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雪妖精 Snow elf
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雪深いノールの地。
厳しい冬のさなかに訪れたひとりの旅人の姿に村人たちは驚愕した。
雪国育ちの屈強なノールの男たちでさえ10歩も進むことが困難な雪嵐のなか、こんなにもやわななりをした若者がよくもまあ来られたものだと。
当初はいぶかしんだよそ者の到来だが、吟遊詩人だという若者を村人たちは歓迎した。
なにせ雪に閉ざされた冬の間は外界からは孤立し、春まで狭い村の中で冬眠をする獣さながらにじっととじ込まなければならないからだ。
蓄えは充分にあった。春や夏の間に狩った獣肉や秋に実った作物がある。体を温める火酒や喉を潤す蜂蜜酒や麦酒もある。
無いのは娯楽だけ。
村に一軒しか無い酒場に村中の者が集まり、いつもの連中といつもの軽口、女房がどうしただの亭主がどうしただの言い合う。
生まれてから幾度も経験してきた単調で退屈な冬の時間。
うんざりする灰色の季節は吟遊詩人の奏でる音楽によって極彩色の彩りを見せた。
彼の吹くフルートの音色は待ちわびた春の陽気のごとく軽快で、彼の叩く太鼓の鼓動は真夏のように激しく熱く、彼の奏でるリュートは秋の優しげな木漏れ日のように穏やかな気持ちにさせた。
楽の音のみならずその口から漏れる声は音吐朗々たるもので、語られる物語は多種多様。
男性向けの血沸き胸踊る英雄叙事詩や冒険譚から婦人好みの恋愛物語、子どもたちが目を輝かせる神秘的なおとぎ話など。村人たちは彼の音楽と物語に熱狂し、心酔して楽しい冬を過ごす事ができた。
春の訪れを前に村を立とうとする吟遊詩人を村人総出で引き止めたのだが、彼の決意は硬かった。
「私は雪に覆われたノールの地が好きなのです。この地で見たこと聞いたことを歌にして次なる土地で語り継ぎたい」
「こんな雪と氷しかない土地で何を見聞きしたってんだい。白と黒、灰色しか無い退屈でつまらない場所さ」
「ですが物語がある」
「物語だって? あんたが聞かせてくれた物語以上の物語なんてこの地には存在しないよ」
「そんな事はありません、私は知っています。ノールの地に伝わる美しくも悲しい物語を――」
吟遊詩人の口から最後の物語が語られる。
ノールの地のある村にブライアンとエイドリク、二人の狩人がいた。
狩人というが時には木こりになり、時には農夫に、商人にも、生きるためにあらゆる仕事をした。
ブライアンは老人であったが、エイドリクは青年と呼ぶにもまだ若い少年であった。
秋の実りが乏しく、冬の蓄えが乏しかった年のこと。彼らは村から離れた森に狩りに出かけた。
ノールの地にはたとえ冬であっても無害な草食動物から獰猛な肉食動物まで数多の獣が生息しており、
狩猟で得られる肉や毛皮は食材や装備品になるほか、体の一部が錬金術の素材として魔術師に高値で売れる魔獣や幻獣もいた。
その年の冬は危険をおかしてでも森へ行く必要があった。
「ギエルの髭にかけて! 動物たちはどこに消えた!?」
ブライアンとエイドリクは何日も獲物を求めて森の中を歩いたが、栗鼠の子一匹見つけられなかった。
さらにその日は大吹雪に遇い、早々に拠点にしている丸太小屋までの退避を余儀なくされる。
ふいに吹雪がおさまり視界が開けた瞬間、ブライアンが押し殺した声をあげた。
「ギエルの骨にかけて! 声を出さずにあれを見ろエイドリク」
エイドリクは首だけ横に出してブライアンの背中から彼が指差す方向を確かめた。
遥か彼方に風下に頭を向けて立つ四足の巨体が見える。
「白い、鹿……」
エイドリクの声はうわずっていた。数百歩ほどの距離があるため細部ははっきりせず、色彩も周囲の雪景色にまぎれてぼやけているが、見慣れた四足獣のシルエットと大きな角が鹿であることを証明していた。
ブライアンは指を舐めて天にかざす。
「風はちょうど真横だ。ここからなら嗅がれず、見られずに近づける。弓が届く距離まで近づいてわしが射よう。一撃では無理だろうが足に当てられれば、追いつめる事ができるはずだ」
ブライアンは狩りで使う短弓を構えると白鹿に近づき始めた。つられてエイドリクも後に続く。
足を止めて無言で矢をつがえるブライアン、エイドリクもまた遠くにいる鹿を逃すものかと前方を凝視しつつ同じ動作をする。が、その手が止まる。
白い鹿の目を、蒼氷色の神秘的な瞳を見たからだ。
今にも矢を放ちそうなブライアンの手をエイドリクが強くつかむ。
「なんの真似だ! 離せ!」
「ダメだブライアン、白い鹿は雪妖精の、スノーエルフの化身とも伴侶とも言われる神聖な獣だ。殺してはいけない」
「ギエルの骨にかけて、おまえのような若者がそんな迷信を信じているのか!?」
押し問答の末、エイドリクを強引に押しのけて矢を射ようとしたが争いの気配を感じたのか白い鹿は身を翻して森の奥へと駆けて姿を消した。
「ギエルの髭にかけて、千載一遇の好機が台無しだ! あの鹿一頭で村のみんなひもじい思いをしなくてすんだのに!」
「あの鹿を殺したらきっと祟りがある、これで良かったんだ」
「大バカ者め……」
ふたたび激しい風と雪が強く降り出し、険悪な空気のまま2人は丸太小屋へと戻る。
激しい風と雪が戸にあたる音が絶え間なく続くなか、不機嫌に背を向けて眠るブライアン。
エイドリクもまた寝ようとしたが、小屋は海上の船のようにゆれてミシミシと音がしてどうにも寝つけない。
猛烈な大吹雪で火を焚いているにも関わらず隙間から入る冷風で部屋の空気は暖かくなるどころか冷えてくるようだ。
それでもいつの間にか寝入ったエイドリクの顔に冷たいものが降りかかる。
雪だ。
小屋の中に雪が舞っている。
見れば小屋の戸は押し開かれており、焚き火があった場所は白い雪に覆われていた。
小屋の中は夜にもかかわらず思いのほか明るい。
月の光を反射した雪明かりが照らす部屋のうちに女がいた。
雪のように輝く白銀色の髪に磨かれた雪花石膏のように真っ白な肌を霧のように白い衣で包んだ若い女だ。
その女はブライアンの上に屈んで息を吹きかけていた。
白く輝く息を。
ブライアンの全身から熱が失せ、氷のように冷たく硬い物言わぬ骸と化す。
女はエイドリクが方へ振り向くと音もなく近づき、彼の上に屈んだ。
恐怖と驚愕にエイドリクの口が大きく開き、叫び声があがろうとしたが何の音も発する事ができない。白衣の顔が触れるくらい近くまで迫る。
その蒼氷色の瞳を見た瞬間、恐怖よりも神秘に対する畏怖と畏敬の念が勝り、エイドリクは女のまとう異界の美にすっかり心を奪われた。
死の恐怖をも忘れて女に見惚れるエイドリクに女が微笑みかける。
「この老人は森への畏れを忘れ、禁忌を犯そうとした。だからこうして命を奪った。だが、おまえはそうはしなかった。それどころか老人の暴挙をいさめ、止めようとした。その殊勝な行いに免じておまえの命を助けよう。たが今夜のことを、今見たことを誰かに話したらおまえを殺す。なにかに書き記しても殺す。よくよく覚えておくがいい、私のことを――」
雪にまぎれてかき消えるように女はその姿を消した。
あとに残るのは小屋の中へと激しく吹きつけている風雪のみ。
エイドリクはあわてて戸を閉めて火を起こす。
(夢でも観たのか……)
エイドリクがブライアンを呼ぶ。
だが老人は返事をしなかった。
暗がりへと視線を移すとそこには人の形をした氷の塊がある。ブライアンは固くなって死んでいた。
夢ではなかったのだ。
それから10年後、まだ青年と呼ぶにはあどけない少年だったエイドリクはすっかりたくましい青年へと成長していた。
冬のある日のことだ、毛皮や干し肉を売りに街へと出た帰り道、街道を歩いている若い女に追いついた。
女は粗末だが清潔な装いをしており、すらりとした長身で腰まである黒髪が陽光に輝き、実に美しかった。
「ごきげんよう」
思わず見惚れていたエイドリクに挨拶したその声は鈴の音の如く涼やかで、春の野鳥たちが奏でるさえずりのように美しかった。
エイドリクは女と並んで歩くことになり、色々な話をした。聞けば彼女の名はヴィティといい、つい先ほど両親を亡くしたので遠くにいる親類を頼って出てきたという。
話せば話すほどエイドリクはヴィティに強く惹かれてゆき、つい約束した人はいるのかと思い切った質問をしたところ、ヴィティは笑いながら何の約束もないと答えた。
「あなたこそもうお嫁さんはお持ちなの? それか言い交わした人はいて?」
「自分まだ若いし、家には年老いた母がいるから嫁などいないよ」
「どんな女性がお好み?」
「それは――」
道中、様々な話をした。
洗練された物腰からヴィティは街の娘かと思ったエイドリクだったが、彼女は森のことや山のことなどよく知っていて、口下手なエイドリクともとても話が合った。話せば話すほど愉快で楽しい気持ちになり、村に着くまでにたがいに心から好きになっていた。
エイドリクは思い切って自分の家でしばらく休んでいかないかと聞くとヴィティは恥ずかしそうに戸惑いを見せつつもうなづき、家へと向かった。
ヴィティをひと目見て気に入ったエイドリクの年老いた母親は喜んで彼女を雪を迎え、せいいっぱいのご馳走を用意して歓迎した。
ヴィティの物腰のやわらかい立居ふるまいは良家の子女のように立派で、ますます気に入った母親は彼女を引き止め、幾日も滞在するうちにそのまま「お嫁」として、この家に逗まる事となった。
それから5年ばかりしてエイドリクの母親が亡くなるさい、その臨終の言葉は、倅の嫁を慈しみ、ほめそやしたものであり。ヴィティはエイドリクの子を、男女あわせて10人生んだ。
みんなヴィティによく似て色の白い、黒髪の美しいな子どもばかりだった。
畑や山で男たちと一緒になって働く村の女はたいてい早く老けるものであるが、ヴィティはエイドリクを助けてよく働き、10人もの子どもの母親となった後でさえ初めて村へ来たときのように若くて瑞々しく見えた。
村の人たちはヴィティは生れつき自分たちとは違う、不思議な人だと思ったが、その人柄に惹かれて彼女を不気味がる者などなく大事にされて慕われた。
彼女のおかけで村は花が咲いたかのように華やかで楽しい雰囲気に包まれて幸せな日々が続いた。
ある晩のことだ、子どもたちが寝てしまってからヴィティは暖炉の明かりで針仕事をしていた。
妻のそんな姿を見ていたエイドリクはふいに心に込めていたことを言葉にして漏らす。
「おまえがそうやっている姿を見ると私がまだ15歳の少年だった頃の不思議な出来事を思い出すよ。私はその時に今のおまえのように綺麗で色の白い女の人に合ったんだ。その人は――いや、あれは人ではなく話に聞くスノーエルフ。雪の精かなにかだったのかもしれない。本当におまえそっくりだったよ」
仕事の手を止めることなくヴィティは答えた。
「その人のことを話してくださいな、どこでお会いになったのですか?」
エイドリクはブライアンが命を落とした丸太小屋での恐ろしい一夜のことを、自分の上に身をかがめて微笑み、秘密を漏らせば殺すとささやいた白い女のことをヴィティに話して聞かせた。そして、彼はこう言った。
「おまえの他にあのように美しい女を見たのは夢にもうつつにもあの時きりだ。あの女はやはり人ではなく雪妖精だったんだろう。とても恐ろしかったが、とても美しかった。死の恐怖におびえつつ見惚れてしまった」
突如として室内は暗くなり、身を切るような寒気と共に氷雪が嵐となり吹雪いた。
縫い物を放りだして立ちあがったヴィティの黒髪は雪のように輝く白銀色に変じ、雪花石膏のような白い肌を霧のように白い衣が覆っていた。
腰を抜かしたエイドリクの上に身をかがめて、蒼氷色の瞳を輝かせて刺すように見つめながら押し殺すように叫んだ。
「その女こそ、わたし。このヴィティです。あの時わたしはあの晩のことをひとことでも洩らしたら、あなたの命を奪うと言ったでしょう。嗚呼! そこに眠っている子どもたちがいなかったら、今すぐにあなたをブライアンのように凍らせているのに。父親がいなくなっては子どもたちが悲しみます。この子らの面倒を、よくよく見てやってください。もしもあなたが子どもたちを大事にしなければ次はありませんよ」
ヴィティの声は風雪の叫びのように響き、やがてその姿は煌めく霧となって消え去った。
エイドリクの前に姿を見せることはもう二度となかった。
「ギエルの骨にかけて! そのエイドリクて奴はなんてバカな事をしたんだ! 俺なら約束を守って他言しないのに」
「なに言ってんだい、あんたなんて最初の晩に凍らされちまうよ」
吟遊詩人の語る物語を聴き終えた人々の口からエイドリクの軽挙に対する憤りの声や雪妖精の理不尽への不満、切ない結末にため息をが漏れ、様々な感想が飛び交う中。
「……その子たち、お母さんがいなくなってかわいそう」
「おや、君はエイドリクの軽率さや雪妖精のおこないに怒るのではなく子どもたちの身を案じてくれるのだね」
「10人いた子どもたちはその後どうなったのかな?」
「だいじょうぶ、彼らはそれぞれ逞しく成長してそれぞれの人生を歩んでいるよ」
いかなる光の加減によるものか、微笑んだ吟遊詩人の黒い瞳は蒼氷色に輝いて見えた。
厳しい冬のさなかに訪れたひとりの旅人の姿に村人たちは驚愕した。
雪国育ちの屈強なノールの男たちでさえ10歩も進むことが困難な雪嵐のなか、こんなにもやわななりをした若者がよくもまあ来られたものだと。
当初はいぶかしんだよそ者の到来だが、吟遊詩人だという若者を村人たちは歓迎した。
なにせ雪に閉ざされた冬の間は外界からは孤立し、春まで狭い村の中で冬眠をする獣さながらにじっととじ込まなければならないからだ。
蓄えは充分にあった。春や夏の間に狩った獣肉や秋に実った作物がある。体を温める火酒や喉を潤す蜂蜜酒や麦酒もある。
無いのは娯楽だけ。
村に一軒しか無い酒場に村中の者が集まり、いつもの連中といつもの軽口、女房がどうしただの亭主がどうしただの言い合う。
生まれてから幾度も経験してきた単調で退屈な冬の時間。
うんざりする灰色の季節は吟遊詩人の奏でる音楽によって極彩色の彩りを見せた。
彼の吹くフルートの音色は待ちわびた春の陽気のごとく軽快で、彼の叩く太鼓の鼓動は真夏のように激しく熱く、彼の奏でるリュートは秋の優しげな木漏れ日のように穏やかな気持ちにさせた。
楽の音のみならずその口から漏れる声は音吐朗々たるもので、語られる物語は多種多様。
男性向けの血沸き胸踊る英雄叙事詩や冒険譚から婦人好みの恋愛物語、子どもたちが目を輝かせる神秘的なおとぎ話など。村人たちは彼の音楽と物語に熱狂し、心酔して楽しい冬を過ごす事ができた。
春の訪れを前に村を立とうとする吟遊詩人を村人総出で引き止めたのだが、彼の決意は硬かった。
「私は雪に覆われたノールの地が好きなのです。この地で見たこと聞いたことを歌にして次なる土地で語り継ぎたい」
「こんな雪と氷しかない土地で何を見聞きしたってんだい。白と黒、灰色しか無い退屈でつまらない場所さ」
「ですが物語がある」
「物語だって? あんたが聞かせてくれた物語以上の物語なんてこの地には存在しないよ」
「そんな事はありません、私は知っています。ノールの地に伝わる美しくも悲しい物語を――」
吟遊詩人の口から最後の物語が語られる。
ノールの地のある村にブライアンとエイドリク、二人の狩人がいた。
狩人というが時には木こりになり、時には農夫に、商人にも、生きるためにあらゆる仕事をした。
ブライアンは老人であったが、エイドリクは青年と呼ぶにもまだ若い少年であった。
秋の実りが乏しく、冬の蓄えが乏しかった年のこと。彼らは村から離れた森に狩りに出かけた。
ノールの地にはたとえ冬であっても無害な草食動物から獰猛な肉食動物まで数多の獣が生息しており、
狩猟で得られる肉や毛皮は食材や装備品になるほか、体の一部が錬金術の素材として魔術師に高値で売れる魔獣や幻獣もいた。
その年の冬は危険をおかしてでも森へ行く必要があった。
「ギエルの髭にかけて! 動物たちはどこに消えた!?」
ブライアンとエイドリクは何日も獲物を求めて森の中を歩いたが、栗鼠の子一匹見つけられなかった。
さらにその日は大吹雪に遇い、早々に拠点にしている丸太小屋までの退避を余儀なくされる。
ふいに吹雪がおさまり視界が開けた瞬間、ブライアンが押し殺した声をあげた。
「ギエルの骨にかけて! 声を出さずにあれを見ろエイドリク」
エイドリクは首だけ横に出してブライアンの背中から彼が指差す方向を確かめた。
遥か彼方に風下に頭を向けて立つ四足の巨体が見える。
「白い、鹿……」
エイドリクの声はうわずっていた。数百歩ほどの距離があるため細部ははっきりせず、色彩も周囲の雪景色にまぎれてぼやけているが、見慣れた四足獣のシルエットと大きな角が鹿であることを証明していた。
ブライアンは指を舐めて天にかざす。
「風はちょうど真横だ。ここからなら嗅がれず、見られずに近づける。弓が届く距離まで近づいてわしが射よう。一撃では無理だろうが足に当てられれば、追いつめる事ができるはずだ」
ブライアンは狩りで使う短弓を構えると白鹿に近づき始めた。つられてエイドリクも後に続く。
足を止めて無言で矢をつがえるブライアン、エイドリクもまた遠くにいる鹿を逃すものかと前方を凝視しつつ同じ動作をする。が、その手が止まる。
白い鹿の目を、蒼氷色の神秘的な瞳を見たからだ。
今にも矢を放ちそうなブライアンの手をエイドリクが強くつかむ。
「なんの真似だ! 離せ!」
「ダメだブライアン、白い鹿は雪妖精の、スノーエルフの化身とも伴侶とも言われる神聖な獣だ。殺してはいけない」
「ギエルの骨にかけて、おまえのような若者がそんな迷信を信じているのか!?」
押し問答の末、エイドリクを強引に押しのけて矢を射ようとしたが争いの気配を感じたのか白い鹿は身を翻して森の奥へと駆けて姿を消した。
「ギエルの髭にかけて、千載一遇の好機が台無しだ! あの鹿一頭で村のみんなひもじい思いをしなくてすんだのに!」
「あの鹿を殺したらきっと祟りがある、これで良かったんだ」
「大バカ者め……」
ふたたび激しい風と雪が強く降り出し、険悪な空気のまま2人は丸太小屋へと戻る。
激しい風と雪が戸にあたる音が絶え間なく続くなか、不機嫌に背を向けて眠るブライアン。
エイドリクもまた寝ようとしたが、小屋は海上の船のようにゆれてミシミシと音がしてどうにも寝つけない。
猛烈な大吹雪で火を焚いているにも関わらず隙間から入る冷風で部屋の空気は暖かくなるどころか冷えてくるようだ。
それでもいつの間にか寝入ったエイドリクの顔に冷たいものが降りかかる。
雪だ。
小屋の中に雪が舞っている。
見れば小屋の戸は押し開かれており、焚き火があった場所は白い雪に覆われていた。
小屋の中は夜にもかかわらず思いのほか明るい。
月の光を反射した雪明かりが照らす部屋のうちに女がいた。
雪のように輝く白銀色の髪に磨かれた雪花石膏のように真っ白な肌を霧のように白い衣で包んだ若い女だ。
その女はブライアンの上に屈んで息を吹きかけていた。
白く輝く息を。
ブライアンの全身から熱が失せ、氷のように冷たく硬い物言わぬ骸と化す。
女はエイドリクが方へ振り向くと音もなく近づき、彼の上に屈んだ。
恐怖と驚愕にエイドリクの口が大きく開き、叫び声があがろうとしたが何の音も発する事ができない。白衣の顔が触れるくらい近くまで迫る。
その蒼氷色の瞳を見た瞬間、恐怖よりも神秘に対する畏怖と畏敬の念が勝り、エイドリクは女のまとう異界の美にすっかり心を奪われた。
死の恐怖をも忘れて女に見惚れるエイドリクに女が微笑みかける。
「この老人は森への畏れを忘れ、禁忌を犯そうとした。だからこうして命を奪った。だが、おまえはそうはしなかった。それどころか老人の暴挙をいさめ、止めようとした。その殊勝な行いに免じておまえの命を助けよう。たが今夜のことを、今見たことを誰かに話したらおまえを殺す。なにかに書き記しても殺す。よくよく覚えておくがいい、私のことを――」
雪にまぎれてかき消えるように女はその姿を消した。
あとに残るのは小屋の中へと激しく吹きつけている風雪のみ。
エイドリクはあわてて戸を閉めて火を起こす。
(夢でも観たのか……)
エイドリクがブライアンを呼ぶ。
だが老人は返事をしなかった。
暗がりへと視線を移すとそこには人の形をした氷の塊がある。ブライアンは固くなって死んでいた。
夢ではなかったのだ。
それから10年後、まだ青年と呼ぶにはあどけない少年だったエイドリクはすっかりたくましい青年へと成長していた。
冬のある日のことだ、毛皮や干し肉を売りに街へと出た帰り道、街道を歩いている若い女に追いついた。
女は粗末だが清潔な装いをしており、すらりとした長身で腰まである黒髪が陽光に輝き、実に美しかった。
「ごきげんよう」
思わず見惚れていたエイドリクに挨拶したその声は鈴の音の如く涼やかで、春の野鳥たちが奏でるさえずりのように美しかった。
エイドリクは女と並んで歩くことになり、色々な話をした。聞けば彼女の名はヴィティといい、つい先ほど両親を亡くしたので遠くにいる親類を頼って出てきたという。
話せば話すほどエイドリクはヴィティに強く惹かれてゆき、つい約束した人はいるのかと思い切った質問をしたところ、ヴィティは笑いながら何の約束もないと答えた。
「あなたこそもうお嫁さんはお持ちなの? それか言い交わした人はいて?」
「自分まだ若いし、家には年老いた母がいるから嫁などいないよ」
「どんな女性がお好み?」
「それは――」
道中、様々な話をした。
洗練された物腰からヴィティは街の娘かと思ったエイドリクだったが、彼女は森のことや山のことなどよく知っていて、口下手なエイドリクともとても話が合った。話せば話すほど愉快で楽しい気持ちになり、村に着くまでにたがいに心から好きになっていた。
エイドリクは思い切って自分の家でしばらく休んでいかないかと聞くとヴィティは恥ずかしそうに戸惑いを見せつつもうなづき、家へと向かった。
ヴィティをひと目見て気に入ったエイドリクの年老いた母親は喜んで彼女を雪を迎え、せいいっぱいのご馳走を用意して歓迎した。
ヴィティの物腰のやわらかい立居ふるまいは良家の子女のように立派で、ますます気に入った母親は彼女を引き止め、幾日も滞在するうちにそのまま「お嫁」として、この家に逗まる事となった。
それから5年ばかりしてエイドリクの母親が亡くなるさい、その臨終の言葉は、倅の嫁を慈しみ、ほめそやしたものであり。ヴィティはエイドリクの子を、男女あわせて10人生んだ。
