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プロローグ
4 気分はとても不安
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先輩は無言でカバンに手を伸ばすと、やはりA4サイズの大判の冊子を取り出した。
冊子といっても中綴じのパンフレットなどではなく幅1cmぐらいの背表紙が付いたもので、かなりの重量感がある。
「ごめん、これも最初に見せとくべきだったね」
「……これ、シラバスですよね?」
大学生の1年間のカリキュラムは年度初めの段階で決まっており、学生はそれぞれの学年の最初に分厚い冊子を渡される。
1年間の授業の説明と時間割などが全て掲載されたこの冊子はシラバスと呼ばれており、医学部は6年制なので医学生は留年しなければ卒業までに6冊のシラバスを手にすることになる。
僕自身も今まで1回生のシラバスしか見たことがないが、このシラバスは1回生から6回生のどのシラバスとも別のものらしい。表紙にも大きく「研究医養成コース 2年次転入生シラバス」と印字されている。
「その通り。普通のシラバスと違ってこのシラバスの内容は学生用ウェブページから確認できないから、こっちも失くさないようにしてね」
「は、はい……」
最近ではこういったシラバスの内容は学生専用のウェブサイトから確認できるのが一般的で、分厚いシラバスを持ち歩く学生はもはや皆無に近い。
このシラバスは通常の2回生のものではなく僕のような珍しい立場の学生だけに適用されるためわざわざ別にウェブページを用意していないのだろう。
「前置きは省くけど、白神君には2回生の1年間、通常のカリキュラムに加えてこのシラバスにあるカリキュラムをこなして貰います。大学によっては研究医養成コースの学生は講義を一部免除されたりするけど、この大学にそういうシステムは一切ないから」
2回生のカリキュラムは後半に入るまで教養科目しかない1回生よりもずっと忙しいと聞くが、僕はそれを全部こなした上でさらに追加のカリキュラムを受講するらしい。
学費減免の条件は卒後の義務だけだと思っていたので、僕は引き返せないタイミングになって焦り始めていた。
「あの、追加のカリキュラムって具体的にはどんな……?」
恐る恐る尋ねると、ヤミ子先輩はにっこりと微笑んで、
「心配しなくていいよ。放課後と土曜日は基本的に毎日研究棟に来て、基礎医学系の教室で研修を受けて貰うだけだから!」
「ま、毎日……?」
大学といえば放課後は自由時間で週休2日制のはずなのだが、その常識は通用しなくなるらしい。
それからヤミ子先輩は呆然とする僕に対し、2年次の追加カリキュラムについて一通り説明した。
まず前提として、入試の段階から研究医養成コースで入学した学生は1年次に基礎医学系の各教室を見学し、2年次から希望する教室に配属されて学生研究を開始する。
その一方、2年次から研究医養成コースに移った学生は事情がかなり異なる。
基礎医学系の教室でオリエンテーションを受けた上で来年度からの配属先を決めるのは同様だが、オリエンテーションはただ見学するだけではなく実際にそれぞれの教室に一定期間配属されて研究に取り組む必要があるというのだ。
研究医養成コースで入学した学生と比べて使える時間が1年分少ないからという理由もあるが、1年次までで教養科目や解剖学を履修している以上、単なる見学よりも自ら研究に取り組んだ方が効率的だという理由でこういう仕組みになっているらしい。
医学部でも1回生の前半は高校の学問の延長のようなことしか学ばないから、その時点で基礎医学系の教室に配属されても確かに何もできないだろう。
配属されるのは解剖学、生化学、生理学、微生物学、薬理学、病理学の6つの教室で、配属期間はそれぞれ2か月。
この3月から8月までを基本コース、9月から来年2月までを発展コースとして、6つの教室に前半・後半で1か月ずつ配属されることになるらしい。
要するに、これから1年間は放課後も土曜日も長期休暇もないということだ。
「どう? ここまでの話で分かんない所はある?」
「は、ははは……。ないです……」
