私はビブリオテカ ―― 終わりなき博物誌編纂の過程で泣いて足掻いて食べて笑って、生きる姿に幸あれ ――

屑歯九十九

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第壱章 ―― 不愚対天 ――

第030話 ―― 介けに入る

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【前回のあらすじ――。大学校の教員レクラウスが、ノックの立場の安全を保障することを告げた。それに反発するバニスは、自分が持ってきた貴重な金嵌推薦状という入学試験に必要な書状を引き裂き覚悟と大学校に対する不信感を示した。その行いに部屋から見ていたルブトンさえも愕然とした】










 表情に怒を発露し、鼻息が荒くなるルブトンに対して、隣の青年は平静に見える。いや、作り笑みで装っている。

「あれ1枚のために地図が書き換わったこともある……。仔細は忘れたが、る国の領主が領地を接する敵国に恭順した見返りに与えられたそうな。ただしその後、領地だけでなく、皇族の血も献上されたのだが……」

「そして……10万ゲランほどの価値がある」

 とルブトンが震えた声で言う。

「陛下が定めたか? 箔付けのためにせよ事実なら、お前の国で飢饉の年を無事に越せるな」

「ええ……シャレオンの騎士を5万人動員できる金額でございます……」

「……国の全戦力じゃないのかそれ?」

 2人のやり取りなど露も知らないバニスは、ただの羊皮紙を捨てる。

「これで。心置きなく立ち向かえる。ノック……遠慮はいらん。貴方あなたもです学校の御仁ごじん。戦うなら受けて立ちます」

 レクラウスは、手で覆った面を上げる。
 指の間では、目が爛々らんらんと冷たい光りを放つ。冷気を宿す陽炎かげろうが全身を縁取る。
 彼の足元の影が、薄っすらと残していた芝生の色を完全な黒に染め、そして膨張する。
  
 バニスは戦慄し、半身の姿勢で身構える。
 生徒達も急ぎ撤退する。
 笑って見ていた者も表情を消す。
 
 まずいですね……、とルブトンは冷静に事態を見て部屋の奥に引く。
 そうだな……、と青年も追従した。
 
 テッサが少年の腕から跳ね上がると、いきなり、その大きさを倍にして、驚くノックの頭を開いた蓋でくわえる。
 バニスは箱の突然の挙動に脅威を覚える。
 レクラウスは、無反応で感情がうかがえない。
 ノックは暴れるが逃れられず、そのまま箱が回るのに合わせて振り回される。
 誰もが異変に恐慌する中、屋根の上で片膝を立てて傍観する老人だけは、微苦笑を浮かべる。

 猫足でステップし、独楽こまのように回転して離れていく箱をバニスは見送る。

「賢いな……ますます興味が湧いてきた」

 と語るレクラウスの声は、地面から這って人の耳に滑り込み、心臓に巻き付く。
 バニスは片足を後ろに引き、いよいよ戦闘の意思を鮮明にする。
 両手で自身の顔を押さえつけるレクラウスは、伸ばした首を傾げ、首を垂れるような姿勢で一歩踏み出し、地面でうごめく影が体を這い上がるのを許す。

「これは私の責任だ。ならば最後まで……、責任を果たさねばなるまい。君も覚悟はできているようだしな……」

 本当に先ほどまでの人物なのか、いやそもそも人間なのかすら分からない気配を全身から立ち上る黒い煤で視覚化するレクラウス。
 バニスはただ緊張に身をやつし、言葉も出ず、耳を傾ける。

「無論。私は君に害意はない。穏当に済むなら、この場はお互い矛を収めて、ノックとその従者とのわだかまりを解消するのが一番だと思っている。だが、君が抵抗するなら……。無理にでも君を拘束して、話し合いの席についてもらうことになる。その過程で手足を少し不自由にさせてしまうかもしれないが……。既に入学の資格を手放したし。健康面は優先順位を下げさせてもらおう……」

 バニスがついに口を開く。 

「僕の……心は決しています。故に、私もあなたに傷を負わせてしまうかもしれませんが。恨まぬように……」

「ならば……来たれ……奈落の閂……」

 その瞬間、上階の回廊に巡らされた欄干らんかんを蹴って、人が宙を舞う。
 上体を起こしたレクラウスの頭頂部に、回転を伴って振り下ろされたかかとが墜落した。
 石に雷を落としたみたいな轟音が響き渡るが、それは単純な暴力が、生きた人間の頭蓋骨を打った音である。
 それ以外のなんの現象もない。
 ただの暴力の無慈悲な威力が自然現象を錯覚させる音を響かせた。

 レクラウスは膝からくずおれ、彼の顔面を受け止めた影の淀みは蒸発して、塵の一片も残さず消えてしまい、後に残ったのは尻を突き出して芝生にうつぶせとなったレクラウスと、回転踵落としを決めた人物だけだった。

