気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年5月 生理学基本コース

54 気分はオープンキャンパス委員

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「お疲れー。白神氏、試験勉強ってそろそろ始めてる?」
「んあ?」

 2019年5月15日、水曜日。時刻は16時15分。

 分子生物学の講義が終わり壬生川さんは女子バスケ部の練習に行くらしいのでさっさと帰ろうとした僕は、友達であるところの柳沢やなざわ君に声をかけられた。

 彼の座席は第二講堂の左ブロックの最後列で少し近づけば簡単に話しかけられる距離である。

「試験勉強って今やってる3科目のやつだよね。6月17日からだっけ?」
「そうそう。生化と生理と分生」

 生化学・生理学・分子生物学の3科目の試験は6月17日から連日行われることになっていて、僕もついこの間分子生物学の試験に備えて参考書を買ったばかりだった。

「まだ何もやってないけどよく考えるとそろそろ1か月前だよね。流石に勉強した方がいいかな」
「俺もそう思ってて、そのうち勉強会とかやりたい。ただ、色々あって弓道部は辞めちゃったから部活の友達とは一緒にやれなくて……」
「ああ……」

 随分昔の話に思えてしまうが、柳沢君は2か月前に弓道部の3回生である解川ときがわ剖良さくら先輩に告白してあっさり撃沈されていた。

 彼は先輩目当てで弓道部に入ったのでそのうち辞めてしまうだろうと剖良先輩本人から予言されていたが、実際にそうなったらしい。

「僕も剣道部辞めてから同じ状況だし、ぜひ一緒に勉強会したいです。今度自習室予約しとこうか?」
「ありがとう! また都合のいい日を相談しよう」

 僕が柳沢君の告白シーンを見ていたのは当然秘密なので、彼が弓道部を辞めた件については完全にスルーした。

 僕としても勉強会には今年度も参加したいので柳沢君の申し出は素直にありがたいと思った。


「おいおい何だよ、柳沢は今から試験の心配か?」

 2つ隣の座席からいつも元気なラグビー部員の林君が会話に加わってきた。

「うん。生化は毎年全部新作問題だっていうしそろそろ心配になってきて」
「過去問は確かに大事だけどよ、普段から真面目に授業聞いてりゃ直前にざっと見るだけで十分なんじゃないの?」
「うう、強者の余裕だ……」

 柳沢君は弱々しい声でそう言った。

「やっぱり林君は凄いね。生化学なんて高度過ぎて意味不明の講義もあるのにいつも起きて聞いてるし。僕らみたいなのは居眠りしちゃうのに」
「いやー、それほどでも。俺だって全部分かって聞いてる訳じゃないけど先生の喋ってる内容から板書を取っとくと便利だよ」

 少しわざとらしい感じで賞賛してみると、案の定林君は乗ってきた。

「じゃあ素晴らしい板書ノートを作っている林君に今回は色々教えて貰おうかな。柳沢君、林君にも参加して貰っていいよね?」
「もちろん! 凄く助かる!!」
「いやちょっと待てよおい、まあ俺もそれぐらいは協力するけどさ……」

 林君は上手く乗せられたことに気づいて少し焦っていたが一緒に勉強会をやることに関してはまんざらでもないようだった。

 ラグビー部は運動部の中でも特に部員同士の仲が良いので部内でも勉強会は開いているらしいが、練習のハードさから成績の良い学生は少ないので林君は教えるばかりになっているらしい。