みんなヴィティによく似て色の白い、黒髪の美しいな子どもばかりだった。
畑や山で男たちと一緒になって働く村の女はたいてい早く老けるものであるが、ヴィティはエイドリクを助けてよく働き、10人もの子どもの母親となった後でさえ初めて村へ来たときのように若くて瑞々しく見えた。
村の人たちはヴィティは生れつき自分たちとは違う、不思議な人だと思ったが、その人柄に惹かれて彼女を不気味がる者などなく大事にされて慕われた。
彼女のおかけで村は花が咲いたかのように華やかで楽しい雰囲気に包まれて幸せな日々が続いた。
ある晩のことだ、子どもたちが寝てしまってからヴィティは暖炉の明かりで針仕事をしていた。
妻のそんな姿を見ていたエイドリクはふいに心に込めていたことを言葉にして漏らす。
「おまえがそうやっている姿を見ると私がまだ15歳の少年だった頃の不思議な出来事を思い出すよ。私はその時に今のおまえのように綺麗で色の白い女の人に合ったんだ。その人は――いや、あれは人ではなく話に聞くスノーエルフ。雪の精かなにかだったのかもしれない。本当におまえそっくりだったよ」
仕事の手を止めることなくヴィティは答えた。
「その人のことを話してくださいな、どこでお会いになったのですか?」
エイドリクはブライアンが命を落とした丸太小屋での恐ろしい一夜のことを、自分の上に身をかがめて微笑み、秘密を漏らせば殺すとささやいた白い女のことをヴィティに話して聞かせた。そして、彼はこう言った。
「おまえの他にあのように美しい女を見たのは夢にもうつつにもあの時きりだ。あの女はやはり人ではなく雪妖精だったんだろう。とても恐ろしかったが、とても美しかった。死の恐怖におびえつつ見惚れてしまった」
突如として室内は暗くなり、身を切るような寒気と共に氷雪が嵐となり吹雪いた。
縫い物を放りだして立ちあがったヴィティの黒髪は雪のように輝く白銀色に変じ、雪花石膏のような白い肌を霧のように白い衣が覆っていた。
腰を抜かしたエイドリクの上に身をかがめて、蒼氷色の瞳を輝かせて刺すように見つめながら押し殺すように叫んだ。
「その女こそ、わたし。このヴィティです。あの時わたしはあの晩のことをひとことでも洩らしたら、あなたの命を奪うと言ったでしょう。嗚呼! そこに眠っている子どもたちがいなかったら、今すぐにあなたをブライアンのように凍らせているのに。父親がいなくなっては子どもたちが悲しみます。この子らの面倒を、よくよく見てやってください。もしもあなたが子どもたちを大事にしなければ次はありませんよ」
ヴィティの声は風雪の叫びのように響き、やがてその姿は煌めく霧となって消え去った。
エイドリクの前に姿を見せることはもう二度となかった。
「ギエルの骨にかけて! そのエイドリクて奴はなんてバカな事をしたんだ! 俺なら約束を守って他言しないのに」
「なに言ってんだい、あんたなんて最初の晩に凍らされちまうよ」
吟遊詩人の語る物語を聴き終えた人々の口からエイドリクの軽挙に対する憤りの声や雪妖精の理不尽への不満、切ない結末にため息をが漏れ、様々な感想が飛び交う中。
「……その子たち、お母さんがいなくなってかわいそう」
「おや、君はエイドリクの軽率さや雪妖精のおこないに怒るのではなく子どもたちの身を案じてくれるのだね」
「10人いた子どもたちはその後どうなったのかな?」
「だいじょうぶ、彼らはそれぞれ逞しく成長してそれぞれの人生を歩んでいるよ」
いかなる光の加減によるものか、微笑んだ吟遊詩人の黒い瞳は蒼氷色に輝いて見えた。
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