よく冗談を言って周りを笑わせる剽軽な男性だった。

 村瀬はその両親の遺伝子を、ちゃんと引き継いだ子供だった。誰がどう見たって、不義の子だなんて言いやしない。この親にしてこの子ありだと誰もがわかる。母親からは端正な容姿、父親からは剽軽な性格を受け継ぎ、顔と性格が不釣り合いな人間、村瀬真緒という人物が出来上がっていた。

 高校一年生の初めの頃から、俺は村瀬と仲が良くなった。相手が村瀬で、俺が三浦という苗字だったのが一番の理由だろう。名前の順で席が決められたりグループ分けされたり。高校三年間の大体の行事はほぼその順で行われたし、しかも三年間クラスが離れることもなかった。選択授業も一緒で、体育の授業のときの体操相手とか、大体いつも名前の五十音順が近い村瀬だった。


 初めは後ろの席に、びっくりするくらい綺麗な人間がいることに緊張もした。机に肘ついて頬杖するだけで絵になる村瀬だし、伏せ目がちにホッと小さく息ついてるのなんか見れば、まるで有名画家が描いた絵画のようだった。

 だがいざ話し声を聞いてみると、小学生をそのまま高校生にしたような人物で拍子抜けした。先生に声をかけられれば無駄にでかい声で返事をし、クラスメイトと話をすれば品のない声で笑う。ひぃー、と引き笑いしたかと思えば唾が気管に入って咽せてえづいて、「うえっ」と吐いた真似を教室の片隅でしてるんだから、神様っていうのは残酷なんだな、と何度も思った。

 黙ってればモテるだろうに。北欧生まれの母親を持つ彼は、当然その容姿のおかげでモテモテになるはずだった。でもその美しさのかけらもない性格が玉に瑕となり、女子たちは彼とは別の人を好きになっていく。俺が知る限り、高校三年間で奴に恋人がいたことは一時期でもないはずだ。

 芸人みたいなやつだった。バラエティー番組からそのまま飛び出してきたような、声を張って笑い声を教室中に響かせる村瀬なら、ムードメーカーとなり周りの人間たちを虜にして、円滑な人間関係を築くに違いないと思っていた。

 でもお調子者村瀬は、それに関してはからっきしダメな人間だった。

 容姿と性格の乖離で、村瀬はクラスメイトから揶揄われることも少なくはなかった。周りの人間よりも手足が長く色白の、明らかに場違いな容姿もあったせいだろう。本人は日本生まれ日本育ちだし、英語どころか母親の母国語すら一つも話せない。それを面白がって茶化す輩は残念ながら、何年経ってもずっといた。

 初めて村瀬と話すきっかけになった時も、彼はその容姿のことを笑われていた。日本人顔じゃないのに日本語しか話せないなんて笑える、と。

 俺はそれを自分の席で聞いていて、後ろの席だった村瀬の周りにわざわざ連中が複数人集まっていた。入学して初めてのホームルームの時に、持ち前の明るさで「日本語しか話せませーん!」と言って大笑いを掻っ攫った、その後の出来事だった。

 俺はてっきり村瀬の性格上、何か冗談を言って相手に言い返すんだと思っていた。剽軽な芸人気質の村瀬なら、どんな調子のいいことを言い返すんだろうと、少し興味が湧いた。俺はわざわざ会話の輪には混ざらず、教科書を鞄から取り出すフリをしながらチラリと背後の様子をうかがっていた。

 そこで俺は、思わず「うわ」と眉根を寄せてしまったのだった。

 村瀬の、真っ直ぐに引き結んだ口元。眉が少し下がって、薄くだが、眉間に皺を寄せた苦しげな表情が浮かんでいる。
 苦い汁を口の中に溜めて、飲み込めずに狼狽えている顔をしているのに、村瀬を揶揄った連中はそれに気づいていなかった。

