いつか誰かの

秋月真鳥

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君は誰にも

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 セミダブルのベッドの端の方で、サムエルに背を向けるようにして、少し丸まってタオルケットを抱きしめてジャンが健やかに寝息を立てている。時刻はまだ日付が替わらないくらいだが、付き合い始めて一緒に夜を過ごすようになってから、サムエルはジャンが午後11時には寝付いているくらいには早寝だということを知った。
 仕事は大詰めに入っているので、サムエルがジャンの部屋を尋ねられるのは平日は時間が遅くなってしまうし、休日は疲れで倒れ込んでいることが多くて、いちゃいちゃしたくても時間の合わない日々に、サムエルも少々焦れていた。長年片想いしていた相手が、自分と付き合うと言ってくれて、「帰れ」と言わずに部屋に受け入れてくれる。夕食を一緒に摂ったり、最後まではしないとしてもじゃれあったり、一緒にシャワーを浴びたり、幸せは尽きないのだが、サムエルも若い成人男性なので、欲望が先に立ってしまう。
 抱きしめたい、抱かれたい、キスをしたい、触れ合いたい。
 ものすごく寝つきのいいジャンは、完全に深い眠りに入っている。その長めの赤い髪をかき上げて、サムエルはそっと首筋に舌を這わせた。反応があるかと思ったが、よほどよく眠っているようで身動き一つしない。わずかににじんだ汗の塩味がサムエルの欲を掻き立てる。同じものを使っているはずなのに、シャンプーの香りが妙に甘く感じられて、サムエルは無意識にジャンの白いうなじに歯を立てていた。
「うわ、いたっ!?」
 飛び起きたジャンが眠気の抜けていない緑の目で驚いたようにサムエルを見たのに、サムエルは青ざめる。この上なく無防備に、全幅の信頼を寄せて自分の隣りで眠りについていたジャン……体格的にもサムエルよりも細身で小柄な恋人に、ただむらむらしたからという理由で噛みついてしまった。
「ご、ごめん、ごめんなさい。僕……そういうつもりじゃなくて……ごめん、帰る!」
 慌ててベッドから降りようとするサムエルの腕を、ジャンがしっかりと掴む。そのまま引き寄せられて抱き締められた。肩口に顔を埋めると、ジャンの白いうなじにくっきりとサムエルの歯形が赤く残っていて、サムエルは震える。自分が暴力を振るったりするタイプではないと信じていたのに、ジャンの肌を傷付けてしまったことは、ショックだった。
「落ち着け。驚いただけだ、怒ってない」
 抱きしめられて、ジャンの分厚くはないがそれなりにしっかりとした胸に顔を埋めて、洗濯されたシャツの清潔な香りとジャンの匂いを嗅いでいると、サムエルは泣きたいような気持になってしまう。時間が合わなくてあまり体の関係は持てないから、ジャンに自分の印を付けたかった。自分のものだと主張したかった。そういう気持ちがなかったとは言い切れない。だからといって、相手を傷付けていいはずがない。
「ごめんね、痛かったよね。なにか冷やすもの持って来よう。痕が残ったら大変だよ」
「血も出てないし大丈夫だろう。気にしてない。疲れてるんだろ、もう、寝ろ」
 よしよしと宥めるようにサムエルの黒髪を撫でながら、ジャンの方が先に眠ってしまった。ジャンは嘘をついたり誤魔化したりしない相手なので、本当に気にしていないのだろうとは信じられるが、よりによって自分の一番大事な相手に痕が付くくらい噛みついてしまったことは、サムエルを落ち込ませる。それでも、ジャンの鼓動を聞いて、寝息を感じて、上下する胸に触れていると、いつの間にか眠りに引き込まれる。
「ジャン、愛してる」
 今度は傷付けないように、唇にキスをしてからサムエルは自分とジャンにタオルケットをかけて目を閉じた。


 就寝が早い変わりにジャンの朝は早い。目覚めてすぐ、タイマーで昨夜のうちに仕込んでおいたパン焼き機からパンを取り出すのは、午前5時半前後。洗面所で髭を剃って身支度をして、作業部屋で朝ごはんまで作業をしている。手縫いの時もあるし、ミシンを踏むこともある、生地を裁断することもあるし、編み物をしているときもある。
 持ち帰った仕事をしてしまわないと眠れない体質のサムエルと正反対で、ジャンは朝の方が仕事がはかどるタイプだった。7時近くまで仕事をしてから、玉子とベーコンかハム、それにサラダとスープの朝食を簡単に準備して、電動のコーヒーミルで豆を挽く。挽きたてのコーヒーのいい匂いが部屋中にしてきたころに、眠たそうにサムエルが起きてくる。
 洗面を終えたサムエルと朝食を摂って、一緒に部屋を出て、ポストから新聞を拾って出勤するまでが朝の流れ。時々、葉っぱから紅茶を淹れることもあるし、フレンチトーストを焼くこともある。
「君って、なんでもできるよね」
「必要なことしかできない」
「僕は仕事しかできない」
 何度も繰り返される会話を交わして、玄関先でサムエルがジャンの頬にキスをしてから、そのカッターシャツの首筋を撫でた。ハーフアップにしていて、残りを下ろしているので目立たないが、昨夜の歯形はくっきりと赤く残っている。
「ごめんね……」
「寝ぼけたんだろ?次から気を付ければいいよ」
 肩を落とすサムエルに、ジャンはあっさりと言って駐車場に向かった。サムエルも駐車場に向かう。今のところはコインパーキングだが、そのうちサムエルの分の駐車場も借りなければいけないと思いつつ、ジャンは出勤した。
 ジャンの上司であるテオドルスは、オーダーの客がいないとき、奥で縫製の作業をしているジャンをよく見に来る。それは仕事の進み具合を確認するためでもあり、世間話をするためでもある。
「その首の悩ましい傷はどうしたんだ?」
 目ざといテオドルスが気付いていないわけがないと思っていたが、直球で聞かれて、ジャンは仕上げの縁取りの押さえを手縫いでしていた針を止めた。
「ご想像通りだと思うよ」
「αと付き合わない主義じゃなかったのか」
 指摘されてジャンは思わず緑の目でテオドルスを見上げてしまう。仕事とプライベートはきっちり分けているはずだし、新しく恋人ができたとかいう話を気安くするほどテオドルスと仲がいいつもりはなかったので、なぜ相手がαだとばれているのかと思ってから、サムエルが明らかにジャンに好意を向けていたのにテオドルスは気付いていたのかと納得する。
「なんか……ほっといたら野垂れ死にしそうな感じがして」
 サムエル・カウットという男は、顔がいいし、頭がいいし、仕事もできる。典型的なαといえた。ただし、自分のことを顧みないというか、生活力と一般常識がないというか、ちょっと抜けたところがある。薬を服用してアルコールを摂取したり、暑い最中に汗が出るのや太っていると思い込んでいるのを気にして水分を控えたり、常識的には考えられないことをしてしまうところがあった。
「……俺が知ってるα?あ、もしかして、カウット様!?」
「はっ!?気付いてなかったのか、あんた?」
 αだと言い当てられたのでてっきりサムエルだと気付かれているとばかり思っていたが、テオドルスはまさかサムエルとは思っていなかったようだった。藪蛇だと思いつつ、ジャンはため息を吐く。
「客に手を出すのは良くないって分かってるけど……俺、クビ?」
「いやいや、ジャンの魔性で虜にしとくといいよ。でも、ジャンは知らないのか」
 意外そうな声を上げるテオドルスに、ジャンは首を傾げた。
「知らないって、なにを?」
「αは、気に入ったΩの首筋に噛みついたら、番いにできるっていう都市伝説的なものがあるんだよ」
 テオドルスの説明に、ジャンは自分のうなじの赤い痕に指を這わせる。あの慌てようだったら、サムエルも知らなかっただろう。だが、本能的に体が動いてしまったのだと思うと、笑いが込み上げる。
「俺、βなのに」
 くすくすと笑っているジャンに、テオドルスが真面目な顔になった。
「βでも番いにしたいくらい、愛されてるんじゃないか……それよりも、髪である程度隠れるからって、なにか貼ったりして隠そうとしないジャンの方がなぁ……本当に、クールに見えて、独占欲強いよな」
 しみじみとテオドルスに言われて、ジャンは目を細める。
 うなじにちらりと噛み痕が見えれば、ジャンを狙っている人物がいたとしても、相手ができたとはっきり分かるだろう。嫉妬されるのは嫌いではなかったが、恋人を不安にさせるのは本意ではない。だから、ジャンは恋人に付けられた痕は積極的には隠さない。
「性格悪いんだよ、俺はね」
「相手を溺れさせて依存させるのが大好きなくせに」
「そこが、性格悪いって言ってるの」
 笑い飛ばして、ジャンは仕上げの作業に戻った。
 ミシン縫いと違って、手縫いは時間のかかる地味な作業だが仕上がりはとてもきれいだし、形の調整がうまくできる。普段はミシン縫いで仕上げをするところも、サムエルの分はジャンは丁寧に手縫いで仕上げをしていた。
 多分、サムエルは気付いていない。
 サムエルが泊まるようになってから、ベッドカバーのキルティングを新しく作ったとか、サムエルが夜更かしして仕事ができるようにベッドサイドにライトとサイドテーブルを準備しただとか、ワイシャツを全部クリーニングに出していたというサムエルのために毎朝洗濯したシャツにアイロンをかけているだとか。
 過去の恋人が別れた後も、ジャンとよりを戻したがる理由を、ジャンは薄々感付いていた。離れられないように、甘やかしていたのはジャンなのだから。
「噛むなって言ったから、次は指輪を用意してそうな気がする」
 ジャンの愛し方も歪んでいると思うのだが、サムエルの愛し方も極端だと、ジャンは小さく笑いを零した。
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