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夕飯を食べ終えてテーブルの上に並ぶ食器を集めていたら、ホットプレートを持ち上げた野田さんが「どうしたん」と軽い口調で言った。
俺に向けられているものとは思わなかったので蓮見さんの方を見ると、蓮見さんも俺の方を向いている。そこで俺はようやく、野田さんの問いが俺に向けられたものだったと気づく。えっ!? と声を裏返しながら、野田さんの方を見上げた。
「すみません、俺ですか?」
「……調子悪いん?」
目を細めて訊ねられると、つい緊張から唾を飲む。野田さんがいい人だとわかっていても時々、鋭い眼光に見られればヘビに睨まれた心地になる。俺はその視線から逃れるように、静かに顔を背けた。
食べているときも正直、上の空だった。関東へ来るまではよく作っていたというお好み焼きを、野田さんはフライ返し一本で綺麗にひっくり返していた。慣れたもんだねぇ、と笑いながら自分の取り皿を、出来上がったお好み焼きの前に差し出していた蓮見さんの姿がちょっとずつ蘇ってくる。
「いや、その、美味しくて余韻に浸っていたというか……」
「……ふーん」
俺の言葉を一瞬訝しむように眉を顰めて聞いていた野田さんだったけど、すぐに素に戻ってキッチンに行ってしまう。流し台に汚れたホットプレートを静かに置いている後ろ姿を見て、力が抜けたように安堵の息をついた。
「家族のことかな?」
安心したのも束の間で、皿を持って立ちあがろうとした俺に、蓮見さんがそう言った。驚きの感情が顔に出る。目を見開く俺を見て、蓮見さんは「あはは」と乾いた声をこぼした。
「当たっちゃったや。お父さんかお母さん? どうしたの? 心配事? 病気でもしちゃったの?」
テーブルに肘をついて頬杖をする蓮見さん。普段温厚な、緩い雰囲気をまとっているだけの人なのに、いとも簡単に心を見透かされて怯んでしまう。「あ、」とか「えっと、」と吃り目を泳がせていても、蓮見さんはニンマリ笑って、俺が話し出すのを待ってくれているようだった。
俺は一度喉を鳴らしながら唾を飲むと、意を決し口を開く。
「あの、母親が、俺の学費に目をつけたらしくって……、200万貸してほしいとか、言ってきてるんですよね……」
あくまで他人事のように、又聞きした話をそのまま垂れ流すように呟いた。頬を掻きながら、小さな声で笑う。
蓮見さんは「わーお」と、落ち着いた調子で言った。でも表情には驚きの色が浮かんでいる。キッチンからは水の流れる音が聞こえてきていて、野田さんが順調に片付けを進めていた。
「貸した後に俺の学費をどこで補おうかなって悩んでて、そればっかりが気になってました……なので体調不良とかではないです」
「それって、もう貸すこと決まってるの? 返ってくるの?」
ぐさ、と太い杭が、俺の心臓に刺さる。確信を突かれ、顔が苦く歪んだ。
蓮見さんの言葉を反芻する。それでもこの現実は、絶対に覆せない。返ってこないとわかっていながらも、俺はこの200万円を手放す気でいる。ズボンのポケットにしまわれたスマホは、さっきから小さい振動を繰り返していて、相手を確認しなくても母親だとすぐにわかった。
黙り込んだ俺を見ていた蓮見さんが、大きくて丸い目をゆっくり細める。ふー、と息を吐き出すと、頬杖をしたまま小さく呟いた。
「……若い時から苦労してる子は、みーんな優しいんだねぇ」
「え?」
「でも君の場合は、きっとコレがきっかけになるよ」
聞いたことのないような、蓮見さんの低く落ち着いた声。あまりの衝撃に言葉を聞き溢してしまう。俺が改めて聞き返そうとすれば、蓮見さんは「あ、そうだ!!」といつも通りの高い声を上げて手を叩いた。
「じゃあさ? 僕がいいバイト先紹介してあげるよ!」
「え! いいんですか!」