半ば放心状態でそう答えた僕に、ヤミ子先輩はにっこりと微笑んで、
「まあ習うより慣れよって言うし、とりあえず研究をエンジョイしましょ!」
と言って、右手でグーサインをした。
確か英語ではサムズアップとか言うんだっけ。
「今月からいきなり配属されるって話ですけど、最初は病理学教室ですか?」
ヤミ子先輩がオリエンテーションを担当していることから推測して、僕は明日からの配属先について尋ねた。
「いや、病理学は2回生の後半から始まる科目だし私と一緒にやるのは結構後になるよ」
「なるほど……」
確かに部活の先輩の話では、薬理学と病理学の授業は2回生の10月からだった。
「1回生で解剖学は全部学んでる訳だから、今月はずっと解剖学教室ね。4月から生化学と生理学の授業が始まるから来月は生化学教室、再来月は生理学教室という感じ」
「確かに妥当な順番ですね」
「担当する先生方や学生の都合もあって必ずしも授業の順番とは一致してないけど、もう2回生だし何とかなると思う。頑張ってね!」
「はい……」
改めて分厚いシラバスと各種の手引書に目をやり、僕はこれからの1年間の大変さに思いを馳せた。
部費を払う余裕がないので剣道部は今月で自主退部するつもりだったが、おそらくバイトをやっている余裕もないだろう。
短時間のバイトで稼げる金額はたかが知れているが、今後は相当な倹約生活になると思われた。
「あっ、もうこんな時間」
シラバスと手引書をカバンに納めていると、ヤミ子先輩が腕時計を見て驚きの声を上げた。
僕もソーラー充電式の腕時計に目をやると時刻は既に18時を過ぎていた。
「お腹空いてるかどうか分かんないけど、ちょうどいい時間だし親睦も兼ねてファミレスでも行きましょう。もちろん全額おごりでね」
「ありがとうございます!」
先輩が美人だからとかそういう事情を抜きにしても、今晩の食費が浮くのは大きい。
「初対面なのに全額おごって貰うのは申し訳ないですけど、ともかく嬉しいです」
頭を下げてそう言うと、先輩は取り出したスマホを操作しながら、
「全額って言っても私一人が払う訳じゃないし、気にしなくていいよ!」
と言った。
「他にも誰か来られるんですか?」
「うん。本当なら研究医養成コースの先輩を集めたかったんだけど、いきなりの話だったから今回は私も入れて2人だけ。あ、来た来た」
ヤミ子先輩がそう言うと、ミーティングルームのドアが開く音がした。
「さっちゃん、待たせてごめんねー」
先輩がそう呼びかけた先には、長い髪を太めのポニーテールにまとめて背中に下ろした女の子の姿があった。
「さっちゃん……?」
今回はヤミ子先輩が自ら女の子の方に駆け寄っていったので僕もカバンを持ち上げて肩に掛け、速足でその後を追った。
女の子は落ち着いた感じの美人でかわいさはヤミ子先輩にも引けを取らないと思ったが、一つ大きく違う点があって、
「…………」
始終フレンドリーだったヤミ子先輩と異なり、彼女は僕に無言で厳しい目を向けていた。
「はじめまして、新2回生の白神塔也です。えーと……」
あえて自分からフレンドリーに接しようとしたが、名前を聞いていなかった。
「さっちゃん、初対面の人にそういう表情しないの」
ヤミ子先輩が慣れた様子でそう注意すると、
「……ごめん、ヤミ子」
さっちゃんと呼ばれた女の子は初めて口を開いた。
「この子は解川剖良ちゃん。私と同じ学年で、解剖学教室所属の研究医生なんだよ」
「そう。私はヤミ子の一番の親友。さっちゃんって呼ばれてるけど、あなたはまだ呼ばなくていい」
解川先輩が僕に対して露骨に冷たいのはともかく、何となくこの2人はただの友達という間柄ではない気がした。
「じゃ、後輩君を連れてファミレスにレッツゴー!」
ヤミ子先輩がそう言って部屋を出ると、解川先輩は驚くほどの素早さでそれに追従した。
照明とか施錠は大丈夫なのかと思ったが、守衛さんがやってくれるのだろうと判断して僕も慌ててその後を追った。
それから駅前のファミレスまで3人で歩いたが、解川先輩は僕と一切話そうとしなかった。
ヤミ子先輩に対しては比較的よく喋るのだが、僕が会話に入ると視線を逸らしてしまう。
(明日からこの子にオリエンテーションを受けるのか……?)