 瞬間的に、村瀬に対し出来上がっていたイメージ像は崩れた。バラエティー番組の、ひな壇芸人みたいな。大御所芸人に下品な言葉をかけられそれに素早くツッコミを入れて笑いを提供するような、手慣れた芸人。村瀬の浮かべる険しい顔を見ればそんな性格、ありえないんだとすぐにわかった。

 村瀬はきっと、嘘をつけない。理性のない、行儀が悪い小学生みたいな笑い方をする癖に、メンタルは安くてすぐ崩れるようなゼリーなんかよりも、ずっと脆い。嘘でも何か、その場を切り抜ける笑いを提供すればことは丸く収まるのに、村瀬にはその技術は備わってなくて、石造みたいにそのまま動かなくなってしまったていた。


 コイツ、傷ついてるんだ。
 そう思うより先に体が動いて、鞄の中身なんかもうどうでも良くなっていた。体ごと背後を振り返る。急に俺が自分たちの方を見たことに、連中も村瀬も驚いていたが、俺は村瀬の、薄青色の目を真っ直ぐ見つめながら真剣な調子で声を出した。


「俺も日本語しか話せねぇよ」


 至極当然のことを、一切冗談なしに言い放つ。目の前にいた村瀬はもちろん、その場にいた連中全ての顔がポカーンと呆けたものになる。しばらく無音の空間が続いたが、連中の一人が堪えきれずに噴き出して笑うと、連鎖するように他の連中も声を上げて笑い出した。村瀬だけが場違いに、何もわかっていないように目を泳がせている。

「おいおい三浦、マジで言ってんのかよお前」
「お前はどう見たって日本人だから、当たり前だろうよ」
「村瀬だって日本人じゃねぇかよ」

 俺が言い返しても、人を小馬鹿にした笑みを消すことなく連中は続けた。

「いやだって、日本人顔じゃねーじゃん」
「俺だってアメリカ生まれのハリウッドスターみたいな顔してんだろうが」

 純粋に、抑揚もつけずに淡々と言えば、連中の笑いは最高潮に達した。あっははは! と大きな笑い声は教室中に響いて、他のクラスメイトたちの耳にも不快な音として届き始めた。うるさいね、と女子たちに言われているのにも気づいていない連中の一人が、目尻に溜まった涙を拭い「お前ん家、鏡ねぇのかよ」と、堪えきれない笑いを唇の端から零しながら言う。

「どう考えたってお前は平安時代生まれの顔だって」
「俺だって“ぱリこれ”くらい歩けるって」
「“パリコレ”の発音もわかんねぇやつが無理すんなって!」


 連中はまた声を出して笑った。その間に村瀬に対する興味は薄れ、一頻り笑うと興醒めしたようにその場からいなくなる。教室には平穏な空気が戻って、もう誰も不愉快そうに顔を歪めていない。楽しそうに友人たちと談笑する音を聞きながら、依然呆け顔を浮かべる村瀬を見た。

 彼は俺が視線を向けていることに不意に気づくと、「あっ」と声を上擦らせて視線をあちこちに彷徨わせた。こんな落ち着きのない様を見せられると、普段のおちゃらけた態度は無理してるんだな、というのがよくわかる。色とりどりのゼリーがボロボロと崩れる絵が頭に浮かんで、その綺麗な残骸の中で蹲り顔を顰める村瀬の姿が安易に想像できた。傷ついてるって大声で言えばいいのに。そんな簡単なことも口にできないらしい。


「み、三浦くんならなれると思うよ、ハリウッドスター」
「うるせぇ、なるわけないだろ」


 散々視線を泳がせた挙句、耳を真っ赤にして俺に言った言葉がそれだった。

 村瀬は優しい人間なのだ。他人に傷つけられやすく、なのに他人を傷つけないように日々生きている。誰だって意図せず、日常の些細な出来事で人を傷つけていることだってあるのに、村瀬真緒は自分の言動を決して間違えることをしない。無意識に振り上げたナイフで、隣にいる人間の頬を掠めることなど、ありえないのだ。