 ある程度対等な立場で参加できる勉強会にも魅力を感じるのが人情というものだろう。


「えーと……あっ、白神君! ちょっと今いい!?」

 1日の授業が終わり半分ぐらいの学生は立ち去りつつある教室に、誰かが新たに入室してきた。

 僕に向けて呼びかけられた声には聞き覚えがあり、振り向いた先にはクリーム色のシャツに白色のジャケットを羽織ったボブカットの女の子が立っていた。

「ヤミ子先輩じゃないですか。こんな所にどうして」

 先輩の姿を見て、なぜか柳沢君が浮足立った感じで反応した。

「あれっ柳沢君まで。こんにちは、ちょっと白神君に伝えたいことがあって」
「知り合いなんですか?」

 僕が尋ねると、柳沢君は以前から写真部に所属しておりヤミ子先輩とは部活の先輩後輩の関係だと教えてくれた。

「ここ最近はあんまり集まってないけど、また写真の発表会とかあったら来てね。じゃ、ちょっとだけ白神君お借りするから」
「え、ええ……」

 柳沢君の声を背に、僕は先輩に連れられて第二講堂前のロビーまで移動した。


「お疲れ様です。僕に用事っていうのは?」
「7月にこの大学のオープンキャンパスがあるんだけど、良かったら白神君も参加してくれないかなと思って。私の他にさっちゃんもヤッ君もマレー君も来るし、日曜日が1日潰れるけどお昼ご飯タダな上に5000円貰えるよ」

 質問するとヤミ子先輩は手短に用件を伝えてくれた。

「本当ですか!? 予定空いてたらぜひ参加したいです!」

 昼食代が浮いた上に5000円のバイト代が出るのは大きいと思い、僕はそう返事した。

「そう言ってくれて助かるなー。受験生や保護者の相手で疲れるけど結構楽しいのに、時給にしたら600円切るからって割と断られちゃうんだよね」
「まあ、医学部基準だとかなり安いですよね……」

 医学生は家庭教師のバイトだと時給数千円を稼ぐ人物も多く、東大や京大の医学生だと時給8000円以上を取る場合もあるというから確かに時給600円を切るバイトは敬遠されることもあるだろう。

「僕は日給で5000円貰えれば十分嬉しいですし、知り合いの先輩が多く参加されるなら安心です。ぜひよろしくお願いします」
「りょーかい。パンフレット渡しとくけど、細かい日時とかは大学の広報センターから連絡されるからこのアドレスに学年と名前を書いてメールを送ってみて。そうすればオープンキャンパス委員として自動的に登録されるから」

 先輩はそう言うとポケットからボールペンを取り出し、パンフレットの裏にメールアドレスを書くとそのまま僕に手渡した。

「ありがとうございます。またメール送っときますね」
「お願いします! じゃ、柳沢君にもよろしくねー」

 先輩は元気そうに言うとそのまま軽く会釈して研究棟の方に歩いていった。これから学生研究の予定があるのかも知れない。


「なあなあ、白神氏はヤミ子先輩とは仲いいの?」

 パンフレットを持って第二講堂に戻ると、柳沢君が興味津々といった様子で話しかけてきた。

「仲が良いっていうか学生研究では色んな先輩に教えて貰ってて、ヤミ子先輩もその一人だよ。友達というより仕事仲間って感じかな」
「そうかー。これといって親交がある訳じゃないのか」
「何だ、柳沢はあの先輩に気があるのか?」

 僕が聞こうとしたことを林君がズバリと切り出してくれた。

「写真部では1回生の頃からちょくちょく顔を合わせてたんだけど、美人なのに気さくな感じで最近すごくいいなあって思い始めて」
「へ、へえ。まあそれはその通りなんじゃない?」

 剖良先輩に振られた2か月後に剖良先輩と同じ人を好きになるというのは色々危険だが、彼はそういった事情を一切知らないので仕方ない。

「どうせ部活で一緒なんだしまたアプローチしてみりゃいいじゃねえか。柳沢はああいう落ち着いた感じの美人が好きなんだな」
「だからこそ慎重に行こうと思ってるけどね。ははは」

 実際に落ち着いているかどうかは置いておいて、ヤミ子先輩も世間からは剖良先輩と同じような部類に見えているのだろうか。


「俺にはミーちゃんがいるし白神はカナやんと壬生川さんに二股かけるプレイボーイだし、柳沢も頑張れよ!」
「林君、何度も言うけどそれは誤解だ……」

 それからしばらくどうでもいい話題で盛り上がり、勉強会は来週水曜日の放課後に開催することになった。

 ちなみにミーちゃんというのは林君の彼女(関可大学文学部2回生)のあだ名で、僕もこれまで何度か惚気のろけ話を聞かされていた。


 それはそれとして、恋愛にせよ試験勉強にせよ学生生活のスパイスは楽しんで損することはないと僕は思う。
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