若干気まずそうなヤミ子先輩の表情を見つつ、僕はさらに暗い気分になった。
冊子といっても中綴じのパンフレットなどではなく幅1cmぐらいの背表紙が付いたもので、かなりの重量感がある。
「ごめん、これも最初に見せとくべきだったね」
「……これ、シラバスですよね?」
大学生の1年間のカリキュラムは年度初めの段階で決まっており、学生はそれぞれの学年の最初に分厚い冊子を渡される。
1年間の授業の説明と時間割などが全て掲載されたこの冊子はシラバスと呼ばれており、医学部は6年制なので医学生は留年しなければ卒業までに6冊のシラバスを手にすることになる。
僕自身も今まで1回生のシラバスしか見たことがないが、このシラバスは1回生から6回生のどのシラバスとも別のものらしい。表紙にも大きく「研究医養成コース 2年次転入生シラバス」と印字されている。
「その通り。普通のシラバスと違ってこのシラバスの内容は学生用ウェブページから確認できないから、こっちも失くさないようにしてね」
「は、はい……」
最近ではこういったシラバスの内容は学生専用のウェブサイトから確認できるのが一般的で、分厚いシラバスを持ち歩く学生はもはや皆無に近い。
このシラバスは通常の2回生のものではなく僕のような珍しい立場の学生だけに適用されるためわざわざ別にウェブページを用意していないのだろう。
「前置きは省くけど、白神君には2回生の1年間、通常のカリキュラムに加えてこのシラバスにあるカリキュラムをこなして貰います。大学によっては研究医養成コースの学生は講義を一部免除されたりするけど、この大学にそういうシステムは一切ないから」
2回生のカリキュラムは後半に入るまで教養科目しかない1回生よりもずっと忙しいと聞くが、僕はそれを全部こなした上でさらに追加のカリキュラムを受講するらしい。
学費減免の条件は卒後の義務だけだと思っていたので、僕は引き返せないタイミングになって焦り始めていた。
「あの、追加のカリキュラムって具体的にはどんな……?」
恐る恐る尋ねると、ヤミ子先輩はにっこりと微笑んで、
「心配しなくていいよ。放課後と土曜日は基本的に毎日研究棟に来て、基礎医学系の教室で研修を受けて貰うだけだから!」
「ま、毎日……?」
大学といえば放課後は自由時間で週休2日制のはずなのだが、その常識は通用しなくなるらしい。
それからヤミ子先輩は呆然とする僕に対し、2年次の追加カリキュラムについて一通り説明した。
まず前提として、入試の段階から研究医養成コースで入学した学生は1年次に基礎医学系の各教室を見学し、2年次から希望する教室に配属されて学生研究を開始する。
その一方、2年次から研究医養成コースに移った学生は事情がかなり異なる。
基礎医学系の教室でオリエンテーションを受けた上で来年度からの配属先を決めるのは同様だが、オリエンテーションはただ見学するだけではなく実際にそれぞれの教室に一定期間配属されて研究に取り組む必要があるというのだ。
研究医養成コースで入学した学生と比べて使える時間が1年分少ないからという理由もあるが、1年次までで教養科目や解剖学を履修している以上、単なる見学よりも自ら研究に取り組んだ方が効率的だという理由でこういう仕組みになっているらしい。
医学部でも1回生の前半は高校の学問の延長のようなことしか学ばないから、その時点で基礎医学系の教室に配属されても確かに何もできないだろう。
配属されるのは解剖学、生化学、生理学、微生物学、薬理学、病理学の6つの教室で、配属期間はそれぞれ2か月。
この3月から8月までを基本コース、9月から来年2月までを発展コースとして、6つの教室に前半・後半で1か月ずつ配属されることになるらしい。
要するに、これから1年間は放課後も土曜日も長期休暇もないということだ。
「どう? ここまでの話で分かんない所はある?」
「は、ははは……。ないです……」
半ば放心状態でそう答えた僕に、ヤミ子先輩はにっこりと微笑んで、
「まあ習うより慣れよって言うし、とりあえず研究をエンジョイしましょ!」
