気分は基礎医学

輪島ライ

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2019年6月 薬理学基本コース

75 気分はカミングアウト

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 それから昼食を終えて大学まで戻りいつものように図書館のコンピュータルームに入ったが、先輩は椅子に座っても意気消沈したままだった。

 もはや背筋も伸びておらず真っ白な灰になったボクサーのような感じだ。


「……じゃあ、始めようか。パソコン起動してみて」
「いや、先輩。その前にお聞きしたいことがあります」

 流石にこのテンションで指導されるのは耐えられそうにないので、僕は椅子に座ったまま意気消沈しているヤッ君先輩に呼びかけた。


「えーと、何……?」
「先輩、さっき天草君と華山さんに会ってから明らかに元気ないですよね。彼らと何かあったんですか?」
「…………」

 クリティカルな話題をいきなり切り出すと、先輩は驚いた表情で沈黙した。


「いつもお世話になってるのに申し訳ないですけど、ここまで落ち込んだ状態で指導して頂いてもいいデータを出せるとは思えないんです。もし何か悩みがあるなら僕でよければぜひ相談してください」
「……ごめん、いくらショックなことがあったからって後輩の前でこんな姿を見せるのはよくないね」

 先輩はそう言うと我に返り、背筋を伸ばして椅子に座り直した。


「白神君にならボクの悩みを相談できると思う。でも、ここだと他の人が来るかも知れないから図書館の自習室で話してもいい?」
「ええ、どうぞ。どこでもお付き合いしますよ」

 笑顔で答えると先輩も少し元気を取り戻したようで、そのまま椅子を立ち上がってコンピュータルームを出た。

 図書館棟の4階には5・6回生専用の自習スペースがあるが図書館にはそれ以外にも自習室が用意されており、2名以上の学生がいれば利用時間を申告して空いている部屋を使えることになっていた。

 大学の講義実習棟の小教室も教務課で手続きすれば自習室として利用できるが、図書館の自習室は存在自体知らない人が多いため試験前には穴場として重宝されていた。


 ついでに自習室でデータ出しも済ませようと、ヤッ君先輩は部屋の利用申請をすると同時に図書館の受付でノートパソコンを借りた。

 そのまま図書館棟の3階に上ると僕らは広々とした図書館の隅にある一室へと入った。


 今のうちに充電しておこうとノートパソコンのACアダプターをコンセントにつないでいるヤッ君先輩に僕は声をかけた。

「お疲れ様です。ところで先輩のお悩みっていうのは?」
「今から話すね。……お願いなんだけど、今から聞いた話は誰にも言わないでくれる? 学内でも何人かの友達は知ってるけど、知らない人に話されたくはないから」
「もちろんです。絶対に口外しません」

 力強く答えると、先輩は安心した表情で自習室のテーブルに面した椅子に腰かけた。


「じゃあ早速。……あのね、ボク、ヒデ君のことが好きなの」
「ふぁっ!?」

 思わず変な声が出て、先輩は慌てて静かにするよう合図した。

「すみません、自習室では静かにすべきですよね」

 頭が混乱してどうでもいい台詞を口走る僕に先輩は続ける。


「ヒデ君は皆月中高の友達って言ったけどボクは高校生の頃から彼のことが好きで、でも結局在学中には言い出せなかったの。彼とは大学生になってからもちょくちょく会ってて、いつか好きだって言おうとしてたんだけど、まさか彼女ができたなんて。それもボクに何にも言わずにさ……」

 一息にそう言うと抑えていた感情が溢れ出したのか、先輩は涙を流し始めた。

「だってヒデ君、ボクに女の子の話をしたことなんて一度もなかったんだよ。ボクだって恋愛の話はしてなかったけど彼も同じような人だって勝手に信じてた。……本当にバカみたい。こんなことになるならボクの気持ちって何だったんだ」

 涙声で話し続けると、先輩はそのまま自習室のテーブルに突っ伏して泣き始めた。

 先輩はこれまで人前で怒ったり不良を叩きのめしたりしたことはあっても他人に弱い所を見せたことはなかったので、僕はその姿に驚いた。


「先輩……」
「どうせ白神君だってボクのこと気持ち悪いって思ってるでしょ。こんな外見だから男らしくないとかオカマとか散々言われてきたけど、日本人ってホモとかゲイになると途端にドン引きするもんね。もう嫌だ、こんな人生」
「先輩、聞いてください!」

