85 / 244
第2作 アオハル・イン・チェインズ 桜の朽木に虫の這うこと(二)
第3話 氷潟夕真と刀子朱利
しおりを挟む
ウツロが最後の一音を弾いて、その余韻が消え去ったあと、少しの間を置き、音楽室の中に拍手がわきおこった。
時刻はちょうど、始業ベルの三十分前。
ピアノの前に立ち、奏者が深く礼をしたのを合図に、取り巻きたちはドヤドヤと会場をあとにした。
「いやー、佐伯くん。君は日に日に進化を遂げているよね。しかしフランスものもいいけど、たまにはバルトークにも挑戦してほしいな」
音楽教師の古河登志彦が、中年太りの腹をたぷたぷ揺らしながら、ウツロのほうへ近づいてきた。
「それは単に、先生の趣味なのでは」
彼の回答に残っていた者たちは、口を押さえてクスクスと笑った。
「――っ!」
群集の中に鋭い殺気を感じ取り、ウツロはそちらへ視線を送った。
音楽室の出入口、その右側。
開かれたドアの高さにおよぶかというほどの背丈、ブレザーからのぞくワイシャツの張り具合から、たくましい肉づきがうかがえる。
なにより目立つのは、崩し気味に整髪された金髪で、そのところどころに黒いメッシュを入れてある。
氷潟夕真――
佐伯悠亮、すなわちウツロとは同じクラスではあるが、まだ一度たりとも会話したことはない。
そもそも彼が誰かと会話をしているのを、ウツロは見たことがない。
一匹狼――
そんな印象を、ウツロは彼に対して持っていた。
氷潟夕真は腕を組んだ体勢でナイフのような眼差しを、ウツロへ向けジッと送っている。
その抉るような威圧感に、ウツロは自分と同じく、通常なら経験しえない修羅場をくぐってきた者だけが体得できる、強力な闘気を確認した。
すきさえあれば、お前を殺す――
そう語りかけているようにも感じた。
「佐伯!」
真田龍子の声が耳に入り、ウツロはハッとわれに返った。
もう一度もとの場所を見ると、氷潟夕真の姿はどこにもなかった。
「……」
ウツロは彼の存在に、何か得体の知れない、不安な気持ちを覚えた。
「おーい!」
「わっ」
ウツロがもう一度われに返ると、真田龍子が目の前に立って、仏頂面を作っている。
「なーにボケッとしてたの? ほら、授業に遅れるよ?」
「あ、うん、真田……」
「もう」
素性を偽っている関係で、ここでは『ウツロ』と呼ぶことはできない。
真田龍子はそのことに――愛する者を本名で呼ぶことができないことに、耐えがたいもどかしさを感じていた。
ウツロはウツロで、「自分は『ウツロ』であって、『佐伯悠亮』ではないのに」というつらさに、ずっと向きあっていた。
それぞれの想いを胸に抱きながら、二人はしばし、見つめ合った。
「佐伯くんって――」
「――?」
「真田さんの彼氏、で、いいんだよね?」
「刀子さん……」
クラスメイト・刀子朱利の横槍に、二人は水を差された。
彼女は手を後ろに組み、赤毛のロングヘアーを揺らしながら、ウツロと真田龍子の顔を、かわるがわるのぞきこんだ。
「朱利! なんだよ、その引っかかった言い方! お前には関係ないだろ!?」
「いいじゃん瑞希。それに、関係はあるんだよ?」
「はあ?」
態度にイラついた長谷川瑞希が、腰に手を当てながら叫んだが、赤毛の少女は含みを持たせた言い回しで、それをはぐらかした。
「――っ!?」
ウツロはいきなり、刀子朱利に手首を掴まれ、前方に引き寄せられた。
目の前には彼女の不敵にほほえむ顔がある。
「わたしも佐伯くんが、好き」
刀子朱利はウツロの唇を奪った。
(『第4話 ウツロにまつわる略奪宣言』へ続く)
時刻はちょうど、始業ベルの三十分前。
ピアノの前に立ち、奏者が深く礼をしたのを合図に、取り巻きたちはドヤドヤと会場をあとにした。
「いやー、佐伯くん。君は日に日に進化を遂げているよね。しかしフランスものもいいけど、たまにはバルトークにも挑戦してほしいな」
音楽教師の古河登志彦が、中年太りの腹をたぷたぷ揺らしながら、ウツロのほうへ近づいてきた。
「それは単に、先生の趣味なのでは」
彼の回答に残っていた者たちは、口を押さえてクスクスと笑った。
「――っ!」
群集の中に鋭い殺気を感じ取り、ウツロはそちらへ視線を送った。
音楽室の出入口、その右側。
開かれたドアの高さにおよぶかというほどの背丈、ブレザーからのぞくワイシャツの張り具合から、たくましい肉づきがうかがえる。
なにより目立つのは、崩し気味に整髪された金髪で、そのところどころに黒いメッシュを入れてある。
氷潟夕真――
佐伯悠亮、すなわちウツロとは同じクラスではあるが、まだ一度たりとも会話したことはない。
そもそも彼が誰かと会話をしているのを、ウツロは見たことがない。
一匹狼――
そんな印象を、ウツロは彼に対して持っていた。
氷潟夕真は腕を組んだ体勢でナイフのような眼差しを、ウツロへ向けジッと送っている。
その抉るような威圧感に、ウツロは自分と同じく、通常なら経験しえない修羅場をくぐってきた者だけが体得できる、強力な闘気を確認した。
すきさえあれば、お前を殺す――
そう語りかけているようにも感じた。
「佐伯!」
真田龍子の声が耳に入り、ウツロはハッとわれに返った。
もう一度もとの場所を見ると、氷潟夕真の姿はどこにもなかった。
「……」
ウツロは彼の存在に、何か得体の知れない、不安な気持ちを覚えた。
「おーい!」
「わっ」
ウツロがもう一度われに返ると、真田龍子が目の前に立って、仏頂面を作っている。
「なーにボケッとしてたの? ほら、授業に遅れるよ?」
「あ、うん、真田……」
「もう」
素性を偽っている関係で、ここでは『ウツロ』と呼ぶことはできない。
真田龍子はそのことに――愛する者を本名で呼ぶことができないことに、耐えがたいもどかしさを感じていた。
ウツロはウツロで、「自分は『ウツロ』であって、『佐伯悠亮』ではないのに」というつらさに、ずっと向きあっていた。
それぞれの想いを胸に抱きながら、二人はしばし、見つめ合った。
「佐伯くんって――」
「――?」
「真田さんの彼氏、で、いいんだよね?」
「刀子さん……」
クラスメイト・刀子朱利の横槍に、二人は水を差された。
彼女は手を後ろに組み、赤毛のロングヘアーを揺らしながら、ウツロと真田龍子の顔を、かわるがわるのぞきこんだ。
「朱利! なんだよ、その引っかかった言い方! お前には関係ないだろ!?」
「いいじゃん瑞希。それに、関係はあるんだよ?」
「はあ?」
態度にイラついた長谷川瑞希が、腰に手を当てながら叫んだが、赤毛の少女は含みを持たせた言い回しで、それをはぐらかした。
「――っ!?」
ウツロはいきなり、刀子朱利に手首を掴まれ、前方に引き寄せられた。
目の前には彼女の不敵にほほえむ顔がある。
「わたしも佐伯くんが、好き」
刀子朱利はウツロの唇を奪った。
(『第4話 ウツロにまつわる略奪宣言』へ続く)
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる