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第5部 天然女子高生のための真そーかつ

第141話 ボディポジティブ運動

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 東京都千代田区にある私立マルクス高等学校は(後略)


 ある日の放課後、同じクラスの漫研部員である宝来ほうらいじゅんさんに借りていた漫画を返しに漫研部室のある文化部棟に寄った私は、最上階から聞こえてきた歌声が気になって階段を上った。

「模試の時から~~100点を取り~~ボクらが~目指した~志望校~は~~あぁ~~」
「流石はカラオケ部の部長、男性の低音の歌でも上手だね。私は高音はおろか低音でもいまいちで……」
「石北さん、それに寒下さん、カラオケの練習されてるんですか?」

 4階最奥の部室ではある程度の防音が施された部屋の中で同じクラスの石北いしきた香衣かいさんがマイクを手に歌っており、この部室は彼女がつい先日設立したというカラオケ部の部室らしかった。

 石北さんの横では学生食堂調理師長の寒下かんげ丹次郎たんじろうさんが腕を組んでモニターの採点画面を見ており、生徒でも教員でもない寒下さんは何らかの理由でこの部室を訪れたようだった。

「ああ、野掘さん。今日はカラオケ部の練習の日じゃないんだけど、寒下さんからカラオケの練習に付き合って欲しいと頼まれてね。学食の食事券2000円分と引き換えに指導を引き受けたのさ」
「今年の教職員の忘年会には私も呼んで頂けることになったんだけど、実は昔からカラオケというのが苦手で、娘からはパパとはカラオケに行きたくないとまで言われてしまう次第なんだ。実際に聴いて貰えば早いから、一曲入れるね」
「分かりました。……ああー……」

 寒下さんはモニターのリモコンを操作すると一昔前の歌謡曲を予約して歌い始め、確かにカラオケ愛好家の石北さんでもアドバイスに苦労しそうなほど寒下さんは音痴だった。

「忘年会は二次会のカラオケが恒例行事らしいから今のうちに少しでも練習しておきたいんだけど、指導して貰ってこの上達度ではどうにも厳しそうだね。でも私はまだまだ練習を続けるよ」
「寒下さん、指導を引き受けておいて何ですが、カラオケは採点で高得点を取るのが偉いとか得点が低ければ恥ずかしいとかいうものではなくて、自分自身が楽しく歌ってこそだとボクは思いますよ。社会的評価にとらわれず自分自身のありのままの体型を肯定するボディポジティブ運動のように、寒下さんも自らのありのままの歌唱力を肯定してみてはいかがですか? そう思って練習した方が結局は得点も上がりますよ」
「確かに、私はカラオケ本来の楽しみ方を見失っていたようだ。よし、今日はあと30分思う存分歌うよ!」

 寒下さんはそう言うとそれから30分間自らの思いのままに歌い続け、歌唱力は相変わらずだがカラオケを心から楽しんでいる寒下さんの姿は率直に美しいと思った。


「いやー、石北さんって本当にカラオケの指導が上手だね。得点の良し悪しにこだわってる寒下さんを悩みから解放してあげてたし」
「ははは、ボクは世界中のあらゆる人に心の底からカラオケを楽しんで欲しいだけさ。おっと、お出でになったようだね」
「石北さん、遅くなっちゃってごめんなさい! 忘年会のことでよかったかしら?」

 練習を終えた寒下さんが帰っていった後に石北さんと話していると、部室の入り口から硬式テニス部の顧問でもある国語科の金坂かなさかえいと先生が入室してきた。

「金坂先生、お疲れ様です。忘年会の二次会のカラオケの際にお願いしたいんですけど、今から言う操作を寒下さんがログインした後に行って欲しいんです。まず、機種がライジングDだった場合は本体にこのコードを入力して……」

 石北さんは金坂先生に何かの指示を伝え始め、私もそろそろ帰ることにして部室を後にした。


 そして忘年会の二次会で……

「いやはや、寒下さんがこんなにカラオケがお上手だったとは! 先ほどから90点台しか出てませんよ!!」
「教頭先生、私自身も驚きですよ! 普段は良くて70点台前半ですから、自分自身の才能に惚れ惚れします。金坂先生はどう思われます?」
「い、石北さんのご指導のおかげでしょうねー……」


「石北さん、さっき寒下さんが忘年会のカラオケで90点台を連発したって自慢してたんだけど……」
「世の中には知らない方がいい秘密もあるのさ☆」

 昼休みに学食で寒下さんから聞いた話を持っていった私に、石北さんはドヤ顔をしながらそう答えたのだった。


 (続く)
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