気分は基礎医学

輪島ライ

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2021年10月 大人のカンケイ

第3話 恋する乙女の……

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「ふぁーあ……珠樹、仕事してるん?」

 野球観戦の翌日、スマホのアラームで目覚めたうちは自室のベッドから裸のまま這い出した。

 シャツとパンツを着ただけの珠樹はベッドに腰かけて自分のスマホをいじっていて、その様子は真剣そのものだった。


「昨日の深夜に生徒から数学の質問が来てて、ちょっとした問題やからヒントだけ教えとこう思って。こんな時にごめんな」
「全然ええで。平日の朝からイチャイチャしてる場合ちゃうし」

 昨夜は珠樹を連れて自宅に戻り、両親も交えて4人で夕食を取った。

 おとんもおかんもうちと珠樹との交際のことは公に認めてくれていて、珠樹が連絡なしに泊まりに来ても当たり前のように許してくれる。

 お互い大学を卒業したら結婚する約束になっているから珠樹はうちの部屋で寝泊りしていて、夜は必然的にそういうことになる。

 本当は寝起きのキスをしたかったけど、アルバイトに励んでいる珠樹の邪魔はしたくないのでうちは毛布から抜け出すと下着を身に付けた。


「質問対応は偉い思うけど生徒と個人的に連絡取るんってアウトなんちゃうの? あと時間外労働にならへん?」
「生徒との連絡自体は校舎の共有アカウントでやってて、会話内容は全部塾長先生がチェックしてるからそれは大丈夫。校舎の営業時間外は本当はあかんのやけど、特別な事情があるから塾長に特別手当貰ってやってる。正直しんどいけどな」
「へー、ちゃんとしてるんやね。特別な事情って何なん?」

 珠樹がメッセージアプリの連絡先を生徒とこっそり交換しているという訳ではなさそうやったけど、「特別な事情」というのは気になったのでうちは質問を続けた。


「さっき連絡してた相手は高校2年生の女の子なんやけど、うちの校舎から京大の医学部を目指してんねん。ものすごく勉強熱心な子やし、京大医学部に現役合格してくれたらうちの校舎のすごい実績になるから塾長先生がちょっとぐらいは勘弁したってくれって……」
「それは大変やね。特別手当貰えるし、頻繁に連絡してくるとかやないならまあええんちゃう?」

 どこの塾・予備校にとっても生徒が京都大学の医学部医学科に合格というのはものすごく貴重な実績なので、うちは塾長先生の気持ちが理解できた。


「あはは、まあ俺は全然困ってないからこのまま頑張って指導するわ。先にシャワー浴びてくるから適当に休んどって」
「OK、終わったら教えてな」

 珠樹はそう言うとパジャマを着て部屋を出ていき、うちも今のうちに服を着ておこうと思った。

 そして床に転がっているパジャマのズボンに手を伸ばそうとしたうちはベッドにられている珠樹のスマホに注目した。

 付き合っている間柄とは言え普段は珠樹のスマホを見てみたいなどとは思わへんけど、先ほどの話の「高校2年生の女の子」という部分は気になった。


 ほとんど反射的に珠樹のスマホを手に取り自分と同じパスコードで画面ロックを解除すると、うちは企業用のものらしいメッセージアプリを開いた。

 最新のメッセージの欄には確かに女の子の名前があって、それをタップすると珠樹と「高校2年生の女の子」とのチャットルームが開いた。



>生島先生、この問題分かりますか? 私立医大の過去問らしいので先生なら分かるかなと……

>今度のミーティング楽しみにしてますね。ちょっとお洒落して行こうかな、なんちゃって!

>先生って受験生の頃はどんな問題集使ってました? オススメなのがあればこっそり教えてくれません?



「何これ……」

 女子高生らしいキャピキャピしたメッセージに見えても、うちには分かる。

 相手の個人情報に触れつつの質問、冗談めかしたアプローチの予告、意味もなく特別感を出そうとする修飾。間に挟まるかわいいスタンプ。



 これは、恋する乙女のそれだ。



 思わずスマホを叩き割りそうになったけど、珠樹は相手の意図に気づいているらしくメッセージへの回答はあくまでビジネスライクだった。

 ログを見ていくと相手の女子高生はうちの存在も知っていて、珠樹は自分に恋人がいるとはっきり伝えてくれているようだった。


 心配することは何もないはずやけど……


「カナちゃん、シャワー終わったで。今開けてもええ?」
「!!」

 扉をノックした珠樹の声に、うちは慌ててアプリを閉じてスマホを元の場所に置くと素早く毛布に潜り込んだ。


「あれ、どしたん? 二度寝してる?」
「珠樹、チューして。おはようのチュー!」

 頭の中がわやくちゃになったまま、うちは珠樹に再びのキスをせがんだ。


「何や、そんなこと。やっぱりカナちゃんはかわいいわ」
「んー……」

 珠樹は笑顔で毛布を引っぺがすとベッドに倒れ込みながらキスをしてくれて、うちは珠樹の身体を強く抱きしめた。


 先ほど見たメッセージのやり取りが脳内に浮かんで、うちはその光景をかき消そうと珠樹とずっと抱き合っていた。
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