可愛いあの子は男前

秋月真鳥

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十一章 奏歌くんとの十一年目

2.茉優ちゃんの夢

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 補講のない茉優ちゃんは、夏休み期間中に今年もイギリスに行って、今度は来年の春から住む場所をやっちゃんと決めてくる。出発前に篠田家に行ったときに私は茉優ちゃんと話をしていた。

「イギリスで住むところは大体決まっているの?」
「その地域に住もうっていうのは安彦さんと決めたわ。後は物件を探して、来年の春から受け入れてもらえるかを交渉するだけ」

 住みたい地域はもう決まっていて、その地域の中で物件を探すのだと茉優ちゃんは話してくれた。

「ピーター・ラビットに出て来るような街って言ってたけど、不便なく暮らせそうなの?」
「街の中に日本の食材も置いてあるスーパーがあったのはちゃんと確かめた。移動は車でしないと難しいかもしれないけど、安彦さんが国際免許を取るって言ってるのよ」
「茉優ちゃんはそこで何をするの?」

 私の興味はそこにあった。
 昔から茉優ちゃんは一歩引いたような性格で、大人しくて控えめで自己主張をしない。茉優ちゃんがしたいことはなんなのだろう。それがイギリスで叶えられるのだろうか。そのことを気にしていた私に茉優ちゃんは部屋に戻って雑誌とスケッチブックを持って来てくれた。

「私、ジュエリーのデザインがしたいの」

 雑誌は有名な宝飾のブランドの雑誌で、スケッチブックには幾つかのデザインが色鉛筆で描かれている。小さな頃から茉優ちゃんは手先が器用な子だとは認識していたが、ジュエリーのデザインがしたくて、これだけ絵がうまいなんて全く知らなかった。
 スケッチブックには丁寧に宝石の種類や大きさまで書いてある。

「街の外れにジュエリーの工房があるのも確かめて来たの。そこに弟子入りできないか、今回交渉してみるつもり」

 これまでほとんど話すことのなかった茉優ちゃんとこんなに深く話したのは初めてではないだろうか。茉優ちゃんの夢を初めて聞いて、私は茉優ちゃんの手を握り締めていた。

「きっとうまくいくと思う。応援する」
「ありがとう、海瑠さん」

 茉優ちゃんが篠田家にやって来てからもう十年目になる。公園で暑い中放置されているのを見過ごせないとやっちゃんが声をかけて、美歌さんに茉優ちゃんが引き取られて、たくさんのことがあった。茉優ちゃんが大人を信用できなくて学童保育に行けなかったことも、高校受験で女子校を選んだことも、昨日のことのように思い出せる。

「茉優ちゃん、素敵なお家が見付かるといいね」
「うん、一生懸命探してくる」
「そのお家が見付かったら、私たちに連絡をちょうだいね。私も奏歌くんが高校を卒業して劇団を退団したら、一番に茉優ちゃんとやっちゃんの家を訪ねていくからね」
「客間のあるお家にしなきゃ」

 楽しく話していると奏歌くんが帰って来たので、私は茉優ちゃんに手を振って奏歌くんとマンションに移動した。

「最近、茉優ちゃんと仲がいいんだね」
「吸血鬼の伴侶同士、分かり合えちゃってるのかな」

 悪戯っぽく言うと奏歌くんの白い頬が赤くなる。

「海瑠さんはもう僕から逃れられないんだからね」
「逃がさないで、奏歌くん。ずっと奏歌くんと一緒にいたい」

 決め台詞のように言った奏歌くんにうっとりと私が返すと、ますます奏歌くんの顔が赤くなる。小さな頃も格好良くて、年々男前度が増して、これからももっともっと男前になっていくであろう奏歌くん。
 私が奏歌くんを見つけたのか、奏歌くんに私が見つけられたのか、そんなことはもうどうでもいい。お互いがいないと生きていけなくなっているのは確かだった。
 八月に入ってすぐ、やっちゃんと茉優ちゃんはイギリスに旅立つ。空港には美歌さんが送って行って、私と奏歌くんも見送りに行った。
 今回は細かな書類契約まで済ませるので、一か月近くイギリスに行っていることになる。茉優ちゃんは残りの夏休みのほとんどの期間をイギリスで過ごすのだ。

「気を付けてね」
「はい、美歌お母さん」
「安彦のこと、よろしくね」
「それ、普通逆じゃないか?」
「茉優ちゃんのことを信じてるのよ」

 美歌さんは茉優ちゃんにやっちゃんのことをよろしくと言っていたが、その意味はすぐに分かった。やっちゃんが飛行機が苦手だからだ。飛行機の中で蝙蝠の姿になってしまえば大騒ぎになるので、茉優ちゃんに守ってもらわなければいけない。

