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4.鳥瞰図
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死は喪失であると誰かが言う。
なくなってしまったものは補えない。
損なわれてしまったものは戻らない。
死は充足であると貴方は言う。
消えてしまえば傷も罅も関係はない。
ぴったりと過不足なく零になって、少しも欠ける事はない。
*
病院側に頼んで、見舞いの一切はお断りしてもらっていた。
事故の唯一の生き残りとして珍獣めいた好奇の視線に晒されたくはなかったし、そもそも狭い病室に人に詰めかけられて、何を話せばいいのかわからない。息が詰まってしまう。
親類縁者でもそうなのに、それが取材等の見知らぬ他人であったなら尚更だ。
私から他に予定を伝える事もなかったから、退院は一人でする事になった。
お世話になった病棟の人たちは怪訝そうにしていたが、そもそも私にはもう、親しく迎えに来てくれる相手がいない。
衣類の配達を手配して、身軽なバッグひとつで私は院の外に出る。
病院の入口を出て、ターミナルの時刻表を眺める。どうやらバスが来るまでにはまだ時間があるようだった。
父方母方学校の三箇所に、退院の通知をせねばならなかったところだ。
待ちの間に少しでもできる事をこなしておこうと、私は携帯電話を取り出した。手始めは、情の絡まないところがいい。登録しておいた学校の電話番号をコールする。
幾度か電話を回された後、最終的に担任に繋がった。
彼は意外なくらい親身に、私の回復を喜んでくれた。
それから事務的な話になって、卒業式こそ欠席したが、無事卒業はできているのだと教えてもらえた。
卒業証書や成績表を始めとした各種書類も引き取りに来てくれればすぐに渡せるし、体の事があるのなら郵送してもいいとの事だった。
「ただ残念だが、受験ばっかりはどうにもならなくてな。戸森は進学希望だろう? また来年頑張れ。先生も応援するぞ」
そんな発破をかけられて通話を終える。
「また来年」。
その言葉を、私はひどく遠いものとして聞いていた。いずれ訪れないものならば、一年先も百年先も変わりはない。
次いで、父の実家へ電話を入れた。
訪れたその帰りでの事故であったから、そんな必要はまるでないというのに、父の筋は随分と責任を感じてしまっているようだった。
私の今後についても様々に思案してくれていて、その厚情に目頭が熱くなるのを覚える。
ただ如何せん相手方は遠いし、元から迷惑をかける意図もなかった。
「まだ身の回りの整理もあるので一先ずはそちらと体調の回復に専念します。落ち着いたらいずれ顔を出しに行きます」と告げて、こちらへの連絡も終えた。
来訪に際しては、どんなに時間がかかっても絶対に電車を使うようにと幾度も念を押されたのは、仕方なからぬところだろう。
ちょうどそこで、バスが来た。
私は電話を畳んで座席に座る。少しの運動なのに、それだけで息が切れた。
母方を最後に回したのは、別に悪意あっての事ではなく、その逆だ。
叔母夫婦が地元であったから、
衣類等生活用品を用意してもらったばかりのみならず、作った合鍵を預けて家に行ってもらって、事故の一件を関係各所への連絡をお願いするなどと、色々の労を取ってもらっていた。
病院を離れる許可が得られなかったので、とうとう父母の葬儀までもを任せてしまったような始末だ。
だからこちらへは電話で済ませず、手土産持参で直接礼を言いにいくつもりでいた。
親切な人たちだと思い、頼りにもしていた。
有体に言ってしまえば、それがよくなかったのだろう。
家に戻ってから叔母夫婦のところに連絡を入れて、都合のいい日取りをもらって参上しよう。そんなふうに考えながら玄関を開けたら、そこには叔母一家が暮らしていた。
私たち家族の暮らしは丁寧に片付けられて、そこはすっかり叔母たちの家のようになっていた。
自宅へ戻るのに連絡など必要ないはずなのに、なんとも気まずい帰宅になってしまった。
「でも鴇ちゃん、家を開けたままにしておけないでしょう? お葬式で整理もあったしね、あなたにもしもの事があったても、空き巣に狙われても、ね? 人が住まないと家は痛むっていうし」
恩を着せているのか、単になる弁明なのか。
どちらともつかないような話を、叔母はべちゃべちゃとした言葉と笑顔で繰り返す。
「ちゃんと退院の連絡を寄越してくれればよかったのに。病院の近くにね、マンションを用意しておいてあげたのよ。いい部屋を紹介してくださった方がいたの。そこからなら検査に通院するのも楽でしょう? だから連絡してくれればね、最初からそっちにね」
どうやらそういう理屈で、私をマンションの一室に一人暮らしで押し込める腹であったらしい。
「予定が狂った」と言わんばかりの暗い目つきで睨め上げられて、そして廊下の角から叔母の子供たちがこちらを見てにやついているのに気づいて、私は何を言う力もなくしてしまった。
ただ振り返って見れば、これは幸運であったように思う。
父と母の気配がまだ色濃く残る家に独りでいたなら、私はきっと沈んでしまっていただろう。何をする気力も失って、そこから少しも動けなくなってしまっていただろう。
だから新しい環境が整っていたというのは、きっと奇貨であったに違いない。
意外と言ってはなんだけれど、叔母の話は全くの嘘ではなかったらしい。
マンションへの入居は、その日のうちに済んでしまった。私はすぐさまタクシーを呼んで自分の家を離れ、新しい部屋へと引っ越した。
家具も調度ももう調えてあるからと、身一つの気楽な転居だった。
そうして足を踏み入れたそこは、高校を出たての小娘には、不釣合いなくらいに上等だった。
最上階の5階、エレベーター直ぐでダイニングキッチンの他に二部屋。立地はちょっとした丘の上で交通の便は多少悪かったが、その分ベランダからの眺望に恵まれている。まるで鳥の視点から見下ろすかのようだった。
叔母の言う通りに病院への便もよく、各種セキュリティもしっかりとしていて、私の家の事を取り繕うかのような行き届き具合に少しだけ笑ってしまう。
問題は家賃だったけれど、これは一矢報いるつもりで、
「この家の貸し賃の代わりに、あちらの家賃をお願いしますね」
出際に精一杯面の皮を厚くして、そうにっこりと笑ってきた。本当に支払ってくれるかは知らないし、期待もしていない。
不幸中の幸いながら、私には両親の遺してくれた少なからぬ額のお金がある。
一年を永遠の先のように感じるこの身だから、本来ならそこまで切り詰めずともおそらく暮らしに困る事はないだろう。ただそんな資産を、少しでも叔母の為に切り崩すのが嫌だっただけだ。
また病院に近くはあるけれど、無論一人暮らしである以上、発熱した際の対応にも不安は残る。けれどそれも、その時はその時だと割り切る事にした。
私に残された時間は、さほど多くない。
奇妙なまでにくっきりしたその確信から始めれば、大抵の問題は些事として片付けられそうだった。
父母を亡くして、病院を退院して、学校を卒業して、家を出て。
そうして気づいたら、私はどことも繋がりがなくなっていた。
世間からは乖離して、社会からは遊離して、ふわふわと足元定まらない私は剥離している。私と周囲とを仕切る透明なガラスは、眺めの高さを得て一層にその厚みを増したかのようだった。
それでも越して数日は、慌しく過ごせた。
不足の家電を手配して、その他細々とした必要品のメモを作って、調子のいい時に買出して。そのついでに周囲を散策してりして。
これだけはと持ち出してきた両親の位牌は、仏壇がないから悩んだ挙句で冷蔵庫の上に安置した。相変わらず食欲は薄いから、ばたばたと開閉して倒してしまう事もないだろう。
でもそんな諸雑事が片付くと、もうそれきりする事がなくなってしまった。
自分の死期が近いと決め込んでいるのに、我に返って気がつけば、今際の際までにやり遂げたい事が私にはひとつもなかった。
本当に私は、自分自身にもよくわからない、何もない人間なのだなと苦笑する。
そしてそのまま。
いつものように、それなりに。
不安定なまま、私は安定してしまう。
どうせ漫然と過ごすならと、クロッキー帳を引っ張り出した。
ベランダからは街が一望できる。近隣からの目隠しと思しい、背丈のある木がマンションに寄り添うように植わっていたが、この部屋の高さならそれらに視界を遮られる事もなかった。
ダンボールで簡便な椅子を作って、私は幾枚か風景を切り取った。
そうこうするうちに夜になり、今日はもう少し夜景を眺めていようとカーテンを閉めないままにして、それで初めて知った。
このベランダの窓からは、月が真っ直ぐに差し込んでくる。
遮るもののない月光は、蟻の渡る様すら見えそうな明るさで部屋を満たした。まるで水槽の内側のようで、私は窓際のここを寝室にしようと決める。
以来私は、月の好い日は窓を開けて、ベッドに座って長い時間、夜空を描くようになった。
この部屋は月と空とに程近くて、そしてその分、他から遠い。
なくなってしまったものは補えない。
損なわれてしまったものは戻らない。
死は充足であると貴方は言う。
消えてしまえば傷も罅も関係はない。
ぴったりと過不足なく零になって、少しも欠ける事はない。
*
病院側に頼んで、見舞いの一切はお断りしてもらっていた。
事故の唯一の生き残りとして珍獣めいた好奇の視線に晒されたくはなかったし、そもそも狭い病室に人に詰めかけられて、何を話せばいいのかわからない。息が詰まってしまう。
親類縁者でもそうなのに、それが取材等の見知らぬ他人であったなら尚更だ。
私から他に予定を伝える事もなかったから、退院は一人でする事になった。
お世話になった病棟の人たちは怪訝そうにしていたが、そもそも私にはもう、親しく迎えに来てくれる相手がいない。
衣類の配達を手配して、身軽なバッグひとつで私は院の外に出る。
病院の入口を出て、ターミナルの時刻表を眺める。どうやらバスが来るまでにはまだ時間があるようだった。
父方母方学校の三箇所に、退院の通知をせねばならなかったところだ。
待ちの間に少しでもできる事をこなしておこうと、私は携帯電話を取り出した。手始めは、情の絡まないところがいい。登録しておいた学校の電話番号をコールする。
幾度か電話を回された後、最終的に担任に繋がった。
彼は意外なくらい親身に、私の回復を喜んでくれた。
それから事務的な話になって、卒業式こそ欠席したが、無事卒業はできているのだと教えてもらえた。
卒業証書や成績表を始めとした各種書類も引き取りに来てくれればすぐに渡せるし、体の事があるのなら郵送してもいいとの事だった。
「ただ残念だが、受験ばっかりはどうにもならなくてな。戸森は進学希望だろう? また来年頑張れ。先生も応援するぞ」
そんな発破をかけられて通話を終える。
「また来年」。
その言葉を、私はひどく遠いものとして聞いていた。いずれ訪れないものならば、一年先も百年先も変わりはない。
次いで、父の実家へ電話を入れた。
訪れたその帰りでの事故であったから、そんな必要はまるでないというのに、父の筋は随分と責任を感じてしまっているようだった。
私の今後についても様々に思案してくれていて、その厚情に目頭が熱くなるのを覚える。
ただ如何せん相手方は遠いし、元から迷惑をかける意図もなかった。
「まだ身の回りの整理もあるので一先ずはそちらと体調の回復に専念します。落ち着いたらいずれ顔を出しに行きます」と告げて、こちらへの連絡も終えた。
来訪に際しては、どんなに時間がかかっても絶対に電車を使うようにと幾度も念を押されたのは、仕方なからぬところだろう。
ちょうどそこで、バスが来た。
私は電話を畳んで座席に座る。少しの運動なのに、それだけで息が切れた。
母方を最後に回したのは、別に悪意あっての事ではなく、その逆だ。
叔母夫婦が地元であったから、
衣類等生活用品を用意してもらったばかりのみならず、作った合鍵を預けて家に行ってもらって、事故の一件を関係各所への連絡をお願いするなどと、色々の労を取ってもらっていた。
病院を離れる許可が得られなかったので、とうとう父母の葬儀までもを任せてしまったような始末だ。
だからこちらへは電話で済ませず、手土産持参で直接礼を言いにいくつもりでいた。
親切な人たちだと思い、頼りにもしていた。
有体に言ってしまえば、それがよくなかったのだろう。
家に戻ってから叔母夫婦のところに連絡を入れて、都合のいい日取りをもらって参上しよう。そんなふうに考えながら玄関を開けたら、そこには叔母一家が暮らしていた。
私たち家族の暮らしは丁寧に片付けられて、そこはすっかり叔母たちの家のようになっていた。
自宅へ戻るのに連絡など必要ないはずなのに、なんとも気まずい帰宅になってしまった。
「でも鴇ちゃん、家を開けたままにしておけないでしょう? お葬式で整理もあったしね、あなたにもしもの事があったても、空き巣に狙われても、ね? 人が住まないと家は痛むっていうし」
恩を着せているのか、単になる弁明なのか。
どちらともつかないような話を、叔母はべちゃべちゃとした言葉と笑顔で繰り返す。
「ちゃんと退院の連絡を寄越してくれればよかったのに。病院の近くにね、マンションを用意しておいてあげたのよ。いい部屋を紹介してくださった方がいたの。そこからなら検査に通院するのも楽でしょう? だから連絡してくれればね、最初からそっちにね」