俺はつい興奮して、手にした食器をローテーブルに置き直した。蓮見さんのそばによって正座して、真剣に彼の話を聞く。まさかこんなにも食いついてくると思っていなかったのか、言い出した本人は「おうふっ」と驚き冷や汗を流しながら苦笑いしていた。
でもすぐに表情を改め、笑顔で話してくれる。
「きっとオータくんの今の時給よりいいところだから、すぐ学費なんて稼げるよ~。夜の繁華街のバーなんだけど、深夜から朝まで働いて日給一万円くらいだったかなぁ」
思い出すように天井を見上げていた蓮見さんの隣、俺は驚異的な金額に「い!?」と声を上擦らせた。時給に換算しても、清掃やコンビニのバイトと比べると倍以上になる。この時点で俺の頭の中は、そのバイトへの興味でいっぱいになった。
ずずい、と蓮見さんに体を近づけ、爛々と輝く目で彼を見る。彼は俺の反応を知ってか、満面の笑みで話を続けた。
「場合によっちゃボーナスも出るからね。オータくんの頑張り次第じゃ、毎日それがついてくるようなところだよぉ」
「チップってやつですかね? やります、そのバイト紹介してもらっても、」
いいですか、と蓮見さんの服に縋ろうとした瞬間。
彼は突然腰を浮かせて立ち上がる。というよりは、立ち上がらされてしまう。
ギャッ、と短い悲鳴が上がった。見れば蓮見さんは、背後に立っていた野田さんに髪を鷲掴みされ立たされたようだ。
鋭い野田さんの目が、蓮見さんを射殺すように見ている。黒い目の奥、赤い感情の色を見た気がして、俺は漏れそうになった悲鳴を必死に飲み込んだ。
「帰れお前、もう二度と来んな」
「えー痛い痛いよ清貴くん! 追い出されたら寝るところないよぉ!」
髪を掴まれたまま玄関へ引きずられていく。空いた片手で扉の鍵を開けると、野田さんは蓮見さんを外へ投げ捨てて力強く閉めた。外から蓮見さんのギャーギャー言ってる声が響いてくる。
しばらく呆然と扉の向こう側へ意識を向けていた俺だったけど、野田さんが部屋に戻ってくると我に返る。ハッと息をのみ「すみません!」と慌てて立ち上がった。
「俺! 食器洗います!」
「かまん、そこ置いといて」
言って野田さんは俺の動きを制すると、テレビ台の前にしゃがみ込み、引き出しを徐に開け始めた。
無言で俺に背を向け何かを探している姿を見ていると、突然こちらも見ずに「いくらなん?」と訊ねられた。
「え?」
「学費、いくらなんって話」
てっきり野田さんには聞こえていない会話だと思っていたけど、彼の耳にも届いていたようだ。身の上話の、しかもお金の話を野田さんに聞かれていたと思うと、ちょっと恥ずかしくて、情けない気持ちになる。あはは、と乾いた声で笑って、照れを隠すように顔を俯けた。
「そ、そんなたいした額じゃないんですけど、に、にひゃくまん、くらいだったかなぁ……でもそのうちバイトでどうにかなると思うんで、」
金額の部分が小声になる。俺が話し終わる前に野田さんは立ち上がると、俺の目の前に何かを差し出した。
え? と首を傾げてその手を見る。初めは何かわからなかった。
でも徐々に状況を理解し始めていき、目がだんだんと大きく見開かれていく。
野田さんが俺に差し出したもの。
何か分厚いものが入った、茶封筒だった。
「別に返さんでもええから」
野田さんは簡単に言い放つ。
今までの流れで、差し出されたそれが、お金以外の何かだとは到底思えなかった。
背筋が凍りつくような冷たさに襲われる。
カタカタと怯えたように、握った拳が震え始めていた。
「う、うけとれないです」
俺は数歩、野田さんから離れるように後退る。野田さんは一瞬俺の答えに「は?」と不快そうに顔を歪めたが、すぐにいつも通りの表情に戻ると、言葉を紡いだ。
「貰うんが気に食わんのやったら、出世払いでええよ。急ぎで欲しい金でもないし、ちょっとずつ返してくれれば、」
「違うんです! そうじゃなくて! なんで、そんなこと、」
混乱して、言葉がスッと出てこない。喉の奥が苦しくなり、息がしづらい。
