天翔ける獣の願いごと

asagi

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Ⅳ.風雲に滲む気配

38.悠里が山に来た理由

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 暫く悠里をすすり泣く声だけが響いた。狼泉は悠里が事実を受け入れられるまで、抱きしめながらじっと待ってくれる。
 動揺がおさまってきたところで、悠里は胸を苛む疑問を、ポツリと口にした。

「……藍じい様たちが、じいちゃんを探していたから、僕はこの世界に来たのかな」
「それは、どうだろう」

 予想に反した返答に、悠里は目を瞬かせた。狼泉が悠里の頬を指先で拭いながら、言葉を続ける。

「――天藍たちも、その可能性を危惧していたようだが、実際のところの因果関係は明らかではない。異界渡りが起きる原因は、古龍が言っていたように、分かっていないからだ。だが、悠里がこの世界に渡ってきたときに、この山に現れたのは、ほぼ確実に、天藍たちの引き寄せの術によるものだろうと、そこに書かれていた」

 そこ、と言いながら、狼泉が天藍の日記を指先で軽く叩く。
 悠里は言われたことを反芻して、理解したところでホッと息をついた。最悪の予想が覆されて、身体中から力が抜けるような安堵感を覚える。

「……じゃあ、藍じい様たちのせいで、僕がこの世界に来たわけじゃない可能性が高いんだ」
「ああ。天藍たちが行っていた引き寄せの術は、天瑶の魂を手繰り寄せるものだったが、その効果範囲はあくまでもこの世界だけだった。おそらく、天瑶の血縁であることで、渡ってきた悠里がこの山に引き寄せられたんだと思う」
「それなら、むしろ、僕は藍じい様たちに感謝しないと」

 ふとその事実に気づいて、悠里は口元を綻ばせた。きょとんとした顔をする狼泉を見つめ、目を細める。

「――だって、藍じい様たちがその術を使っていなかったら、僕は危ないところに放り出されていたかもしれないってことでしょう? 山の中に一人でいた時は、死ぬかもしれないって怖かったけど、藍じい様たちに会えて、保護してもらえて、僕はそれからずっと、不自由なく暮らしてこれた」
「……そうかも、しれないな。悠里がそう思ってくれたなら、天藍たちも安堵するだろう」

 狼泉が目を伏せる。その言葉にどこか聞き覚えがあって、悠里は首を傾げた。

(……あ! 古龍が、言ってたはず。天琥たちが魂を引き寄せる縁を得られたことを、僕が喜んだ時……。つもり、あの古龍も、藍じい様たちが僕に感じていた引け目のことを知っていたんだ……)

 点と点が繋がっていく。明かされた事実に、悠里は胸を撫で下ろした。感謝している相手を、恨むような事実はなかったのだと分かって、心の底から安堵する。

 少し心に余裕ができて、悠里は天藍の日記を眺めてみた。そこで少し疑問が思い浮かぶ。この日記は、昨日狼泉が悠里の目から隠したものだと思う。変な嘘までついて――。


「……ねぇ。狼泉は、どうして昨日、これを隠す時に……しゅ、春画、なんて、嘘を言ったの?」

 言葉の途中で口籠ってしまったのは、やはり狼泉に言うには恥ずかしすぎる単語だったからだ。
 悠里が頬を染めて俯くと、狼泉がそっと視線を逸らした。

「あれは、その、咄嗟に……」
「咄嗟に出てくるくらい、狼泉にとっては、馴染みのある言葉だったんだね……?」

 じとりと見据えると、狼泉の目が泳ぐ。

「いや、違う! ただ、男が集うと、だいたいそういう話になるものだろう? 俺は、兵たちに混ざって鍛錬していることも多かったから……」

 動揺の表れた声で言い訳されたところで、なんのフォローにもなっていないと思う。
 悠里は呆れつつ、フッとため息をついた。こうして気にして問いただしてしまうのもおかしな話なのだ。悠里は狼泉の友人、あるいは同居人という立場だし、狼泉の趣味に口うるさく何かを言う権利を持っていない。

「……まぁ、狼泉のこれまでの生活がどうだったかなんて、僕がどうこう言えることじゃないけど」

 不満が表れるように声が冷たくなってしまった。でも、狼泉の不用意な言葉で随分と動揺させられたのだから、これくらいは許されていいはずだ。

「悠里……」

 情ない声と表情で、狼泉が縋るように悠里を見つめる。その視線に微笑み返して、悠里は話題を打ち切った。これ以上この件について話したところで、得られるものは何もない。

「それより! ……狼泉の話は、終わってないよね? 狼泉が僕に謝ってきた理由、まだ分かってないもん」

 悠里が気を取り直して尋ねると、狼泉の顔からサッと血の気が引いていき、怯えるように強ばった。
 その変化に、悠里も追及をやめてしまいたくなるが、グッとこらえる。もう嘘や隠しごとに振り回されるのは嫌だった。たとえそこに心を痛める真実があろうと、それを受け止める方が良い。

「……あぁ、そうだな」

 狼泉が、きつく目を瞑る。耐え難い現実から逃れるような表情だ。しかし、そんな様子を見せたのはほんの数舜ほどで、再び目を開けた時には、決意を秘めた瞳が悠里を貫く。

「――俺がこれから話すのは、その日記に書かれていることに、俺が知ることを合わせた推測にすぎない。それは悠里を苦しめる真実かもしれない。……それでも、聞いてくれるか」

 苦しそうな声音だった。どうか拒んでくれと言うような、一方で、どうか受け入れてくれと懇願するような、複雑な感情が伝わってくる。
 悠里はその思いを受け止めて、唾を飲み、ゆっくりと頷いた。

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