 だから何度だって、俺は「傷ついてるって言えば良いのに」と、彼に対して思っていた。表情だけで傷ついてることを察する人なんて、世の中そんなにいない。たとえ悪意ある言動を相手から向けられても、自分のことより相手のことを思うような、そんな能天気な奴なのだ、村瀬っていうのは。


 ****


 傷ついてるって、言えばいいのになぁ。

 仕事場へ向かう満員電車の熱気に包まれながら、俺はまだスマホのニュースを見ていた。村瀬の記事を追えば追うほど、俺の頭に流れる言葉は高校生当時と何も変わらない。何の説明もなく、そのまま身を引くことで誰も傷つけず、物事が綺麗におさまると思っているのだろう。傷つくのは自分だけ。でも高校の時とは違う。学校の小さなグループから向けられる刃よりも多すぎる斬撃が、自分の白い肌を血まみれにしているというのに。

 それでも村瀬は優しいから。きっと今後も絶対、何の説明もなく、脆く崩れたゼリーの中で蹲ったまま立ち上がりもせず、芸能界から姿を眩ませていくに違いない。そんな奴なのだ。ぐちゃぐちゃに潰れたゼリーが混ざり合っても汚い色にはならない。透き通った輝かしい色を、俺はいつだって綺麗に思うし、綺麗すぎて怖くなって、不安になって、喉の奥に噛みきれないスーパーボールを詰め込まれているような苦しさに襲われてしまう。


 人気モデルの村瀬真緒は同性愛者で、同性の恋人がいたということがネットニュースの界隈を潤わせた。それが数時間前の深夜の出来事。引退宣言はその記事が載ってすぐの、翌朝だった。


 ***


 勤め先は地元の市役所だった。大学を卒業して六年、慣れなかった書類作業もようやく板についてきている。

 配属先の市民課の席へ向かうまでに、その空間の雰囲気は異様で、普段よりも人の話す声は小さく、耳に届く音はどれをとっても聞こえづらい。大体俺が出勤してきたら女性職員たちが声を上げて笑いながら、昨晩のドラマの話とかに花を咲かせているのに。今日はまるで、葬式に参列しているみたいな声色で隣人たちと話し込んでいた。

 俺は緩めていたネクタイを締め直してから、自分の席へ鞄を下ろす。中から必要な書類を取り出していたら、隣の席へ上司がちょうど出勤してきた。小柄な体型の男性職員は「よっすー!」と、中年らしからぬ挨拶を俺にする。軽く手を上げヘラヘラしているその人に、俺は「アッ!」と眉を少し吊り上げて言った。


「“村瀬さん”、なんで子供がモデルやってるって教えてくれてなかったんすか」
「あれ?! 言ってなかったっけ?!」


 俺の問いに声を上擦らせながら席につく上司。わざとらしい戯けた表情を見ると、どうやら確信犯らしい。案の定、彼はすぐに「はははっ」と軽い笑い声を出した。

 俺の直属の上司の村瀬さんは、入社当時からずっとお世話になっている。というか、それ以前から世話になっている、言うまでもなく、友人、村瀬真緒の父親だった。

 高校生の時にはよく村瀬の家に遊びに行ったし、休日の昼間なんかに家へ行けば必ず父親の村瀬さんは家にいて、よく話なんかもしてくれた。遠くへ行く予定を二人で立てれば最寄りの駅まで車を出してくれたのも、気前のいい村瀬の父親だった。

 上司と部下の関係になってから互いの間にプライベートな時間の共有はなくなっていた。
 かといって、日常の会話に一切の冗談がないことはない。奥さんとの笑い話や休日に出かけた話など、お互いに自分たちしか知らない話を休憩時間にするくらいには良好な関係を築いている。

 だから上司の村瀬さんの口から、息子の話が一つくらい出てきてもおかしくなかったのに、彼はそのことだけはあまり俺に言ってこなかった。北欧雑貨の店をやっている奥さんの話は度々出たけれど、村瀬真緒が今現在何をしているのかも、俺は何も知らなかった。


