内気な僕は悪役令息に恋をする

asagi

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156.一つの決断

 ノアに見捨てられた形になり、サミュエルに真っ向から怒気を向けられたマーティンは、顔面蒼白な状態だった。何か言おうと口を動かしているものの、零れ落ちるのは震えた息だけ。

 部屋全体に重苦しい圧が掛かっているように感じるほどで、ノアは流石に少し諫めようと、サミュエルの袖を軽く引く。

「ノア?」

 ノアを振り向くサミュエルの表情は、いつもと変わらない穏やかさを保っているように見える。でも、その目には怒りが滲んでいるようだった。

 それが誰に向けられた感情か分かりきっているから、ノアは傷つくことはない。ただ、少し申し訳なく感じるのだ。自分がトラウマなんかに振り回されていなければ、サミュエルがこれほどまでに感情を揺さぶられることはなかったのではないかという思いが消えない。

 常日頃、あまり怒りを抱かないノアだって、その感情がないわけではない。だから、怒るような状況の時、怒りと共に苦しみがあることを理解している。
 今、サミュエルが苦しむのは、ノアのせいでもあるのだ。

「……サミュエル様。僕は大丈夫です。僕を知らない誰かに何を言われようと、傷つくことはありません。ですから、サミュエル様が苦しむ必要はないのです」

 ゆったりと語り掛ける。ノアの心がそのままサミュエルに伝わるように願って。

 静かに耳を傾けていたサミュエルは、一度強く目を閉じる。再び目を開いた時には、怒りはだいぶ薄まっているように見えた。少なくともサミュエル自身を苦しめるほどの怒りではなさそうだ。

 その様子を確認して、ノアが安堵と共に頬を緩めると、サミュエルの手がノアに伸びてきた。愛しげにノアの頬を撫でたかと思うと、グッと胸元に抱き込まれる。

「……ノア。私は彼への怒りを忘れたわけではないよ。ノアが私を想うから、今は抑えているだけだ」

 ノアだけに聞こえるように耳元で囁かれる。ノアは小さく頷き返した。

「ええ。それでいいのです。……僕も、怒っていないわけではありませんよ?」
「……ふっ、そうか。それなら良かった。アレを許せと言われたら、さすがに私も無理だと言うところだったよ。ノアが怒ってくれていて、本当に良かった」

 アレ、と呼んだのは確実にマーティンのことである。そして、サミュエルの声に滲むほの暗い響きも、ノアは気づいていた。
 それでも、サミュエルがこれから為すだろうことを否定する気はない。サミュエルの怒りをノアは許容するし、同調するのだ。つまり、サミュエルが何を為そうと、ノアは共犯者であり、理解者である。

「……あー……。そこの二人。いちゃつくのは、状況を選んでくれるか?」

 ノアとサミュエルの密談を止めたのはルーカスだ。何かを話していることも、その話がルーカスの望むものではないことも、察しているような表情だった。それでも、茶化したように注意するだけで、サミュエルの行動を妨げるような意思は一切見せない。

「――まったく、俺の側近はおっかないなぁ……」

 呆れたように呟きながらも、ルーカスは「仕方ないやつだ」と言いたげに、諦めと親しみが籠った表情を浮かべている。
 サミュエルはルーカスに笑みを向け、「申し訳ありません」と心にもない謝罪を返すだけだ。

 ルーカスはノアとサミュエルが離れるのを見届けると、マーティンに視線を移す。

「マーティン殿下。今後の言動には重々注意してもらいたい。あなたは俺たちを侮っておられるようだが、俺たちはあなたのこれまでの言動を許容してはいないし、決して怒りを忘れたわけではないのだから。……あなたが崖っぷちに立たされている状況にあることを理解してもらわなければ、落ち着いて話を進められない」

 ルーカスの言葉は真摯な響きをまとっていた。でも、ノアはその言葉の裏で、ルーカスが静かにマーティンを切り捨てる意思を固めたことを悟った。

 マーティンに怒りを見せたサミュエルを諫めることなく、マーティンに謝罪する言葉もない。サミュエルの怒りは、ルーカスの怒りでもあると明言したようなものだった。

 王族は容易く謝罪することがない。同時に他者への負の感情を見せることもそうそうない。自身の感情が周囲に及ぼす影響の大きさを認識しているからだ。

 ルーカスはそのような王族の在り方を理解し、これまでしっかりと全うしてきた。それにも関わらず、怒りを明言したということは、既にマーティンを許す余地がなく、徹底的に相手をする意思を固めたことを示している。

(……国際問題になるのは避けられないな)

 ノアは今この瞬間に、世界を揺るがしかねない決定が下されたことを悟る。でも、動揺はしていない。これは初めから決まっていた事態であるのだと、穏やかな心のまま受け入れていた。

「……ぁ、あぁ……、分かった……すまない……」

 マーティンがここで初めて謝った。サミュエルの怒りが薄れたことを感じても、顔が青い状態にはさほど変化はなかった。でも、謝らなければならない状況であると、ようやく悟ったのだ。

(どう考えても、「もう遅い」としか言えないんだよなぁ……)

 ノアは憐れみさえ感じながら、マーティンを見つめてため息をつく。そろそろロウが淹れてくれたお茶で一息つきたい気分だった。

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