冷や汗が、こめかみを下って頬へと流れ落ちた。
わからなかった。野田さんが、こんなにも簡単に、自分のお金を赤の他人にやれるわけが。
動揺はなかなか治らない。耳の奥から、心臓がどくどくと鳴る音が聞こえる気がする。それでもどうにか一息ついて、おそるおそる野田さんの顔を見上げた。
銀縁メガネの向こうには涼しげな鋭い目と、形の整った眉。薄い唇は真っ直ぐに引き伸ばされていて、冷え切った場の状況を気にとめている様子は見受けられない。
むしろ俺がおかしいと言いたげな表情をしている。目を瞬き、茶封筒を受け取らない俺が変なんだと、野田さんはやや眉を顰めることで語ってみせた。
俺はその視線に耐えられず、顔を俯け震える声で話す。
「お、おかしいですよ、なんで俺なんかに、そこまで親切にしてくれるんですか」
「前も言ったけど、俺が好きでやってるんよ。君が苦労してるの知ってるから、」
「それだけでそんな大金! 赤の他人にあげることなんてできるんですか!?」
湧き上がる感情に任せ、少し声を荒らげた。野田さんになんのメリットもない。もし仮に野田さんがこのお金を頼りに、俺に何かして欲しいのであれば別だけれど、彼は特に何も俺に求めてはいない。
ただ単に、自分が好きなように、俺に尽くしてくれているのだと言う。
優しすぎる。初めてビルのエントランスで出会った時の、爽やかな笑顔が思い出される。好青年の印象そのままの行いを、いやそれ以上にお人好しな行いを、彼は簡単にしているのだ。
怖いと思った。
今まで彼に対して抱いていた恐怖とは、また別の恐怖。
鋭い目つきや強い口調で怒鳴られるよりも、ずっと怖い。
自身に利益を生まない行いを後先考えずしてしまえる、野田さんの心情が怖かった。
「……もし俺が、」
流れる汗も拭わず、俺は茶封筒を差し出す野田さんを見て口を開く。口の中は渇き始めている。真夏の真昼間、外へ放り出されたみたいに汗をかいているのに、野田さんの顔には一切汗どころか、表情すら浮かんでいない。涼しげな顔で立っているのが、より一層怖かった。
「もし俺が、野田さんからお金を借りて、そのままどこかへ行って、いなくなっても、野田さんは傷つかないんですか」
「……」
「いくら返していらないお金だからっていっても、そんな泥棒みたいなことされたら、気分が悪いでしょ。赤の他人の俺が、それをしないなんて証拠どこにもないじゃ、」
「ええよ」
ぴしゃりと、すぐに言われた。
驚き、黙り込み、目を見張る。目に入った野田さんの表情を見て、自身の体から全血液が抜けていく感覚に襲われた。
細められた目元と、やや下がった眉尻。
閉ざされた口からは何も言葉は紡がれない。
でも野田さんは、悲しんでいるんだとわかった。
俺が簡単に、傷つけてしまったのだと悟った。
いつかの日、野田さんを見て思ったことを思い出す。
彼だって、人間だ。
自分の好意を蔑ろにされれば、傷つくに決まっている。わかりきっていたことなのに、俺はわざわざ、野田さんに辛い言葉を言わせたのだ。
いいわけがないだろう。野田さんは好きで、そんなことを言ったんじゃない。
野田さんにそう言わせた自分の発言を心の中で叱った途端、涙腺が緩み、喉の奥が熱を帯びていく。
耐えきれなくなった俺は、野田さんに背を向け玄関へ向かい、靴も履かずに自分の部屋へ戻った。
何もわからないまま、濁流の中へ投げ出された気分だ。
濁った水にもみくちゃにされ、四肢をバラバラに引き裂かれる。母親相手には簡単に牙だって剥けたのに、野田さんを傷つけてしまったのだと思うと、泣き叫びたいほど感情が嵐のように荒れていく。
野田さんは、どうしてそこまでして俺に尽くしてくれるのだろう。大金を失ってでも俺に優しくしてくれる理由が、一向にわからない。
だから混乱する。もやもやと頭の中を回る考えに答えを見つけることができず、そのままベッドにうつ伏せに倒れて沈んだ。