「俺てっきり、アイツはお母さんの店の手伝いしてるんだと思ってましたよ」
「でも他の人はみんな知ってたみたいじゃない? 三浦くんだけが鈍感だったんだよ」


 ほら、といって、村瀬さんは辺りのフロアを見渡した。俺は途端、今日の違和感のことを思い出す。それと同時に、こちらへ向けられる不審な視線と、明らかに小さすぎる人の声の音に気づいた。

 周りの職員たちは自分たちの作業をするふりをしながら、チラリとこちらへ視線を向けている。声を顰め耳を大きくし、俺たちが一体何を話しているのか、一つも溢すことなく聞き取ろうとしている姿勢が窺えて、俺の体がゾッと震えた。
 そしてそんなことも知らず、上司の村瀬さんに不躾に、息子の話題を振ったことを後悔する。


「……すみません、俺ほんとうに何も知らなくて……馬鹿すぎました、」
「そこまで言ってないよ!? 三浦くんは真面目だなぁ」


 あははは、と笑いながら、村瀬さんは胸ポケットからスマホを取り出す。始業まで時間があるので、彼は片手でスマホを持ち、もう片方の人差し指で画面をタッチしながら「そんなことより見てよ見てよ~」といつもの調子で、俺にスマホの画面を見せてくれる。

「真緒のネットニュース見てたらさ、『顔はいいのに勿体無い』とか言われてるんだよ~。顔が良いって、我が息子ながらつい『わかる~』って大きく頷いちゃったよね。だってお母さんにそっくりなんだよう、顔はねぇ~」

 村瀬さんが俺に見せてくれたのは、村瀬真緒の芸能界引退に対するSNSでの書き込みだった。一般人の、顔が見えない連中が好き勝手に言って悦に浸っている下品な書き込みだ。ハッシュタグを使ってわざわざ書き込まれた息子に対する斬撃を、村瀬さんは笑いながら次から次へと眺めている。指先一つでスクロールして、笑顔で、何かを言いながら、どんどんどんどんと眺めていっている。終わることのないスクロールは、延々と続いていくような気がして、俺はそれをやめさせるようにスマホの画面ごと村瀬さんの手を握り込んだ。


「村瀬さん。村瀬さんはアイツと違って、嘘が上手いんですよ」

 村瀬さんは俺の顔を見ると、声も出さずに大きく目を見開いた。
 握り込んだ手の下にある、世間の言葉。実は今朝出勤途中に俺も、眺めていた。
  終わることのないスクロール。古いものを追いかけて眺め続ければ、息する暇もなくずっと見ていられる。その間にも新しい書き込みは増えていって、それまで追いかけていると果てがなかった。

 斬撃は無限で、村瀬真緒はゼリーよりも脆い心を持っている。鋭く研いだ凶器なんて必要ない。
 村瀬真緒の剽軽な性格は父親譲りのもの。優しい彼の心もまた、父親譲りのものだった。

「……」


 俺が手を退けると、村瀬さんは力なくスマホの画面に視線を落とす。ちょうど新しい書き込みがされていて、そこには『同性愛者なんて気持ち悪い、受け入れられない』と冷たい文が記されていた。


「……こんなことで、傷つくことないのにねぇ」


 村瀬さんが小さく笑いながら言った。いつも剽軽で職場の雰囲気を良くしてくれる彼にしては小さすぎる、弱々しい声だった。

 彼の言葉に、俺は少しだけ違和感を覚える。傷つくことないのにねって。人間の生き方って、ほんとうにそれで良いんだろうか。

 ふと俺は、カラフルな世界に放り込まれた心地になった。ぐちゃぐちゃに崩れた、脆くて崩れやすい、あの安いゼリーの世界だ。

 赤、青、きいろ、緑、紫、オレンジ、その他いろいろな、透き通り涼しげな色したゼリーの残骸が、パラパラと頭上から降ってくる。両手で器を作り、目の前に掲げて見せれば、そこに鮮やかな色はたくさん積まれていく。

 何度だって思う。ぐちゃぐちゃに混ざったってこの色は、永遠に美しい。


 ***
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