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第01章――飛翔延髄編

Phase 56:不注意の結果

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《ガンスプレー》Smの投薬のために使う空気銃の一種。Smの固くて分厚い表皮であっても効果的な投薬を可能にするため考案された。ザナドゥカでは重火器、そして特に弾薬に対して高い関税が課されるので、武装のために購入する者もいて、中には遠距離武器として改造したものも出回っている。考案者のアレキサンダー・ホルシュタイン博士の殺害に用いられたことでも有名である。最近では手回し式空気圧縮が台頭して、手押し式のシェアを奪いつつある。















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 狭い有機的な空間に捕らわれる少女は、スロウスが発生させる、組織を噛み砕く音に気を揉む。
 無線から先達であるベンジャミンの声が発せられた。

『ソーニャが細胞に溺れて窒息したら元も子もないからな。中の連中には聞こえてないことを祈るか。その場を撤退するか』

「撤退は無理」

『いざとなったらするしかないぞ。でなければ、今のところ窓には気をつけろ』

「そういえば窓が見当たらない。たしか、肋骨の間にあるって」

『セマフォに送った情報を参照しろ』

 了解、と言って神妙な面持ちのソーニャは、さっそくセマフォを開き、ミニッツグラウスの青写真を確認。肋骨に相当する箇所の間に並んでいる窓の存在と現実の組織を見比べる。
 噴霧器で周囲の組織に薬液を噴霧し、ライトによって垂直に膨らむ組織に包まれた肋骨を明るみにする。
 成長する組織の抵抗で作業は停滞し始める。それでも、足元を切り進め、肋骨の合間を埋める軟組織に脂肪の塊のような盛り上がりを見出せた。

「この塊、位置的に窓だよね……。思った以上に近かった。それなのにガンスプレーをガンガン使ってたよ」

『さすがにガンスプレーの音が機体の駆動音に勝るとは思えないが、まあ、注意するに越したことはない。あと投薬量も気になるんだが』

 ソーニャはタンクに埋め込まれた細長い窓ガラスに刻むメモリを確認する。

「1オンスも使ってないよ。ヘルジーボは組織間の短距離栄養分配を阻害するだけだから、局所的にしか作用しないはず。おかげでさっきから周辺組織が、隣が変だぞ! どうしたんだ! って感じでうるさいうるさい!」

 ソーニャは鞄を埋め尽くそうとする組織に怒りを覚える。こうなったら、と呟く彼女はスロウスを呼び寄せて、組織から鞄を奪い返してもらう。
 奪取した鞄のチャックを開けて新しいノズルを取り出し、今まで使っていたガンスプレーの先端を取り換える。
 新しいノズルは本物の注射針で、赤い組織の間に突き刺し、引き金を握れば、針を刺された組織が内部から膨れる。
 成長著しかった赤い組織は、色を失い萎えてしまう。ただ、ソーニャの足が踏みつけると萎えた組織は健在な粘着力でブーツを引っ張った。
 
「おのれぇ……成長を阻害するためにヘルジーボを注射しないといけないけど。そうするとスロウスが食べられない。なんせ、薬効によって内臓の表面組織がダメージを受けて消化障害を起こしかねないからねぇ……。中和剤を使うのは手間だし、分量を調整するためSmの安静が必要になる。だけどヘルジーボを使わないと、この成長に勝てない。うむ、やるしかないか……」

 決断を迫られた少女にギャレットは通信する。

『飛行場からの情報を伝える。ミニッツグラウスは大きく旋回しながら着実に上昇を続けている。今後も異変があればすぐに知らせる』

 管制塔のほうからは街中を飛ぶハイジャック機が視認でき、二人の管制官が双眼鏡などを駆使して動向をつぶさに監視する。
 逆に機体からも地上がよく見えていた。
 マクシムは嘲りの眼差しを小さくなった町並みに振りまく。
 アレサンドロが、通信が入ったぞ、と告げる。
 銃口を突き付けるマクシムが、誰からだ? と尋ねた。
 
「保安兵からだ! なぜすぐに街を出ないのかって」

「こう伝えろ! 名残惜しくて、ってな!」

 ソーニャは告げる。

「あともう少し注射させてもらうよ。ヘルジーボなら機体全体の負担にならないと思うから。そう願ってるから」

『それは、確かにそうだと思う。ヘルジーボはSmにとって溶接みたいなもんだからな。溶かすだけだが。ほかの薬剤と比べて組織を局所的に沈黙させるに留める上、導管中に入って運ばれたとしても、ヘルジーボの使用は想定されているから、ミニッツグラウスに充填したRCd0+型工業血液に含まれている抗体で解毒もできる。それでも副反応がないとは言い切れないが』