「まったくもぉ————! なにやってんだよレクラウス」

 子供っぽく言ったのは、実にゆったりとした服装の青年。飾り気のない履物と上着は、長い切れ込みの各所を結び、形を服の体裁に整え、袖と裾を帯で縛っている。
 褐色の肌に赤っぽい蓬髪ほうはつ。少年のようなまぶしい面立ちは、残念ながら不満げな表情で少し輝きを失っている。それも太陽と比べればの話だ。彼は少なくとも、その場の若人の誰よりも溌溂はつらつとした雰囲気を放っていた。
 人々も、事態の急変を察して、戻ってくる。
 そのころになってようやく箱が開き、解放されたノックは呼吸を再開する。
 地にうずくまっていたレクラウスは手を支えに身を起こす。芝生から顔が離れてから立ち上がるのは一瞬で、暴力の被害者は一歩下がる下手人と対面する。
 
「何をするヴァサンタ!」

 真正面どころか、鼻同士がぶつかるほどの近距離から怒声を浴びた青年ヴァサンタは、大音量が過ぎ去ると閉ざした目と口を全開にして声を上げた。

「それはこっちのセリフだよ! こんな往来で教師である君が何をするつもりだったの!?」

 反論にたじろぐレクラウスは視線を逸らし落着きと羞恥を取り戻す。

「わ、私は事態を収拾しようと努めただけで……」

「うんうん、そうだろうね。けど、ここは双方矛を収めて」

 腕を組み考え深げに告げるヴァサンタ。
 しかしバニスは納得していない。

「お待ちを、私は……」

 苛烈な面持ちで踏み出したバニスは、後頭部を地面に叩きつける。両脚は宙に浮き、顔面はヴァサンタの手に掌握されていた。
 踵が草に落ちてやっと自身の状態を理解したバニスは混乱と痛みと衝撃に何もできない。
 遠くから状況を見ていたノックは、間抜けと言って差し支えない茫漠とした面持ちで、へ? と口走るばかりだ。

 ヴァサンタは表情を消し、ただ眼だけを見開き、抑え込んだバニスの血走る目を覗き込み、少年が握り締めてくる手首のことも気に留めない。
  
「少しが過ぎるよ坊や……。レクラウスは賢いし優しいから、どんなに君が馬鹿で救いようがなくとも手加減してくれる。けど、僕は君が死んだって正直どうでもいいからね?」

 バニスは抗うが、逆に頭が芝生にめり込む。
 おい……ッ、とレクラウスが割って入る。
 ヴァサンタは目をつむり、眉間に気難しいしわを寄せ、溜息をついた。

「まあ、それでもここはレクラウスの顔を立てて、君に機会を上げよう」

 やっと顔から手が外れたバニスは即座に起き上がり、真っ当な深呼吸をしてから、機会? と復唱する。
 片膝立ちから立ち上がるヴァサンタは衆目を見比べた。

「ああ、話は大体遠巻きから聞かせてもらった。坊やは、そこのミミックの身柄を預かりたいんでしょ?」

「坊やではありません……ッ。私の名はバニス・ティエフェール!」

 怒りを抱えてもなお冷静に勤めるバニスの姿は、騎士道の片鱗が垣間見えた。
 ヴァサンタは値踏みする目で微笑む。

「そう。名乗るほどの家柄なら……。正々堂々戦って権利を勝ち取る機会をあげる。大学校の一教諭である僕がね」
 
「おい、待てヴァサンタ。 まさか……」
 
 と一歩近づくレクラウスだったが、いきなり眼前に迫ったヴァサンタから顔を引く。
 しかし、艶やかな青年の得意満面は離れない。
 ヴァサンタは。

「じゃあレクラウス君。君はこの事態を収拾できるのかな? 彼を説得できるの? 無傷で……」

 それは……、と押され気味のレクラウスは顔を背け苦悶に満ちた目になる。
 ヴァサンタはたおやかに鼻を鳴らし、身を引くと、注目を集めるつもりで軽やかにきびすを返し、両腕を広げる過程で、箱を指さす。

「あのミミックが世に名高い盗人ミミックかは、さておいて。この学校には生徒諸君もよく知る慣例があるだろう?」

 険しい表情のレクラウスに一瞥いちべつと微笑みを捧げたヴァサンタは高らかに宣言した。

「ここにいる若人わこうど両名には『大学校式:神明決闘しんめいけっとう』を行ってもらおうと思う!」

 おいおい、などとレクラウスは頭を抱えつつヴァサンタに駆け寄った。しかし、相手は意に介さず話を続ける。

「生徒諸君もご存じの通り、この学校には出自も身分も様々な人間が集っている。その中でわだかまりも決して少なくなかった。多種多様な秘儀を学んだ分、影で陰湿な謀略が繰り返され、互いに呪詛を向け合い、時に凄惨な悲劇も起こった」

 衆目の反応はまちまちで、隣で顔を見合わせる素振りも伺える。しかし、同意を示す緩いうなずきが波のように広がってもいた。

「それ故、学校が公式な舞台と公正な審判を用意し、暗闘の日々に終止符を打った! ならば今回も先人の英知に縋ろうではないか。勿論、まだ正式に学友となったわけではない2人に我が校の習慣を適応するのは不適切とも言えるだろう。だが、彼らは少なくとも一時的にではあるが大学校に入る権利を得た、つまり、大学校の管轄に属している。それにバニス君の覚悟を今まさに見せてもらった。彼の意志と熱意に応えなければ、この学校の名利も地に落ちよう。ということで、この件は、この僕! 大学校教員の1人であるヴァサンタ・ガナパティーが預かる! 解せぬものは前に出て名乗り上げろ!」
 








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