 半ば自棄やけになりかけていた先輩に僕は我慢できず大声で呼びかけた。


「白神君……」

 大声に驚いたのか先輩ははっとした表情でテーブルから顔を上げた。

「僕がいつ先輩のことを気持ち悪いなんて言ったんですか。男性なのに男性が好きでも先輩の自由じゃないですか! 僕は人の性的志向を馬鹿にしたりしませんし、先輩をホモだって言って馬鹿にする奴がいたら許しません。だから落ち着いてください」

 強い調子で言葉を投げかけると、先輩は次第に冷静さを取り戻した。


「ありがとう、白神君。ボク、ヒデ君に彼女ができたショックでおかしくなってた」
「失恋して傷つくのは当たり前です。良かったら、これまで天草君とどう付き合ってきたのか教えて頂けませんか?」
「うん。……あのね、ボクが中学生の時に……」

 それから先輩はこれまでの人生での天草君との関係について詳しく話してくれた。


 天草君は大柄で頼りになりそうな雰囲気だが実は気が弱く、中学生の頃はクラスでいじめに遭っていたという。

 ヤッ君先輩と天草君は皆月中学校の化学研究部で交流があり、中学2年生の時に何人ものクラスメートに教室のロッカーに閉じ込められて棒で叩かれていた天草君を偶然見かけたヤッ君先輩が助けた。

 それまで単に同じ部活の知り合いだった彼らはそれから仲良くなり、高校生になった頃には親友とも呼べる間柄になっていた。


「大学受験でボクは畿内医大に研究医養成コース入試で合格して、ヒデ君は1年浪人したの。彼が予備校に通ってる間も時々会っては励まして、関可大学に合格した時は真っ先にボクに連絡してくれた。大学生になったばかりのヒデ君を驚かせたくないから彼が2回生になったら告白しようと思ってたんだけど……」
「なるほど、タイミングがちょっと遅かったんですね」
「うん……」

 天草君が華山さんと付き合い始めたのは先月とのことなので、せめて4月に伝えていれば間に合ったかも知れない。


「まあヒデ君は結局女の子と付き合ってる訳だし、いつ言ったって結果は同じだっただろうけど。そう考えるとあまり落ち込まなくてもいいのかな」
「いえ、先輩。それは違うと思います」
「えっ?」

 先輩の考えには一か所見落としがあったので、僕はその点を説明した。


「確かに天草君は華山さんと付き合えて喜んでますけど、だからって男性を好きになれないと決まった訳じゃないでしょう。世の中にはバイセクシャルの人だって少なくないんですから、先輩も天草君を異性愛者だと決めつけてはいけないと思います」
「確かに、そういう考え方もあるね」

 可能性としては低いかも知れないが、女性を好きになれるから男性を好きになれないと決めつけるのは間違っている。

「だから先輩も今の段階で天草君のことを諦める必要はありません。もちろん彼女がいる男性にはアプローチすべきではないですけど、もし天草君が華山さんと別れたらその時は改めて思いを伝えてみてもいいんじゃないですか?」
「うん。ヒデ君がバイかどうかは分からないけど白神君の意見はもっともだと思う。今から諦めずに、彼とは今後も仲良くしておくね」

 先輩はそう言うといつものニコニコ笑顔に戻ってくれた。


 それから先輩は機嫌を直して、ノートパソコンでデータ出しの指導をいつも通り行ってくれた。

 色々アクシデントがあったせいで終わった時には17時になっていたが、先輩の悩みを聞いてあげられたので帰りが遅れたことを残念には感じなかった。

 その後は一緒に帰ることにして僕らは大学を後にした。


「今日は話を聞いてくれてありがとう。白神君なら信頼できると思ったのは間違いじゃなかったみたい」
「こちらこそそう言って頂けて光栄です。他の人には絶対に話しませんから、また何かあれば相談に乗らせてください」

 ちょうど阪急皆月市駅前の横断歩道まで歩くと先輩はありがとう! と元気よく答えて、そのままJRの駅へと手を振って去っていった。

 ヤッ君先輩のカミングアウトには驚いたけれど、いつも明るい先輩にはこれからも前向きに生きていって欲しいと思った。
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