「変異が工業血液にも影響を及ぼしてる可能性もあるから? 例えば、変異した組織の産生物の影響とかで抗体の特性が変わったり……」

『それ以外にも懸念は多い。外科的インシデントとか。導管自体が何らかの器官に偶発的につながって、ヘルジーボがダイレクトに器官に届いて、その機能の一部でも停止させたら』

「それもありうるけど。まだ、可能性の範囲でしょ? こっちは現実で本当にそれどころじゃない事態に直面してるの。そっちはいつでも脱出できるだろうけど。ソーニャは狭い空間にとじこめらてるの」

『まさか緊急脱出の方法がないとか言わないよな?』

「大丈夫。もしもの時はレクチャー通りにパラシュートを使って脱出しますよ~」

 そう言いつつ、すっかり存在を忘れていたパラシュートを、ジャスチャーでしゃがませたスロウスの首から降ろす。

『いいか、ドラゴンウィングは対象年齢三才以上だが安全面は絶対じゃないぞ?』

 わかってますよぉ、と緩い口調で周りの組織に投与を続けるソーニャ。
 ベンジャミンの不満は、無線に乗った鼻息が如実に表す。

『ならいいが。俺も流動安定剤を投与するつもりだったが、ひとまず鉄分も補充も含めて後回しにする。そちらの作業が完了次第、教えてくれ』

「了解! スロウス。手で組織をこの骨から慎重に引きはがして。皮膚が破れないように」

 ソーニャは浮き上がる肋骨を手でなぞり、皮膚組織を手で叩いて、双方を区別して見せる。命令が的確なのか、Sm自体が優秀なのか、その両方の相乗効果か、即座に行動に移すスロウスは、皮と肋骨に横を向き、肩をつける。
 主の手で額に巻いてもらったヘッドライトが手元を照らし出し、骨の爪で慎重かつ手際よく皮と組織の接合部を分離していく。

「ベンジャミン。機内は真っ暗なのかな?」

『どうしてだ?』

「その、窓ガラスがある場所がね脂肪の塊みたいなものに隠されて機内がわからないんだけど。ソーニャたちのヘッドライトの光は……」

『今更気にしても遅い。それにもし犯人に気づかれてもスロウスが何とかしてくれるんだろ?』

「確かに。その時は、全面戦争じゃいッ」

 仁義なき戦いを覚悟する老兵のような面持ちと声色で告げる少女。
 無理はするなよ? とベンジャミンは釘を刺した。
 主の命令一つで反転するスロウス。その後ろの位置でソーニャは、肋骨に背中を押し付け、両足で皮を押し退けると、背面の組織に注射を繰り返し、空間の安全を確保。定期的にスロウスのコートのスリットを暖簾のごとく持ち上げて、太い脚の間から仕事ぶりを確認。それから片手に持つメスを振るい、成長を続ける赤い組織を切っていく。

『薬に頼るのはいいが、根本的な解決も模索しろよ? 今はまだヘルジーボで済んでいるが内科系の異常は症状が分かり難い分、薬の副作用も判断し難いし、いざ症状が出たら致命的になる。だから薬物投与があまりにも必要だと感じたら、おとなしく逃げたほうがいい』

「でも今いるのは表層部分だから薬物の影響も限定的になるよう管理できる。必要なら、徹底的に対処するつもりだよ。あるいは、切り取った安定組織を傷口に張り付けて、成長を抑制する」

『そいつは、熟練の職人だって難しい技だ。できるのか?』

「いざとなったらやるしかない。そっちこそ深部にいるんだから、あんまり喋ってたら口の中に組織が入って具合悪くなるよ」

 マスクをしてる、と相手の返答を聞き流すソーニャは上の皮と組織の接着部に狙い定めてメスを投じる。
 狭い空間において、少女が全力で振りかぶったメスは、スロウスの後頭部の肉につき刺さった。
 スロウスはいったん作業を止めて後ろに振り向く。
 スロウスの肩幅程度の空間は確保されているので向きを変えたメスは切っ先以外どこにも触れない。
 暗い眼窩に視線を注がれた少女は精悍な顔つきで遠くを見つめていた。
 主をひとしきり観察したスロウスは何事もないかのように命じられた作業を再開する。
 丸まったスロウスの背中を急いでよじ登るソーニャは、メスを引っこ抜き、スロウスの肩や頭を足場に、上部の組織を切開した。

「大着しないで最初から道具入れに入れて持ち運べばよかった。リックだったらぶち切れてたよ、うん……。いや、逆に今度から、スロウスの首に道具を突き刺して運んでもらうのも悪くないか」