と言って、右手でグーサインをした。
確か英語ではサムズアップとか言うんだっけ。
「今月からいきなり配属されるって話ですけど、最初は病理学教室ですか?」
ヤミ子先輩がオリエンテーションを担当していることから推測して、僕は明日からの配属先について尋ねた。
「いや、病理学は2回生の後半から始まる科目だし私と一緒にやるのは結構後になるよ」
「なるほど……」
確かに部活の先輩の話では、薬理学と病理学の授業は2回生の10月からだった。
「1回生で解剖学は全部学んでる訳だから、今月はずっと解剖学教室ね。4月から生化学と生理学の授業が始まるから来月は生化学教室、再来月は生理学教室という感じ」
「確かに妥当な順番ですね」
「担当する先生方や学生の都合もあって必ずしも授業の順番とは一致してないけど、もう2回生だし何とかなると思う。頑張ってね!」
「はい……」
改めて分厚いシラバスと各種の手引書に目をやり、僕はこれからの1年間の大変さに思いを馳せた。
部費を払う余裕がないので剣道部は今月で自主退部するつもりだったが、おそらくバイトをやっている余裕もないだろう。
短時間のバイトで稼げる金額はたかが知れているが、今後は相当な倹約生活になると思われた。
「あっ、もうこんな時間」
シラバスと手引書をカバンに納めていると、ヤミ子先輩が腕時計を見て驚きの声を上げた。
僕もソーラー充電式の腕時計に目をやると時刻は既に18時を過ぎていた。
「お腹空いてるかどうか分かんないけど、ちょうどいい時間だし親睦も兼ねてファミレスでも行きましょう。もちろん全額おごりでね」
「ありがとうございます!」
先輩が美人だからとかそういう事情を抜きにしても、今晩の食費が浮くのは大きい。
「初対面なのに全額おごって貰うのは申し訳ないですけど、ともかく嬉しいです」
頭を下げてそう言うと、先輩は取り出したスマホを操作しながら、
「全額って言っても私一人が払う訳じゃないし、気にしなくていいよ!」
と言った。
「他にも誰か来られるんですか?」
「うん。本当なら研究医養成コースの先輩を集めたかったんだけど、いきなりの話だったから今回は私も入れて2人だけ。あ、来た来た」
ヤミ子先輩がそう言うと、ミーティングルームのドアが開く音がした。
「さっちゃん、待たせてごめんねー」
先輩がそう呼びかけた先には、長い髪を太めのポニーテールにまとめて背中に下ろした女の子の姿があった。
「さっちゃん……?」
今回はヤミ子先輩が自ら女の子の方に駆け寄っていったので僕もカバンを持ち上げて肩に掛け、速足でその後を追った。
女の子は落ち着いた感じの美人でかわいさはヤミ子先輩にも引けを取らないと思ったが、一つ大きく違う点があって、
「…………」
始終フレンドリーだったヤミ子先輩と異なり、彼女は僕に無言で厳しい目を向けていた。
「はじめまして、新2回生の白神塔也です。えーと……」
あえて自分からフレンドリーに接しようとしたが、名前を聞いていなかった。
「さっちゃん、初対面の人にそういう表情しないの」
ヤミ子先輩が慣れた様子でそう注意すると、
「……ごめん、ヤミ子」
さっちゃんと呼ばれた女の子は初めて口を開いた。
「この子は解川剖良ちゃん。私と同じ学年で、解剖学教室所属の研究医生なんだよ」
「そう。私はヤミ子の一番の親友。さっちゃんって呼ばれてるけど、あなたはまだ呼ばなくていい」
解川先輩が僕に対して露骨に冷たいのはともかく、何となくこの2人はただの友達という間柄ではない気がした。
「じゃ、後輩君を連れてファミレスにレッツゴー!」
ヤミ子先輩がそう言って部屋を出ると、解川先輩は驚くほどの素早さでそれに追従した。
照明とか施錠は大丈夫なのかと思ったが、守衛さんがやってくれるのだろうと判断して僕も慌ててその後を追った。
それから駅前のファミレスまで3人で歩いたが、解川先輩は僕と一切話そうとしなかった。
ヤミ子先輩に対しては比較的よく喋るのだが、僕が会話に入ると視線を逸らしてしまう。
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