じわじわと目元に涙が溜まっていく。混乱をスッキリさせたい俺の気持ちを汲み取ることなく、ポケットのスマホは母親からのメール受信を知らせるためにずっと震えている。
混乱と苛立ち、それから学費の不安が混ざり合い、胸の中に黒い靄が生まれる。早くこの気持ち悪さを吐き出したい。
そのために一つずつ解決していくしかない。俺はベッドから起き上がると、ポケットに入れたスマホを取り出そうとした。
だけどその前に、玄関が開く。鍵を閉め忘れていたせいで、来客が簡単にドアノブを捻って入り込んできたのだ。
「オータくーん、今日泊めてぇ」
間延びした、だらしない声だった。
俺は取り出したスマホをベッドの上に投げ捨て、声の主である蓮見さんの元へ駆けていく。
彼は住人の了承も得ず、すでに靴を脱いで部屋に上がり込んでいた。
玄関先で欠伸をしている彼の衣服に両手でしがみつき、長身の蓮見さんの顔を見上げる。
突然飛びつかれた蓮見さんは大きな目を見開き驚いていた。
「さっき言ってたバイトのこと、詳しく聞いてもいいですか」
俺が真剣に訊ねると、こぼれ落ちそうになっていた目が、薄く細められる。普段猫のように大きな目をしている彼だけれど、こうして細めてしまうと、狐のような雰囲気に変わるから不思議である。
「いいよいいよぉ~」
そう言いながら俺の肩を抱くと、蓮見さんは部屋の中へちゃっかり入り込んだ。
俺に向けられているものとは思わなかったので蓮見さんの方を見ると、蓮見さんも俺の方を向いている。そこで俺はようやく、野田さんの問いが俺に向けられたものだったと気づく。えっ!? と声を裏返しながら、野田さんの方を見上げた。
「すみません、俺ですか?」
「……調子悪いん?」
目を細めて訊ねられると、つい緊張から唾を飲む。野田さんがいい人だとわかっていても時々、鋭い眼光に見られればヘビに睨まれた心地になる。俺はその視線から逃れるように、静かに顔を背けた。
食べているときも正直、上の空だった。関東へ来るまではよく作っていたというお好み焼きを、野田さんはフライ返し一本で綺麗にひっくり返していた。慣れたもんだねぇ、と笑いながら自分の取り皿を、出来上がったお好み焼きの前に差し出していた蓮見さんの姿がちょっとずつ蘇ってくる。
「いや、その、美味しくて余韻に浸っていたというか……」
「……ふーん」
俺の言葉を一瞬訝しむように眉を顰めて聞いていた野田さんだったけど、すぐに素に戻ってキッチンに行ってしまう。流し台に汚れたホットプレートを静かに置いている後ろ姿を見て、力が抜けたように安堵の息をついた。
「家族のことかな?」
安心したのも束の間で、皿を持って立ちあがろうとした俺に、蓮見さんがそう言った。驚きの感情が顔に出る。目を見開く俺を見て、蓮見さんは「あはは」と乾いた声をこぼした。
「当たっちゃったや。お父さんかお母さん? どうしたの? 心配事? 病気でもしちゃったの?」
テーブルに肘をついて頬杖をする蓮見さん。普段温厚な、緩い雰囲気をまとっているだけの人なのに、いとも簡単に心を見透かされて怯んでしまう。「あ、」とか「えっと、」と吃り目を泳がせていても、蓮見さんはニンマリ笑って、俺が話し出すのを待ってくれているようだった。
俺は一度喉を鳴らしながら唾を飲むと、意を決し口を開く。
「あの、母親が、俺の学費に目をつけたらしくって……、200万貸してほしいとか、言ってきてるんですよね……」
あくまで他人事のように、又聞きした話をそのまま垂れ流すように呟いた。頬を掻きながら、小さな声で笑う。
蓮見さんは「わーお」と、落ち着いた調子で言った。でも表情には驚きの色が浮かんでいる。キッチンからは水の流れる音が聞こえてきていて、野田さんが順調に片付けを進めていた。
「貸した後に俺の学費をどこで補おうかなって悩んでて、そればっかりが気になってました……なので体調不良とかではないです」
「それって、もう貸すこと決まってるの? 返ってくるの?」