 独り言の合間に、自分が侵入のために切り広げた機体の背中へ手を伸ばすが、すでに組織が癒着して外は見えず、空間もまた作る必要があった。

「ああ、もう塞がってる。切った場所もすぐに……。いいや、上はあきらめて下に徹しよう」

 主従の共同作業で空間がさらに開けると、ソーニャは切った組織の断面に注射を施し、スロウスの襟を手掛かりに降りていく。
 床ならぬ皮膚組織の裏側に着地したソーニャは、足裏の感触に目を止めて、そしてメスで切っていく。
 体を支えるため手を伸ばすと、予期せぬ角度から空間に光が差し込む。
 肋骨側に押し当てたゴム手袋に滑らかな質感が触れ、思わず手を引く。

 機内ではマクシムが振り返って貨物空間を睨むが、組織に覆われた窓には、目新しいものはなく、文句が出る。

「畜生……外が見えねぇ」



 ソーニャは、平常心、と自分に言い聞かせて小声で命令する。

「スロウス……慎重に後ろに下がって、こっちに振り向いて」

 スロウスが肋骨に沿って後ろに下がり、振り返る。
 ソーニャは、しゃがんで、と伝えてから、お互いのヘッドライトのボタンを消した。
 そして、手探りでまた下の方を確認し、指先で滑る質感を確かめ、二本の指の間から漏れる明りを頼りにうずくまると、小さな穴から機内をうかがった。
 中は白熱灯が灯り、二人の人物の背中が直ぐに見つかる。
 心臓の鼓動が早くなるソーニャ。
 確認できた二人は、間違いなくドレスコードに引っかかる服装で、痩せたほうは立って機体の先頭に正面を向け、もう一人はしゃがんだ姿勢で太い脚の間から細い足首が横たわっていた。
 合計四本の足を並べた太った人間、なんて思わない。ブーツをはいた足の間にあるのは間違いなく人質の少年だ。

 マクシムが振り返る。

 急ぎソーニャは頭を引っ込めた。

 マクシムは爬虫類のような目で睨んだ窓へ近づいた。そして、機体の内側から蹴りが加わったような鈍い音が鳴り、音の方へ振り返る。

 さっきから何なんだ、と苛立つマクシムは目についた操縦席へと向かう。
 パイロットの顔を覗き込むと、険しい表情に疑念を覚えた。操縦桿を握る手がどこか震えているようにも見える。

「どうしたんだ? トラブルか?」

「……操縦桿が硬くなって」

「そうか。触りすぎたか? は……。言っとくが、機体がダメになったら、お前もお仕舞なんだからな? 慎重に扱え」

 どの口が、と思ってもアレサンドロには発言することはできず。ただ、怒りで眉間に皴を刻む。

 暗所において耳を澄ませるソーニャは機内から聞こえる、さっき奪った菓子よこせよ、という言葉に集中する。
 嫌だよ、と即答する内容が聞こえた気がして自分の存在が露見しなかったことに少女は安堵した。
 また手探りで窓の輪郭を確かめ、ガラスの表面に組織が張り付いたことを確信すると、ヘッドライトを灯した。
 少し目を離した隙に空間の端では、乖離させた表皮の組織が肋骨側と癒着を始めている。
 ソーニャは立ちあがりスロウスに、作業を再開して、と命じてから。窓の厚みと距離を鑑みて小声で無線に話す。

「みんなご報告があります!」

 その時、ソーニャが腰に巻いていた革の道具入れからメスが落下し、足元の皮膚組織に突き刺さる。
 一瞬、呼吸を止めたソーニャは、あぶねぇあぶねぇ、そう呟きながらメスを引っこ抜いた。
 一方のスロウスは命令通り、組織の繋ぎ目を切開していた。コツでも掴んだのか、骨の爪を駆使し、撫でる手つきで、素早く表皮と内組織を切り分ける。さらに、まだ密着する肋骨と表皮の間を足掛かりに、よじ登って、頭上の組織に文字通り着手する。そこはソーニャが諦めた個所の延長上でもあった。
 だがその時、足場の組織が剥離し、スロウスの足が肋骨の曲面に沿って滑り落ちた。
 それは意図せぬもの。
 それゆえ、一気に体重が皮膚へと圧し掛かる。柔軟な皮膚組織が重量に歪められ、形状変化が全体に波及し、ソーニャの足元をぐらつかせて、彼女の体は傾く。片手には通信機、片手にはメス。とっさのことで手が伸びない。

――まずい!









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