「私は安彦さんの伴侶だから、お互いに支え合うの。ね、安彦さん」
「ま、まぁ、そうだな」

 嬉しそうな茉優ちゃんにやっちゃんは照れている様子だった。
 イギリスに飛び立つ飛行機を奏歌くんと一緒に私は見送った。
 八月に入っても奏歌くんの補講は続いていた。夏休みなのだから休みじゃないのかと言いたくなるが、高校とはそういうもののようだ。八月の上旬まで補講が入って、中旬は完全に休みで、下旬はまた補講が入る。
 奏歌くんは補講で高校に行き、私は稽古で稽古場に行く。気分は引き裂かれるロミオとジュリエットだった。

「なんで高校って面倒くさいんだろう」

 真剣に私が悩んでいると、稽古のために着物を着付けて来た百合が呆れ顔になっている。

「私たちの歌劇の専門学校とか、夏休みなんてほぼなかったわよ」
「え!? そうだっけ?」
「夏休みの間にもレッスンが入ってたし、休みの日には先輩たちの劇団の演目を見に行ってたし、休みらしい休みはなかったわよ。私は別に実家に帰りたくもなかったからよかったんだけど」
「え? 実家に、帰りたくもなかった?」

 そこで私は百合から重大な事実を聞かされた。

「歌劇の専門学校、全寮制だったの、忘れたの?」

 忘れてました。
 毎日歌って踊って、自分の好きなことだけができると幸せで幸せで、私は歌劇の専門学校時代に一度も実家に帰っていないらしい。百合もそうだったので全く気付いていなかった。
 歌劇の専門学校を卒業してから、私が一人暮らしをすると海香に言ったときに反対されなかったのは、既に私が歌劇の専門学校で寮生活を経験していたからだった。そのことを私は全然覚えていない。
 ただ毎日歌って踊ることだけで楽しくて、食事は三食寮で出たらしいし、洗濯も百合がほとんどやっていてくれたらしい。

「私は寮暮らしだった……」
「忘れてた海瑠が怖いわ」
「全然覚えてない」

 本当に全く覚えていない私は、それだけ歌劇の専門学校の毎日の授業に夢中だったのだろう。勉強もしたけれど、歌って踊るのがメインで、それが楽しくて仕方がなかった。そういう思い出しかない。
 歌劇の専門学校の寮を出たら、私は両親の遺産を受け取って今住んでいるマンションを買った。ワンフロア全部買ったので相当の値段だったはずだが、そのときの契約も全く覚えていない。

「私、なんであの部屋を買ったんだっけ?」
「そこも覚えてないの!?」

 百合にそれからしばらく珍獣を見るような目で見られたのは不本意だったが、覚えていない者は覚えていないのだから仕方がない。
 マンションに帰ると奏歌くんが待っていてくれた。
 補講は普段の授業よりも遅く始まって早く終わるようにはなっているようなのだ。そうでもないと夏休み中なのに毎日のように高校に行かなければいけない奏歌くんが可哀そうだ。
 窓際に立つと広いベランダが見える。焦げそうな日光を浴びて陽炎の立ち上るベランダを見ながら私は考えていた。

「海瑠さん、どうしたの?」
「私、忘れてることがまだあったみたい」

 歌劇の専門学校が全寮制で、寮で百合に世話をされながら生活していたことも、この部屋を買ったきっかけもあまり思い出せない。

「僕が初めて来たときには、この部屋、家具が少なくて、リビングがすごく広いなって思ったよ」
「広いリビング……あぁ、そうだ。ここで踊れそうだと思ったのよ」

 防音設備がきっちりしているので下からの音は聞こえないし、下に音が漏れることはない。フロア全部を買い取ってしまったので、隣りの部屋に配慮することもない。
 誰もいない部屋で、家具もほとんどなくて、私は広いリビングで踊りたいと思ってこの部屋を買ったのだ。
 奏歌くんの言葉でこの部屋を買った理由は思い出せた。

「誰も見ないダンスなんて寂しいだけだった」

 踊りたいから買った部屋なのに、私は誰も受け入れることができず、一人きりで踊ることもなくただ寂しがっていた。奏歌くんが来るまでの時間、私はただただ孤独だったのだ。

「奏歌くんがいてくれてよかった」

 私はこの部屋で一人で踊ることはない。踊りたかったリビングには家具が溢れて、その隙間を縫うようにして奏歌くんと歌って踊る日々。
 抜けた記憶は私が必要としていなかったから忘れてしまったのだろう。
 歌劇の専門学校にいた頃のことも、奏歌くんと一緒にいれば思い出せるかもしれないと私は考えていた。
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