ぐさ、と太い杭が、俺の心臓に刺さる。確信を突かれ、顔が苦く歪んだ。
蓮見さんの言葉を反芻する。それでもこの現実は、絶対に覆せない。返ってこないとわかっていながらも、俺はこの200万円を手放す気でいる。ズボンのポケットにしまわれたスマホは、さっきから小さい振動を繰り返していて、相手を確認しなくても母親だとすぐにわかった。
黙り込んだ俺を見ていた蓮見さんが、大きくて丸い目をゆっくり細める。ふー、と息を吐き出すと、頬杖をしたまま小さく呟いた。
「……若い時から苦労してる子は、みーんな優しいんだねぇ」
「え?」
「でも君の場合は、きっとコレがきっかけになるよ」
聞いたことのないような、蓮見さんの低く落ち着いた声。あまりの衝撃に言葉を聞き溢してしまう。俺が改めて聞き返そうとすれば、蓮見さんは「あ、そうだ!!」といつも通りの高い声を上げて手を叩いた。
「じゃあさ? 僕がいいバイト先紹介してあげるよ!」
「え! いいんですか!」
俺はつい興奮して、手にした食器をローテーブルに置き直した。蓮見さんのそばによって正座して、真剣に彼の話を聞く。まさかこんなにも食いついてくると思っていなかったのか、言い出した本人は「おうふっ」と驚き冷や汗を流しながら苦笑いしていた。
でもすぐに表情を改め、笑顔で話してくれる。
「きっとオータくんの今の時給よりいいところだから、すぐ学費なんて稼げるよ~。夜の繁華街のバーなんだけど、深夜から朝まで働いて日給一万円くらいだったかなぁ」
思い出すように天井を見上げていた蓮見さんの隣、俺は驚異的な金額に「い!?」と声を上擦らせた。時給に換算しても、清掃やコンビニのバイトと比べると倍以上になる。この時点で俺の頭の中は、そのバイトへの興味でいっぱいになった。
ずずい、と蓮見さんに体を近づけ、爛々と輝く目で彼を見る。彼は俺の反応を知ってか、満面の笑みで話を続けた。
「場合によっちゃボーナスも出るからね。オータくんの頑張り次第じゃ、毎日それがついてくるようなところだよぉ」
「チップってやつですかね? やります、そのバイト紹介してもらっても、」
いいですか、と蓮見さんの服に縋ろうとした瞬間。
彼は突然腰を浮かせて立ち上がる。というよりは、立ち上がらされてしまう。
ギャッ、と短い悲鳴が上がった。見れば蓮見さんは、背後に立っていた野田さんに髪を鷲掴みされ立たされたようだ。
鋭い野田さんの目が、蓮見さんを射殺すように見ている。黒い目の奥、赤い感情の色を見た気がして、俺は漏れそうになった悲鳴を必死に飲み込んだ。
「帰れお前、もう二度と来んな」
「えー痛い痛いよ清貴くん! 追い出されたら寝るところないよぉ!」
髪を掴まれたまま玄関へ引きずられていく。空いた片手で扉の鍵を開けると、野田さんは蓮見さんを外へ投げ捨てて力強く閉めた。外から蓮見さんのギャーギャー言ってる声が響いてくる。
しばらく呆然と扉の向こう側へ意識を向けていた俺だったけど、野田さんが部屋に戻ってくると我に返る。ハッと息をのみ「すみません!」と慌てて立ち上がった。
「俺! 食器洗います!」
「かまん、そこ置いといて」
言って野田さんは俺の動きを制すると、テレビ台の前にしゃがみ込み、引き出しを徐に開け始めた。
無言で俺に背を向け何かを探している姿を見ていると、突然こちらも見ずに「いくらなん?」と訊ねられた。
「え?」
「学費、いくらなんって話」
てっきり野田さんには聞こえていない会話だと思っていたけど、彼の耳にも届いていたようだ。身の上話の、しかもお金の話を野田さんに聞かれていたと思うと、ちょっと恥ずかしくて、情けない気持ちになる。あはは、と乾いた声で笑って、照れを隠すように顔を俯けた。
「そ、そんなたいした額じゃないんですけど、に、にひゃくまん、くらいだったかなぁ……でもそのうちバイトでどうにかなると思うんで、」
金額の部分が小声になる。俺が話し終わる前に野田さんは立ち上がると、俺の目の前に何かを差し出した。
え? と首を傾げてその手を見る。初めは何かわからなかった。
でも徐々に状況を理解し始めていき、目がだんだんと大きく見開かれていく。
野田さんが俺に差し出したもの。
何か分厚いものが入った、茶封筒だった。
「別に返さんでもええから」
野田さんは簡単に言い放つ。
今までの流れで、差し出されたそれが、お金以外の何かだとは到底思えなかった。
背筋が凍りつくような冷たさに襲われる。
カタカタと怯えたように、握った拳が震え始めていた。
「う、うけとれないです」
俺は数歩、野田さんから離れるように後退る。野田さんは一瞬俺の答えに「は?」と不快そうに顔を歪めたが、すぐにいつも通りの表情に戻ると、言葉を紡いだ。
「貰うんが気に食わんのやったら、出世払いでええよ。急ぎで欲しい金でもないし、ちょっとずつ返してくれれば、」
「違うんです! そうじゃなくて! なんで、そんなこと、」
混乱して、言葉がスッと出てこない。喉の奥が苦しくなり、息がしづらい。
冷や汗が、こめかみを下って頬へと流れ落ちた。
わからなかった。野田さんが、こんなにも簡単に、自分のお金を赤の他人にやれるわけが。
動揺はなかなか治らない。耳の奥から、心臓がどくどくと鳴る音が聞こえる気がする。それでもどうにか一息ついて、おそるおそる野田さんの顔を見上げた。
銀縁メガネの向こうには涼しげな鋭い目と、形の整った眉。薄い唇は真っ直ぐに引き伸ばされていて、冷え切った場の状況を気にとめている様子は見受けられない。
むしろ俺がおかしいと言いたげな表情をしている。目を瞬き、茶封筒を受け取らない俺が変なんだと、野田さんはやや眉を顰めることで語ってみせた。
俺はその視線に耐えられず、顔を俯け震える声で話す。
「お、おかしいですよ、なんで俺なんかに、そこまで親切にしてくれるんですか」
「前も言ったけど、俺が好きでやってるんよ。君が苦労してるの知ってるから、」
「それだけでそんな大金! 赤の他人にあげることなんてできるんですか!?」
湧き上がる感情に任せ、少し声を荒らげた。野田さんになんのメリットもない。もし仮に野田さんがこのお金を頼りに、俺に何かして欲しいのであれば別だけれど、彼は特に何も俺に求めてはいない。
ただ単に、自分が好きなように、俺に尽くしてくれているのだと言う。
優しすぎる。初めてビルのエントランスで出会った時の、爽やかな笑顔が思い出される。好青年の印象そのままの行いを、いやそれ以上にお人好しな行いを、彼は簡単にしているのだ。
怖いと思った。
今まで彼に対して抱いていた恐怖とは、また別の恐怖。
鋭い目つきや強い口調で怒鳴られるよりも、ずっと怖い。
自身に利益を生まない行いを後先考えずしてしまえる、野田さんの心情が怖かった。
「……もし俺が、」
流れる汗も拭わず、俺は茶封筒を差し出す野田さんを見て口を開く。口の中は渇き始めている。真夏の真昼間、外へ放り出されたみたいに汗をかいているのに、野田さんの顔には一切汗どころか、表情すら浮かんでいない。涼しげな顔で立っているのが、より一層怖かった。
「もし俺が、野田さんからお金を借りて、そのままどこかへ行って、いなくなっても、野田さんは傷つかないんですか」
「……」
「いくら返していらないお金だからっていっても、そんな泥棒みたいなことされたら、気分が悪いでしょ。赤の他人の俺が、それをしないなんて証拠どこにもないじゃ、」
「ええよ」
ぴしゃりと、すぐに言われた。
驚き、黙り込み、目を見張る。目に入った野田さんの表情を見て、自身の体から全血液が抜けていく感覚に襲われた。
細められた目元と、やや下がった眉尻。
閉ざされた口からは何も言葉は紡がれない。
でも野田さんは、悲しんでいるんだとわかった。
俺が簡単に、傷つけてしまったのだと悟った。
いつかの日、野田さんを見て思ったことを思い出す。
彼だって、人間だ。
自分の好意を蔑ろにされれば、傷つくに決まっている。わかりきっていたことなのに、俺はわざわざ、野田さんに辛い言葉を言わせたのだ。
いいわけがないだろう。野田さんは好きで、そんなことを言ったんじゃない。
野田さんにそう言わせた自分の発言を心の中で叱った途端、涙腺が緩み、喉の奥が熱を帯びていく。
耐えきれなくなった俺は、野田さんに背を向け玄関へ向かい、靴も履かずに自分の部屋へ戻った。
何もわからないまま、濁流の中へ投げ出された気分だ。
濁った水にもみくちゃにされ、四肢をバラバラに引き裂かれる。母親相手には簡単に牙だって剥けたのに、野田さんを傷つけてしまったのだと思うと、泣き叫びたいほど感情が嵐のように荒れていく。
野田さんは、どうしてそこまでして俺に尽くしてくれるのだろう。大金を失ってでも俺に優しくしてくれる理由が、一向にわからない。
だから混乱する。もやもやと頭の中を回る考えに答えを見つけることができず、そのままベッドにうつ伏せに倒れて沈んだ。
じわじわと目元に涙が溜まっていく。混乱をスッキリさせたい俺の気持ちを汲み取ることなく、ポケットのスマホは母親からのメール受信を知らせるためにずっと震えている。
混乱と苛立ち、それから学費の不安が混ざり合い、胸の中に黒い靄が生まれる。早くこの気持ち悪さを吐き出したい。
そのために一つずつ解決していくしかない。俺はベッドから起き上がると、ポケットに入れたスマホを取り出そうとした。
だけどその前に、玄関が開く。鍵を閉め忘れていたせいで、来客が簡単にドアノブを捻って入り込んできたのだ。
「オータくーん、今日泊めてぇ」
間延びした、だらしない声だった。
俺は取り出したスマホをベッドの上に投げ捨て、声の主である蓮見さんの元へ駆けていく。
彼は住人の了承も得ず、すでに靴を脱いで部屋に上がり込んでいた。
玄関先で欠伸をしている彼の衣服に両手でしがみつき、長身の蓮見さんの顔を見上げる。
突然飛びつかれた蓮見さんは大きな目を見開き驚いていた。
「さっき言ってたバイトのこと、詳しく聞いてもいいですか」
俺が真剣に訊ねると、こぼれ落ちそうになっていた目が、薄く細められる。普段猫のように大きな目をしている彼だけれど、こうして細めてしまうと、狐のような雰囲気に変わるから不思議である。
「いいよいいよぉ~」
そう言いながら俺の肩を抱くと、蓮見さんは部屋の中へちゃっかり入り込んだ。
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ツンデレなオメガと、理性を装うアルファ。
これは、仮のはずだった番契約から始まる、運命以上の恋の物語。
サラリーマン二人、酔いどれ同伴
風
BL
久しぶりの飲み会!
楽しむ佐万里(さまり)は後輩の迅蛇(じんだ)と翌朝ベッドの上で出会う。
「……え、やった?」
「やりましたね」
「あれ、俺は受け?攻め?」
「受けでしたね」
絶望する佐万里!
しかし今週末も仕事終わりには飲み会だ!
こうして佐万里は同じ過ちを繰り返すのだった……。
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学で逃げ出して後悔したのに、大人になって再会するなんて!?
灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。
オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。
ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー
獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
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