どうやらそういう理屈で、私をマンションの一室に一人暮らしで押し込める腹であったらしい。
「予定が狂った」と言わんばかりの暗い目つきで睨め上げられて、そして廊下の角から叔母の子供たちがこちらを見てにやついているのに気づいて、私は何を言う力もなくしてしまった。
ただ振り返って見れば、これは幸運であったように思う。
父と母の気配がまだ色濃く残る家に独りでいたなら、私はきっと沈んでしまっていただろう。何をする気力も失って、そこから少しも動けなくなってしまっていただろう。
だから新しい環境が整っていたというのは、きっと奇貨であったに違いない。
意外と言ってはなんだけれど、叔母の話は全くの嘘ではなかったらしい。
マンションへの入居は、その日のうちに済んでしまった。私はすぐさまタクシーを呼んで自分の家を離れ、新しい部屋へと引っ越した。
家具も調度ももう調えてあるからと、身一つの気楽な転居だった。
そうして足を踏み入れたそこは、高校を出たての小娘には、不釣合いなくらいに上等だった。
最上階の5階、エレベーター直ぐでダイニングキッチンの他に二部屋。立地はちょっとした丘の上で交通の便は多少悪かったが、その分ベランダからの眺望に恵まれている。まるで鳥の視点から見下ろすかのようだった。
叔母の言う通りに病院への便もよく、各種セキュリティもしっかりとしていて、私の家の事を取り繕うかのような行き届き具合に少しだけ笑ってしまう。
問題は家賃だったけれど、これは一矢報いるつもりで、
「この家の貸し賃の代わりに、あちらの家賃をお願いしますね」
出際に精一杯面の皮を厚くして、そうにっこりと笑ってきた。本当に支払ってくれるかは知らないし、期待もしていない。
不幸中の幸いながら、私には両親の遺してくれた少なからぬ額のお金がある。
一年を永遠の先のように感じるこの身だから、本来ならそこまで切り詰めずともおそらく暮らしに困る事はないだろう。ただそんな資産を、少しでも叔母の為に切り崩すのが嫌だっただけだ。
また病院に近くはあるけれど、無論一人暮らしである以上、発熱した際の対応にも不安は残る。けれどそれも、その時はその時だと割り切る事にした。
私に残された時間は、さほど多くない。
奇妙なまでにくっきりしたその確信から始めれば、大抵の問題は些事として片付けられそうだった。
父母を亡くして、病院を退院して、学校を卒業して、家を出て。
そうして気づいたら、私はどことも繋がりがなくなっていた。
世間からは乖離して、社会からは遊離して、ふわふわと足元定まらない私は剥離している。私と周囲とを仕切る透明なガラスは、眺めの高さを得て一層にその厚みを増したかのようだった。
それでも越して数日は、慌しく過ごせた。
不足の家電を手配して、その他細々とした必要品のメモを作って、調子のいい時に買出して。そのついでに周囲を散策してりして。
これだけはと持ち出してきた両親の位牌は、仏壇がないから悩んだ挙句で冷蔵庫の上に安置した。相変わらず食欲は薄いから、ばたばたと開閉して倒してしまう事もないだろう。
でもそんな諸雑事が片付くと、もうそれきりする事がなくなってしまった。
自分の死期が近いと決め込んでいるのに、我に返って気がつけば、今際の際までにやり遂げたい事が私にはひとつもなかった。
本当に私は、自分自身にもよくわからない、何もない人間なのだなと苦笑する。
そしてそのまま。
いつものように、それなりに。
不安定なまま、私は安定してしまう。
どうせ漫然と過ごすならと、クロッキー帳を引っ張り出した。
ベランダからは街が一望できる。近隣からの目隠しと思しい、背丈のある木がマンションに寄り添うように植わっていたが、この部屋の高さならそれらに視界を遮られる事もなかった。
ダンボールで簡便な椅子を作って、私は幾枚か風景を切り取った。
そうこうするうちに夜になり、今日はもう少し夜景を眺めていようとカーテンを閉めないままにして、それで初めて知った。
このベランダの窓からは、月が真っ直ぐに差し込んでくる。
遮るもののない月光は、蟻の渡る様すら見えそうな明るさで部屋を満たした。まるで水槽の内側のようで、私は窓際のここを寝室にしようと決める。
以来私は、月の好い日は窓を開けて、ベッドに座って長い時間、夜空を描くようになった。
この部屋は月と空とに程近くて、そしてその分、他から遠い。
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